創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会・公明をブッた斬る-33

2019-04-30 07:15:23 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
    ------(P155)---(以下、本文)-------

 政教一致“行進曲”で政界進出
◆ そもそもスタートは政治折伏の野望
 既に述べたように、戸田・創価学会が政治へ進出を宣言したのは、二十九年のことである。
 広宣流布の成る日は、「ある理由により後二十五年以内と確信」したといっている。ある理由とはなんであるか語っていないので知る由もないが、ともかく戸田は確信したワケである。その確信に基ずき、彼が宣言したのは--
「……国立戒壇建立の御教書は衆議院に於て過半数を以て発せられるものである故これが獲得の為にも正法弘通の活動は今後新生面が展開されなければなるまい。昭和二十九年度はその準備の年として邪教との法戦の徹底化、民衆に対する折伏の徹底化が計られる期間であろう」(「大白蓮華」二十九年一月号)
 衆議院における過半数獲得のために正法弘通の活動は新生面を展開するとは、即ち政界進出のことを指す。ハッキリといいきっているのである。「大白蓮華」のこの一文は、折伏行進への号令ではなく、やはり政治宣言なのだ。

 その二年後、第四回参議院選で創価学会は六人の侯補者を立て、三人を当選させるのだが、選挙直後、今度は「大白蓮華」の連載記事で、こう書くのである。
 「このたびの参議院選挙戦では、大いに社会の注目をひいた。宗教団体であるわが学会人から、政治家を出すのかということについて、内外ともに、いろいろの議論が出ている。たとえば日蓮正宗を国教にするとか、また何十年後には、衆参両院の議席を学会人で占めるとか、または創価学会が日本の政治をとるとかいう、あらゆる妄説が唱えられている現状である……」
 要するに、世間の注目を惹いたことで得意になっているだけのこと。その二年前の「大白蓮華」では、国立戒壇建立の御教書を出させるため、衆議院の過半数を構成すべく、正法弘通の活動を展開するといったのに、それを指摘されると、今度は、「妄説」だという。当り前の批判が、どうして「妄説」になるのか。自らは、途中経過として二年前の「衆議院過半数説」の否定はしていない。こうした、すぐにばれるウソやハッタリを連発して煙にまくのが戸田弁説の極意なのだろうが、それにしても、ひどいものである。やはり、かなり強度の精神異常と診断しないわけにはいかない。

 さらに、もう一つさかのぼれば、戸田の第二代会長就任挨拶(二十六年)の中の一節がある。
 「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに御本尊を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである」
 まさしく、往きつ戻りつ、ホンネ隠しの一例である。このような戸田の筆法(弁法か)を受け継ぐ池田大作の跪弁は、三十四年参院選直後の主張にも明らかである。この時、創価学会は参議院議席を三人から九人にふやしている。

 「……学会は議員を国会におくって、国会内に小会派をつくるのではないかと懸念しているむきもあるようだが……」(「聖教新聞」三十四年六月二十日)といいながら、「ただ学会から推薦されて立った議員たちが、将来時代の要求として大衆の要望としてそのようなものをつくらざるを得ない場合にはやむをえないことであり、大衆の要望にこたえていかなければならないと思う」と続ける。
 ここでは、再び戸田の「妄説」云々は、「大衆」の名において「妄説」ではないことにすり替えられる。
 「日蓮の遺命」と「大衆の要望」、共に漠々たる大義名分が巧みに使い分けられていることにも、ご注意あれ。

 三十六年、公政連(公明政治連盟)結成、三十九年、公明党結成となるのだが、この変化は戸田城聖が「妄説」といったことが「現実」になるプロセスだったのだ。つまり戸田が、あたかも世間に創価学会の政治進出を云々する「妄説」があるといったのは、あくまでホンネ隠しだったということで、悪質なヤミ屋的論理操作である。

公明党旗上げ、政教一体路線宣言
 政教一体路線で政治に進出してきた公政連、公明党であるが、参議院の小会派に属した段階の議員は、殆どみるべき政治活動をしてはいない。試みに、三十六年度の一年間、第三十八通常国会(三十五年十二月二十六日~三十六年六月八日)、第三十九臨時国会(三十六年九月二十五日~十月三十一日)の参議院における成立法案に対する学会選出議員の表决態度をみると、三十八、三十九両国会を通じ、成立法案二三八件につき、賛成は二三三件(九七・九%)である。反対は五件(一%)。また、三十九国会では全部に賛成している。

 第四十通常国会(三十六年十二月九日~三十七年五月七日)においては、内閣提出法案一六六件(うち継続六件)のうち二件に反対し、そのほか三十七年度予算案三件に反対している。予算案に反対したのは、これが初めてである。そして、この三国会を通じてみる時、第三十八、第三十九国会に比べ、第四十国会における法案反対は目立って増えているのである。即ち予算案(三件)、地方税法一部改正案、所得税法一部改正案ほか九件だ。

 社会党機関紙局発行・中央党学校編「創価学会・その問題点」(三十七年発行)では、「個々にわたって各委員会での審議状況を見ると、学会議員の発言は他の会は会派の議員にくらべて圧倒的に少ない。柏原、原島の両議員は、第三十八議会中全然発言していない。また、反対法案に対する態度も、反対の内容がまことにあいまいである点が指摘できる」と書いている。
 この時期、学会は参議院に九人の議員を送り込んだが、小会派・無所属クラブに所属しているにすぎなかった。とはいっても、先の第三十八、第三十九の両国会に比べ、反対法案が増えたのは、翌、三十八年参議院選挙を控えていたから、いささかなりとも野党色を打ち出す必要はあったのである。

 三十七年参院選挙において、公政連は九人当選、十五議席を獲得し参議院「公明会」を結成する。創価学会が大石寺に大客殿を完成させ、池田大作が法華講総講頭となるのが三十九年である。三百万人総登山(大石寺詣り)が始まり、政教一体にも加速がついた時期だ。五月三日、創価学会第二十七回本部総会で、衆議院進出决定を発表した。
 この日、会長・池田大作の演説で、そのことが明らかにされる。そのまま、戸田の政治進出路線の踏襲であった。
 「……公明政治連盟を一歩前進させたい。公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか(大拍手)」(「聖教新聞」三十九年五月四日)
 「……政治部の使命について私は(「大白蓮華」の)巻頭言で『われらは政党ではない。すなわち創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものでもない。あくまで参議院、地方議会、政党色あってはならない分野に議員を送るものである』という意味の一項目を書いておきました。したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うのであります。……恩師戸田先生も時きたらば衆議院へも出よとのご遣訓があったのであります……」(同)

 創価学会の政治進出は「妄説」であると戸田、池田が口にしてきたのは、右の池田演説にその根拠が示されている。まこと、簡単極まる詭弁である。  創価学会という政党(=創価学会党)はつくらないが、政治に進出する時は学会の政党(=公明党)をつくる--それだけのことだ。詭弁というほどのものでもないかも知れない。本来の政教一体路線を、ここではっきりと宣言したまでのことである。
     ----------(次回に、つづく)---------160

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