「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「今やから云うけどな・・・」

2020年01月30日 | つれづれ噺

            
                    信楽焼のオタヌキさん

NHK朝ドラの「スカーレット」。昨日の放送の中で「今やから云うけどな」と、主役の喜美子と八郎が繰り返し云う場面があった。
「今やからいうけどな、ウチやっぱり穴窯やりたい!」と、喜美子が最後に絶叫するシーンがおもろかった。というか印象に残っている。

「今やからいうけどな」といって今しゃべるということは、過去に云いたい時があったのを、我慢して云わなかった。が、やっぱり云うてしまおうという、開き直りみたいな、意を決した人間の気持ちの揺れ動きが見えて、なんかしらおかしくなる。

今やから云うけどな、先週20日から26日までの1週間は、体調不良でひどい目にあった。
確たる原因が分からないまま、妙な腹痛が発熱を呼んで、トイレ通いは頻繁。しかも先週は木曜日が開いていただけで、あとは全て予定がビッシリ。特に金曜日は特別なイベントが待っていた。早く治さなければならない一心で、食事に細心の注意を払い、ひたすら睡眠時間確保。
どうにか金曜日の大切なイベントをクリア出来て、ホッ!正直な今の心境である。

その時には云いたくても「今云うとまずいよね~」と空気を読むことはしばしば。
会社現役のころは、来る日も来る日も「云いたいことはあした云おう」の連続で、ほぼそれが当たり前みたいなところもあったのかな。
現役を終えて10数年、今はどうか。大きくは変わっていないね~。「今は云うまい」がやはり多いようだ。

それでも「今やから云うけどな」と云える場合はまだましな方なのだろう。ついに云わず語らず腹にしまったまま、ということもままある話。
「思うこと云わぬは腹膨るる心地する」といったのは誰だったっけ。
まあ云いすぎて相手にトゲを残してしまったら何の得にもならない。それどころか、相手だけではなく自分にも大きなトゲを残す結果に至っては本末転倒、身も蓋もない話になる。何度も経験してきたな~。それならいっそ沈黙がいい。
「今やから云うけどな」。その時がくるかこないか、神のみぞ知る。ちょっと大げさだね~。

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「また一歩」

2020年01月28日 | つれづれ噺

              

    明星の 銀ひとつぶや 寒夕焼け    相馬遷子

また一つ年を重ねて、新たな境地へ一歩踏み出した。
昨日までと何にも変わることもなく、ごく自然体でいるのに、数値が一つ上がって齢78歳ということになった。
これもまた未知の領域であり、今日から始まる日々が、さてどんなもんになるんじゃろう。
敢えて口に出して言うなら、「健康に生きていたいという気持ちが突出して強くなってきた」いうことか。
「健康でなければ……」という、誰もが考える、誰もが欲っするキーワードに、つい行き当ってしまう。平凡だけど。

地域住民の集まりやボランティア活動などに出かけると、「最高齢者は誰だろう」と、つい周囲を見回している自分に気づく。
他人は他人、自分は自分なのだから、何を比べることもないし必要ともしない。と思いつつ、今の自分は体力的にも思考力でも、年齢相応の平均値に対して如何なものか、下回ってやしないか、などとちょっとだけ気にしている部分はある。

普段は数字のことなど忘れて、周囲のペースに合わせて心身共に動いているつもりでいる。
しかし、持久力と疲れの度合いでは反省することもしばしば。まあそれも今のところ深刻でもなく、愛嬌の範囲かな。

変わり映えしない大吟醸とバースデーケーキでお腹を満たし、また一歩踏み出そう。
「生きてるだけで丸儲け」。明日の予定は?あさっては? 1週間先は? 予定欄にはいろいろ書き込まれている。

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「その前夜」

2020年01月27日 | つれづれ噺

                                                 
                                                                    梅一輪 !          

