創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会・公明をブッた斬る-14

2019-04-11 07:44:22 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
    ------(P77)---(以下、本文)-------

4 創価学会的メンタリティを病理診断する
  最初は少数派被害者意識・怨念のとりこ
◆「大石寺はどうなってもいい」
 話を戦時下に戻す。戦局悪化の昭和十八年、政府は宗教団体法により各宗各派の統合を図り、宗教の戦争遂行協力体制をとらせることになった。神道はじめ、仏教、キリスト教、その他、大勢に順応していった。
 この時、牧口の創価学会は、あくまで統合に反対した。日蓮宗の統合とは、身延への統合である。「邪教の本山へ統合など論外だ」と牧口は激しく本山・大石寺の動きを非難した。大石寺の布教監・小笠原慈雲いうのが身延合同の急先鋒だったが、牧口の創価教育学会の若い会員たちは大石寺登山を行なうと、小笠原慈雲の体を担ぎだし、たんぼの中に叩き込んだという。

 昭和十七年版「国民年鑑」で日蓮正宗と日蓮宗の比校をみると--
          (寺院数)     (僧侶数)        (檀信徒数)
 日蓮正宗        75      211          87041
 日蓮宗        4377    14956        2759722
 法華宗         580     1034         598722
 --となっている。日蓮正宗は、異端の小宗派である。その中で、創価教育学会は会員数二千とも三千ともいったが、これまた少数派にすぎない。その少数派の創価教育学会は、牧口の指導で本山に“殴り込み”をかけるほど、まさに「強盛」な信徒団体だったのだ。
 十八年に大石寺は僧俗護法会議を開き、“邪宗”の本拠・身延へは絶対合同しないと決定、単独で宗制の認可をとった。同じ頃、“神札問題”が起こった。政府が、学校、職場、隣組を通じ、国民が伊勢神宮の神札(大麻)を拝むよう指導すると、牧口の創価教育学会はこれを拒んだ。会員たちは、「神札などというが、刑務所で囚人がつくったものだ。刑務所で印刷したものに、なんで御利益があるか」と笑い、わざわざ、お礼を焼き捨ててみせた。

 大石寺の御本尊には「南無妙法蓮華経」の下に「天照皇大神」と小さく書かれてある。日蓮正宗は日本の天皇も正宗に帰依する時がくるというものであるから、本尊の他は拝むことはできない、ということだ。
 戦局悪化の中で、会員たちは「日本人が邪教を信じたがため、国が滅亡の危機に立たされた」と教えられた。「国難を救うものは、日蓮正宗の教えだけ」という悲壮感は、牧口から会員たちの中で増幅していったのである。国民生活の窮乏化が進むにつれ、国民の不平不満のハケ口が、牧口の弟子たち会員の場合、神札問題を契機に爆発したわけだ。
 本山では牧口を呼び、時局に鑑み神札拒否を撤回することを勧告したが、牧口はこれをハネつけた。本山としては、時局下の保身上からも、牧口を放置できなかったのである。大石寺との神札問題が物別れに終わった帰途、牧口は同行の戸田城聖にいったそうだ。「いまこそ日本を救い、民衆を救うため国家諫蟯(政府をいさめて邪教を禁じ、正法が流布するよう訴える)のときなのに、本山はなにを恐れているのだ。もはや、本山が、たとえどうなろうと、それは構わない」

 正法を立てることが第一で、日蓮の教えでは正法がすたれ邪法のはびこる日本はこのままでは罰が当たる--強盛な正宗信者・牧口常三郎の信念は、この時期、まさしく狂信的なまで奔騰していたのである。大石寺がどうなろうと構わぬという確信は、元来は日蓮の元寇に際しての姿勢に通じるものだが、二代・戸田城聖から三代・池田大作へと引き継がれていく間に甚だしく変化し、殊に、戸田城聖死後は俗物的独善性をいたずらに深めることになっただけだと、私はみている。

 神札問題から間もなく、創価教育学会は弾圧を受ける。発端は、東京・東中野のクリーニング業・陣野某、有村某(創価教育学会理事)の二人が流言蜚語で検挙されたことである。近所に子供を病死させた家があり、そこへ折伏にでかけた両人が、「子供が死んだのはバチがでたのだ。今の日本は、正しい宗教に入り大善生活をしなければ、まだまだバチがでる」と説いた。
 悲しみのさなか、バチだと極言されたから、親が怒って警察に訴えでたため、陣野、有村の逮捕となった。両人の折伏の言葉に戦局についての批判があった、という理由だ。

 続いて、伊豆に講習会旅行中の牧口、戸田城聖、さらにその他幹部が検挙されることになった。
 戦前の創価教育学会は、十八年のこの検挙で、殆ど壊滅的打撃を受けた。検挙された者の大半が転宗をした。残った三人、牧口は獄死、戸田域聖、矢島周平は敗戦直前まで獄にいた。矢島周平は戦後、戸田に代わり、一時、理事長になったことがある。
 獄中で一人息子の戦死を知り、牧口常三郎は家族に手紙を書いている。
 「ビックリシタヨ。ガッカリモシタヨ……貞子ヨ、オ前ガシッカリシテ居テクレルノデ誠ニタノモシイヨ……私モ元気デス。カントノ哲学ヲ精読シテ居ル。百年前オヨビ其ノ後ノ学者共ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ、『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文ノ通リデス……」

 ビックリシタヨ、ガッカリシタヨと息子の戦死を嘆く父親は、なお獄中から信仰を書き送っている。「……『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ自分ナガラ驚イチ居ル」云々の文面には、日蓮正宗信徒というより、価値論についての彼なりの自信が溢れている。
 この手紙は十九年十月十三日付。その一か月後、牧口は老衰と栄養失調で獄死する。
     ----------(次回に、つづく)---------82

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