--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党をブッた斬る 藤原弘達
…S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
------(P134)---(以下、本文)-------
◆ この創価学会に未来はない
仏教のみならず、神道、キリスト教、回教……その他、日蓮正宗以外の宗教は総て邪教だとする創価学会の独善性、偏狭性、即ち狂信性は、他に類をみない、すさまじきものである。彼らは、他宗を邪教、インチキ宗教、オガミ屋と、口を極めてののしる。
南無妙法蓮華経の御本尊を拝み、題目をあげれば病気が治る、カネが儲かる--創価学会だけはインチキでなく、邪教ではないのである。御本尊を拝んで御利益があることはリクツでは説明できぬ、体験したものでなければわからないのだ、と強弁する。
他を邪教よばわりする時、結局は己にそれがハネ返ってくる。そのパラドキシカルな表現を、あくまで否定し続けるのである。天にツバする者の譬えとは、このことだ。
--創価学会の世帯数変遷と主な事件--
しかし、私がここでいっておきたいのは、このような創価学会・公明党が、未だに政教一体路線を推し進めている危険な存在だということである。いくたびとなく私は繰り返してきたが、政治と宗教はあくまで別個の領域にあるものとし、厳然と区別されなければならない。これは、近代国家原理の大前提である。
古代、中世を通じて、宗教は権力にタッチすることで堕落し、人間を幸福より不幸にする機能を果たし、時に大衆を欺き、大衆をマヒさせる阿片ともなったことは、マルクス主義の宗教観ならずとも、宗教に対する透徹した重要な見方である。
宗教が権力に近づく時、必ず反動的役割を果たすものである。それ故に、近代社会においては、宗教はできるだけ人間の内面世界で機能するものとしてその領域を確定し、政治と宗教の関係を混同させないようにすることを基本的な建前としている。
しかるに、創価学会・公明党は、依然としてこの近代社会における大原則をふみにじり、政教一体、政権獲得を夢みるのである。
十五年前、政教分離を天下に約束した後でも、池田大作は創価学会“奥の院”(公明党議員との懇談会)で放言している。もちろん、形は放言だが、ホンネである。
「少し力をつけて日本中を変えよう。ケン力学会はじめよう。それでまたたたかれて…静かになって……これをくり返そう。忍従ばかりで、いい顔ばかりしていたら成仏はできない。
公明党が眼中になく暴れ回わるのはいいことだ。だいたい日蓮主義というものは元来過激だね。その方が男らしいよ。おとなしいと『みんな日蓮宗ですね』と妙信講あたりがいうよ。
どうみても日蓮大聖人の仏法ははげしいね。だからヘタ読むと気違いになるよ…… またいつかやろう。もう少しガッチリしてきたら。もうそれ以上いかないというとき、いっぺんやろう。こっちは大折伏を号令するから」(段勲編『創価学会・公明党の研究」)
池田が、「日蓮大聖人の仏法ははげしい、ヘタ読むと気違いになる」といっているのはまさにホンネだ。 ところで、創価学会では、“依義判文”という言葉を使う。
学会で軍歌を歌うことについて解説するに、依義判文では、「日本男子と生まれてきて、戦の場に立つならば」を、邪宗との戦いの場とする。「散るべきときに清く散れ」は、弾圧にひるむなであり、「御国にかおれ桜花」は、日蓮正宗は桜花のように薰れ、であると解釈するわけだ。“依義判文”は、こじつけには、まことに便利な教えである。
池田大作=ホメイニ説は内藤国夫も説くところだが、イスラム教シーア派のホメイニ指導する体制を“依義判文”で日本に日蓮正宗政治をもちこもうというに至っては、時代錯誤の狂信と呼ぶ他ない。
創価学会は信教の自由の下で、かくも巨大な教団を組織し得た。わが国憲法では、宗教に対する国家公権力の保護、援助、支配、統制を厳しく排除している。憲法第二十条、第八十九条で政治と宗教の分離をハッキリ規定している。即ち、信教の自由の裏づけである。
創価学会の独善性、排除の論理は、自ら信教の自由をふみにじり、ただただ権力そのものにとりつこうとする。既に、政教一体路線で、公明党の最近の動きは権力の一角に食いこむ手立て(自民党との連合論)をとり始めたとみなければならない。政教一体路線の学会・公明党が権力志向で突っ走る今、彼らの果たす役割は最も反動的で狂信的勢力としての「主役」以外にはない。これぞ、まさしく、ファシズムへの道である。
私が繰り返してきた創価学会・公明党による政教一体路線がもつファシズムの危険性は、全世界に狂信とテロの嵐が吹きまくる現在、いかに強調しても強調し過ぎるということはない。
ファシズムが、ヒトラー、ムソリーニのような制服姿で進軍してくるとは限らない。ナチの抬頭について、『ヒトラーとは何か』(セバスチャン・ハフナー著、赤羽龍夫訳)の中に、次のような記述がある。
「……ヒトラーは决してそう簡単に極右に組み入れるわけにはいかないのである。むろん彼は決して民主主義者ではなかった。彼は人民主義者だったのだ。つまり自分の権力をエリートにでなく、大衆に依拠する人間だった……彼の最も重要な支配の手段は大衆煽動のデマゴギーだった。そして彼の支配の道具は、决して組織された階層秩序ではなく、相互の調整もなく、先頭に立つ彼という人物によってただ一緒にまとめられている無秩序な大衆組織の束だったのだ……」
政教一体の実働部隊、創価学会の政治出張所となっている公明党の「僧兵」的役割については、第二部において究明しなければならない。
----------(次回に、つづく)---------141