咲き誇るアジサイの大輪。花びらに、葉っぱに宿す真珠の雨粒は、時季を得て、花と雨とが見事に調和している。
色とりどりに、花の形も様々に咲くアジサイ。人間様からは「鬱陶しい」と嫌われがちな梅雨の季節を「我が意を得たり」と謳歌しているようにも見える。
そんなアジサイもそろそろ終わりを迎えようとしている時、暦の上では6月が終わりを告げる。
月日の流れゆく速さに驚いてばかりいても仕方がないと思いつつも、やっぱり「早いな~」と感じ入ってしまう。
明日から実質的な今年の後半、7月に入る。昨年のような全国至る所で発生した土砂災害・雨被害が再び人々を苦しめることが無いよう願いたいものである。
つい先日営まれた、義父の25回忌法要の席で唱えた「魔訶般若波羅蜜多心経(通称、般若心経)」の裏面に書かれた一文がふと目についた。心に留めおきたい内容なのに、読んだ文章が脳裏に定着しずらくなった昨今、忘備録としてここに残しておきたい。
『汗水流して働き、結婚し、家庭を持ち、子どもも成人して孫に囲まれるようになった。一通りのことを成し遂げて、もうやることがなくなったと思う時、それは「不要の人」になったのだろうか。いやいやそうではない。では残された人生をいかに生きるか。
それは「人間の完成を目指す」すなわち「生き仏」になることである。「不要の人」となり始めたときに人間の真価が問われるのではなかろうか。死んだら誰でも仏になると解かれまた信じられているが、それよりも生きながら仏になることこそが本当の仏教であり、人生の目的もここにあると言っても過言ではない』という趣旨であった。
では、「生き仏」とはどういう生き方なのか。何をどのように行うのか、どんな行動を起こすのか、といったような具体的な例など上げられてはいない。そういったことを模索しながら、判らないままにでも「生きて活躍する仏」を目指す。ということなのだろうか。
結局難しうて『よーわからん』とう結論に落ち着きそうな話である。