秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

スジをトル人、トラヌ人。

2013年03月19日 10時09分47秒 | Weblog

 ボチボチ蜜柑の季節もお終いですナ。去年の激暑のせいか、
今シーズンの蜜柑は糖度が高かったような気がします。

私のような貧民がスーパーで購入している安売りのでも、けっこう
甘味がありましたね。なにかイケナイモノでも注入しているのでは?
と、勘ぐりたくなるほどです。(マサにゲスの勘ぐりです)

激暑を差し引いても、年々甘く改良されているのは農家の方の努力
のおかげなのでしょう。阿部クン、そこんとこ忘れないヨーに。

ところでこの蜜柑のスジなんですけど、大雑把にとる人、綿密に一筋
残さずとらねば気にいらない人、そしてまったくとらない人がおります。

 

私の場合、まったくとらない。皮をむいて、三つほどに割ったら、その
まま三口でゴックン・・・。蜜柑農家の人たちに顔向けできない食べ方
をしております。この場を借りて深く謝罪いたす所存であります。

兄はそうではなかった。そこまで神経質にとらいでも・・・っつうくらい
一筋一筋丁寧にとっておりました。

それがその後の二人の人生の明暗を分ける予兆であった・・・。

着実な生活を歩む兄、エー加減で行き当たりばったりのような
暮らしを続ける弟。

これから人生のパートナーを求めようとしている人は、こっそり相手の
蜜柑の食べ方を観察するが、ヨロシイアルョ。

ま、確証の無い話はどーでもいいか。しかし、世の中、スジをとる、とらん
じゃなくて、スジを通さない人間が多すぎて困ったもんダ。

え、ワタクシのコト?いや、私の場合、それ以前の話・・。もうちっと生き方
にビシッとスジを通しなさい!と、自己反省・・・・。

三月末から新企画で頑張る予定です。今までご迷惑、ご心配をおかけした
方々、どうか暖かくなくっていいから、緩やかな目でみてやっておくんなまし。

なんてふざけているようですが、いや、もうホント後がないですから・・・・。

 


新撰組最後の屯所、不動堂村。

2013年03月19日 07時05分41秒 | 京都非観光迷所案内


H15年に建てられた新撰組石碑。場所はリーガホテル前。

新撰組の屯所といえばだれもが思い浮かべるのが「壬生」。(思い浮かべ
ないヒトもいると思いますケド)。しかし180人にも隊士がふくれあがった
隆盛期(慶応元年頃)、住宅問題がもちあがってきたワケです。そこで

近藤さんが「こりゃ、困ったの歳よ、なんとかせにゃなるめい?」と言ったかどうか
はともかく、

「ふふふ、それについちゃ、ちょいと名案があるぜ、コンドーさん」、と答えたか
どうかも知らないけど、なにかと因縁のあった「西本願寺」に無理難題をふっか
けたんですよね、歳三さんは。

「東本願寺」が禁門の変で丸焼けになったことも理由の一つですが、東に比べ
「西本願寺」はどちらかといえば長州ビイキだったとか。

移転問題が持ち上がり、「おにっさん」(西本願寺)は大慌てで、袖の下をばらまい
たり、接待攻勢でなんとか切り抜けようとしたけど、腹にイチモツある歳さんは
ガンとして譲らず、とうとう境内北側の集会所に屯所の看板を掲げちゃいました。

さあ、それからが大変ですわな。調練と称し、大砲はドンドンぶっぱなすわ、局中法度
を破った隊士の首をコロコロ切り落とすわで、門主はじめ坊さんたちはノイローゼ状態に。

「あ~、もうかんにんどっせ~!こうなったら土地も建てもんも、え~っい宿替え代も
全部持ちまっさかい、どうぞ引越しておくれやす~。」てな話になったとか。

こうして新撰組は濡れ手に粟で、新本陣を手に入れたのです。場所は「おにっさん」
の西南の不動堂村。土地の広さは約100メートル四方、御殿のような本陣だったとか。
 

バブルの頃の悪徳地上げ屋も顔負けですナ。

そうして完成した屯所(1867年6月15日)ですが、その年の10月には大政奉還、
ホントにバブルのように新屯所は歴史の表から姿を消してしまいました。

その最後の屯所があったのがこの付近だそうです。

その後の新撰組は東へ北へと転戦を繰り返し、やがて消滅・・。「ホレみてみ、仏罰
じゃ、仏罰じゃ」、と信徒たちは言ったとか言わなかったとか。きっと言ったんダロナ。