創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会・公明をブッた斬る-10

2019-04-07 11:29:17 | Weblog

  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
    ------(P57)---(以下、本文)-------

3 池田・創価学会のあくなき野望と増上慢
 大石寺対学会の反目抗争はなぜ起きた
◆ 二つあったのか“日蓮正宗”
 創価学会は、日蓮正宗大石寺の信徒団体ということになっている。あの悪名高き“折伏”盛んなりしころ、創価学会は“新興宗教”と呼ばれることを嫌った。新興宗教と呼ばれるとアレルギー反応を起こし、相手にかみついたものだ。昭和三十三年に出た『創価学会』(小平芳平著.日本放送出版社)の中で、著者の小平は次のように書いている。
 「創価学会自体の主張からいっても、また世間一般の論評からいっても、創価学会がほかの宗教団体と大きくちがっている二つの面があります。

 その一は創価学会ではあらゆる宗教を邪教だときめつけること。その二は創価学会と日蓮正宗との関係です。(中略)  創価学会では、宗教には正しい宗教と邪宗教があるといい、日蓮正宗以外はぜんぶ邪教だといいます」  「世間の人は創価学会を新興宗教だといいます。
 創価学会では、宗祖日蓮大聖人以来七百年にわたって、仏教の真髄を正しく伝え、説き弘めてきた唯一の宗教が日蓮正宗(富士大石寺)であり、創価学会員は一人残らず日蓮正宗の信者になっているから、新興宗教ではないといいます」
 著者の小平芳平は当時、創価学会教学部長、現・参議院議員公明党災害対策本部長。創価教育学会以来の会員、戸田城聖直門であった。ついでながら、右の『創価学会』の出版元である日本放送出版社とは、NHKの「日本放送出版協会」とは関係ない。創価学会流、あやかりネーミング。同じく小平芳平『創価学会』が、三十七年に鳳書院から出ている。日本放送出版社版と内容は同一のものだが、前記引用文は削除してある。序文の中で、会長・池田大作が、--

 「…小平教学部長が、正義感をもって一書を著わし、学会にたいする世の迷妄を正し、学会を正しく認識させんという真心を披歴したので、余はこれを許して、小平芳平著『創価学会』を出版することにした……」と書くのだが、三十歳を越えたばかりのくせに、会長ともなれば、「余は…許した」と書くムードが、既に池田・創価学会に生まれている。小平の書いた『創価学会』の中にあると同じく、池田大作は三十五年、第三代会長就任式において、「わが創価学会は日蓮正宗の信者団体であります。したがつて私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます」と、謙虚に述べるのである。

 これを創価学会会則にみると、第一章・総則の第四条(目的)として、「この会は、日蓮正宗を外護し、弘教および儀式行事を行ない、会員の信心の深化、確立をはかることにより、日蓮大聖人の弘法を広宣流布し、もってそれを基調とする世界平和の実現および人類文化の向上に貢献することを目的とする」とある。
 ところで、もう一つ、「創価学会」規則がある。こちらの方は宗教法人「創価学会」だ。二十七年、認可をとったもので、目的条項では、「……人類文化の向上に貢献」の後、「これに必要な公益事業、出版事業および教育文化活動等を行なう」が加えられている。なお、この「会則」と「規則」は五十四年、大石寺対創価学会の対立・抗争関係修復のため、池田大作会長辞任の時まで、なぜか、一般会員には公開されなかったものという。この一事をもってしても、創価学会が民主的に運営されていたとは、とうてい考えられない。

 宗教法人「創価学会」について、大石寺側では当初から危惧していた。そこで、--
 ① 創価学会会員は信徒として各寺院に所属させる、
 ② 日蓮正宗の教義を守る、
 ③ 三宝(仏・法・僧)を守る--ことを誓わせた。
 しかし、現世(社会)においては宗教法人・大石寺と宗教法人・創価学会は同格である。つまり、二つの日蓮正宗というわけで、違うところは、大石寺には御本尊があるが、創価学会には御本尊がない。教義上は、御本尊をもった大石寺がやはり本山だということは絶対的となる。

ヤクザまがいの大石寺対学会の縄張り争い
 大石寺と池田・創価学会の抗争は、池田が本山に詫びを入れることで、一応の結着をみた。  両者の反目・抗争が、教義上からのものだろうと、勢力争い、カネにまつわるものだろうと、所詮は教団内部の問題であり、われわれ第三者がお節介をやく必要はさらさらない。ただ、黙視してならないのは、この抗争劇にみられる池田・創価学会の野望の構図である。
 モノ、カネを動かし、その力で本山・大石寺も意のままに操り得ると考えてきたのが、池田大作の“増上慢”だ。「大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主猊下に御奉公申し上げる」と言葉は一応謙虚だが、ホンネはどんなものか。
「物の布施という次元からいえば、創価学会は大聖人様の遺命である正本堂建立をしました。誰がしましたか、途中で創価学会がしたんです……」(五十二年一月三日、会長元旦動行挨拶)となるのである。
 この正本堂が国立戒壇か否かで、国立戒壇を主張する妙信講(日蓮正宗法華講支部妙信講=信者二万世帯)と創価学会間の激しい対立が生まれた。言論・出版妨害事件で、創価学会は国立戒壇を否定している。会員から集めたカネで建てた正本堂を国立戒壇とは呼べないが、ツジツマを合わせなきやならない。そこで、正本堂を事実上の「本門の戒壇」と呼ぶことを本山に迫った。
「国立戒壇を放棄した創価学会の建てた正本堂は国立戒壇でない」という妙信講の主張を本山も認めたから、第一ラウンドでは創価学会の負けだった。

 これに対して、創価学会からの圧力に屈した大石寺が、四十七年になり、「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と、折衷案で妥協した。第二ラウンドでは創価学会がポイントを稼いだ。ここから、本山を巻き込んだ妙信講対創価学会の争いはさらにエスカレートしていき、最終的に妙信講の主張が通ったのである。
 妙信講との抗争から、教義問題が尾を引いてくる。やがてそれは、本山若手僧侶の中から創価学会批判の火の手となって燃えあがるのだが、創価学会はこれに対し終始、力でもって対抗した。創価学会の組織、カネにものをいわせるやり方--文字通りのパワー・ポリティクスである。

 結果は、一層事態を悪化させ、五十三年、第一回日蓮正宗全国檀徒総決起大会となる。反池田・反創価学会勢力の結集だ。そこで創価学会は池田会長以下、幹部二千人が大石寺へ行き、池田が日達法主にお詫び挨拶をする。創価学会の“お詫び登山”である。言論・出版事件の時を思わせる、懺悔ぶりであった。しかし、事はこれで収まらなかった。
 池田・創価学会の偽装作戦は功を奏さず、五十四年、池田大作の会長辞任となった。大石寺と対立した池田・創価学会は、形の上では敗れたわけだが、しかし、これをもって、池田・創価学会時代の終焉、創価学会の新生とみるのは当たっていない。
     ----------(次回に、つづく)---------62

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