スマホに何度も入る緊急メール。「岩国市民メール」の発信で、「暴風警報」や「強風による火災注意報」が  ピロンピロンと鳴る。
昨夜来の大粒の雨が、暴風とともに窓を叩く。深夜に目が覚めるほどの荒れようであった。
今日明けてからは多少弱まった感はあるが、時折、ゴー!ガタガタ!!と来る。まさかこんなに早い春一番でもあるまいが。
これも異常気象による、低気圧の異様な発達によるものか。

そんな雨にも風にもめげず、玄関脇の梅の木に八重の白梅一輪の開花を見つけた。
すっかり膨らんだ他の多くのつぼみも、満を持して自らの出番に備えているような。まさに梅ほころぶ季節到来である。
ときあたかも、喜寿77歳の最後の一日を迎えたこの日。手入れを重ねている梅の木が、時を心得て一輪開花のお祝いをしてくれたのかな。  

思えば、父親の年を3つも越えた今も、病院通いを強いられる持病もなく、よくぞ元気にきたものだ。
神様仏様に感謝か?それとも丈夫な体に生んでくれた両親か?うまく養い続けてきた神さんか?   やはり自らの摂生に感謝することにしておこう。

昨年の正月明けは、中学校時代の「喜寿同窓会」に向けて夢中になっていた 。その後も身の回りに、何かしら夢中になって追いかけたり、追いかけられたりする事柄に取りつかれている。

それもまたよし。その忙しさにさいなまれながらも、適度な緊張感に背筋を伸ばしている。
そのお陰か、年相応の元気さではあるが、今日という日を何事もなく迎えられた。              

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「丸14年、ひと区切り」

2020年01月24日 | 趣味・・エッセイ

 
      お別れ会の一コマ              14年間の活動の証明「花水木」14冊

いよいよその日が来た。丸14年という歳月をともに過ごした仲間とのお別れ。
O代表という素敵なリーダーがいて、取り巻く同好の士が13~19人集まって、エッセイを書く。少し知的で、実に楽しい同好会であった。
その名を「岩国エッセイサロン」と名づけてスタートしたのが2006年1月。あれから丸14年の歳月が流れた。
「随分長くやってきた。始まりがあればいつか終わりが来る。みんな元気なうちにひと区切りつけたい」というリーダーの発案に従って、昨年末までの活動をもって休止することになった。

小生が入会したのは、結成から1年が過ぎた2007年1月。65歳の誕生日目前であった。
その当時の平均年令は58歳。実に若々しいグループで元気盛ん。新聞掲載を目指したエッセイや意見・提言をたくさん書いた。書くだけでなく、人気や話題のスポットがあればクルマを連ねてネタ探しドライブにも出掛けた。お花見も忘年会も華やかだった。
あれから14年。今や平均年令72歳。高齢者の仲間入りをした。書く意欲を失ったわけではないのだろうが、投稿数そのものが減る。新聞掲載数も激減。おのずと「ひと区切り」が「致し方ないね」という雰囲気を醸し出したのも事実である。

O代表の肝煎りで、新聞掲載エッセイ1年分を1冊にまとめる「花水木」も14冊目を迎えた。
厚かったり薄かったり、その1年の投稿数で花水木の厚さは異なるが、14年間の掲載総数は1254編にのぼった。
そのうち、小生の作品は145編。総数の約12%弱で、まあまあノルマは辛うじて果たしたのかな、などと小さく小さくエッヘン。
お別れ会進行係としては少しリキが入った。別れたくて別れる者は誰一人いないお別れ会である。

どうかすると「辞めないで」「もっと続けて」と涙声の訴えも出かねない雰囲気を百も承知。油断すれば愁嘆場になりかねない。
O代表の気持ちを考えると、それだけは避けたい。明るく笑って、ひたすら感謝の拍手で締めくくりたい、と作戦を練る。
作戦が功を奏したとでも云おうか、おおむね思い通り、愚痴や未練や涙も少ない、比較的明るいお別れ会になってホッとしている。
このような会合の場合、会場の雰囲気が大きく作用することを心得ている。明るい大らかな雰囲気がベストである。

