「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「一番生り!」

2020年06月06日 | 晴耕雨読

                       

コロナコロナで大騒ぎしていた4月半ば。「世の中どっちに転ぼうとも、土と水と太陽があれば植物は育つ」と信じて植えた夏野菜。
その先陣を切ってキューリの一番生りが実った。根っこの影で横たわっていたのに気付くのが遅れて、商品にはならないほどの大きさに成長していた。
もっとも、商品などにするわけではないので、太かろうと曲がっていようと、この手で作った逸品である。味だって間違いなく新鮮なキューリの味。しかも我が家の一番生り。まずかろうはずがない。

スーパーに並ぶキューリもトマトもピーマンも、み~んな同じような型にはめたようなサイズが揃っている。ということは、少し曲がったり、器量が悪かったりすると商品価値はなくなるということ。
それはいったい誰が決めるのか。曲がっていようと、短かかろうと、あばたがあってへこんでいようと、取れ立てのキューリに何の変わりがあるものか。新鮮さこそが何より野菜の命である。なのに、規格外品と言って、とんでもない安値に叩かれるか、出荷できずに腐らせてしまうか。

食料自給率の乏しい我が国がそんなこと言える立場か?と問うてみたくなる。キューリがスイカほど甘かったり、サツマイモがジャガイモの味だったりするのは問題だ。キューリはキューリの味さえすれば形やサイズはどっちでもいいではないか。それは買う側の意識に任せて、せめて出荷くらいすればいい。

我が家の一番生りが、曲がっていたり大きすぎるから言うわけでは決してない。消費者は王様!これも分からぬではない。しかし一方で、中国産を怖がったり嫌ったりする。ならば国産品なら少々のいびつやアバタ、曲がりも大小もガマンしなさい。と言いたい気持ちになる。それは、生産者の並々ならぬ苦労を知っているから。
お金さえ出せば何でも手に入る、しかも形も揃った味のいいものが。と贅沢を構えていると、中国やアメリカなど食料輸出大国の言いなりで、肩を並べるなどとても出来る話ではない。

コメント
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