実は会場選びもO代表夫妻が、事前にランチに訪れて下調べ済み。国際観光ホテルの広い窓から絶景を見下ろせるローケーション。
有難かった。みんな喜んで食事をし、感謝の言葉を述べた。
ことの始まりから最後まで、すべてがO代表の肝いりで楽しい14年を過ごした。ほんのわずか、お手伝いできてよかった。
O代表は同い年。健康留意に気を遣う年齢に違いはない。一つ肩の荷を下ろして一休み。また新たな何かをご一緒に。

お疲れ様。ありがとうございました。

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「いつかは来るお別れ」

2020年01月22日 | 趣味・・エッセイ

                       

何事にも始まりがあればいつかは終わりが来る。その逆説で、終わりがあればいつも始まりがある、とは限らない。
一旦終わりを告げると、そのまま消滅する場合が多い。但し、JRの電車などでは終着駅は始発駅となる。
その終わり方が偶然であろうと、必然であろうと、突然であろうとゆっくりであろうと、いつかは必ず訪れる終わりと別れ。

いつかは別れが来ることを心のどこかに潜ませていたことは確かだ。それが現実になった。これまで何も考えないほど単細胞でもない。
252字から600字程度の、エッセイや意見・提言を書いて新聞社に投稿する。採用されたら、私たち独自の1年間の作品集に掲載される。
2006年1月に発足した、「岩国エッセイサロン」という名の短文を書く同好会。
小生は、発足1年後の2007年1月にサロンの門を叩き、仲間に加えてもらった。

先ずはリーダーのお人柄、懐の深さに脱帽。褒めて褒めて褒めあげられた。
当初は、あれこれ一生懸命書いて、新聞に掲載されるのを喜び、仲間から評価されるのを密かに喜んでいた。
月例会の資料や、自分が書きためた作品は、キングファイル8冊に及んだ。たとえ駄文であろうと、取るに足らない拙文であろうと、膨大な資料がたまった。

そんな折、リーダーのツルの一声で、14年に及んだ岩国エッセイサロンを休止することとなった。
リーダーの体調管理もあり、何より情熱の減退という大義名分で「終わりにしよう」と申し出られたら、引き留める理由もないし、リーダーの意に沿うのが我々の取るべき懸命な方法であったと思っている。

14年間、集い集ってきた同好会が 間もなく最後の日を迎えるのは淋しい。だからといってリーダーに再度の旗振り役をお願いする気にはなれない。
多くは語らないが、リーダーの胸の内が想像できるから。
ただただこの期に及んでは、毎月の膨大な資料づくりから解放され、悠々自適、奥様との水入らずを愉しんで欲しい、と心から願っている。

お疲れさま。そして有り難う。

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「市長選挙、出陣式」

2020年01月19日 | ニュース・世相

    

任期満了に伴う、我が住む町の市長選挙の告示があり、今日から選挙戦に入った。
向こう1週間は、選挙カーから発せられるけたたましい呼びかけや、相手陣営を蹴落とし我が陣営の優位さを吹聴する声に包まれる。
勝敗の行方は「言わずもがな」の選挙ではあるが、現職3期12年の実績評価と、4期目という長期市政運営に対する信任と期待のバロメーターになり得る選挙戦ではある。

指示する陣営の「総決起集会」、そして今日の「出陣式」に顔を出した。
こちらは、市議、県議、衆院議員と、順風満帆な経歴を持ち、確かな政界人脈を持つ現職だけに、実績に裏打ちされた自らの主張と、近未来の抱負を述べた。
単に相手陣営の欠点をあげつらうような、相手を罵倒するようなみっともない主張がなかった。
これは有権者にとって、耳に馴染む出陣式であり、応援演説であり、ご当人の出陣決意であったように思う。

これからの市政をどのように変えていくのか、その根拠は何か、財源はどうするのか、そういったビジョンをはっきり示さない中で、中央政党の末端として「何でもかんでも先ず反対」では困るのだ。現在の中央政権の方針を罵倒し、批判するだけの熱弁にはいささか物足りなさを感じる。
これまでの実績を180度転換したら、市政は成り立っていかないし、困り果てるのは住民の私たちである。
野党であろうと、与党であろうと、これまでの実績と大きな時流をしっかり踏まえた上で、市民のためになる、何より実りある議論を展開してほしいものだ。

大切な一票はこの手にある。反対のための反対ではなく、本当の意味の市民目線・国民目線・世界的目線に立って、向こう4年を引っ張る決意と、行動力を期待し評価できる人の名前を書くことになる。

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「25年という歳月」

2020年01月17日 | つれづれ噺

                                            

思い起こせば、25年前の1月17日午前7時10分。
東京都世田谷区三軒茶屋にある会社の単身赴任社宅で、出勤前の朝食のテーブルに着いたときであった。
テレビ画面に映し出される異様な光景。大きなビルが傾き、あちこちで上がる黒煙。「スワッ、何事??」しばらくは呆然とテレビ画面に食い入るだけ。
やがて少しずつ状況が把握できた。午前5時46分。神戸市や淡路島など関西方面の広範囲を大地震が襲った。後に「阪神淡路大震災」と名づけられた。
夜明け前の静けさの中で発生し、至る所で町全体が壊滅するほどの大地震は、6434人の死者を出した。
兵庫県などのまとめによると、震災の重軽傷者は4万3792人。観測史上初の震度7を記録し、住宅被害は全壊・半壊が計約25万棟、一部損壊が約39万棟に上り、経済被害は約9兆6千億円に達したと発表された。
あれから25年という歳月。自然災害に対する色んな思いが交錯する。
最初に思い出すのは、新幹線や高速道路といった日本列島を縦断する大動脈が破綻した。新幹線はJR東日本・西日本に完全に分断され、直通が消えた。
当時、岩国工場と東京本社をつなぐのは新幹線であった。それが、急遽空路を利用。羽田から広島空港。それから最寄りの在来線駅に出て、広島へ。そこからやっと岩国へたどり着くという、時間も経費も大変な物入りとなった。
工場から本社への出張者を迎えるのに、東京駅ではなく羽田空港となり、休日には何度も羽田空港に足を運び、通路や出口を確認したものである。
あの頃は若かった。自分の周りで震災など起きたとしても「自分だけは助かるように逃げる」などと、安易な、そして危険な避難意識を持っていた。
25年の歳月が流れた自分の歳を考えるとき、その後発生した東日本大震災やゲリラ豪雨による土砂災害ニュースなどをみるとき、避難することの難しさや、勇気を出して逃げることの大切さを、改めて思い知らされている。
25年前、どれだけ多くの人々が悲しんだのか。どれほど多くの思い出や財産を失ったことか。想像するだに空恐ろしくなる。
せめて「自分の命は自分が守る」ことに徹して、被災の悲しみや苦しみから救われる人を、一人でも多くしたい。と思ってはみるのだが。
その場に直面したとき、いったいどれほどの思考を働かせられるのか、疑問である。
それでも災害はやってくる。忘れた頃にやってくる。25年前のあの身体が震えた恐怖を思い起こし、自然災害に備えたいと。思うのだが。 

 

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「成人式」

2020年01月13日 | 思い出話

              
                   平成の成人式            昭和の成人式

旗日、成人の日。
今年は成人式会場における、あの聞きたくもないアホの集団がバカ騒ぎするニュースが、聞こえてこなかったのをホッとしている。
と、57年前に成人式を迎えた大先輩が云っている。

昭和38年。戦後のどん底を抜け出し、自らの将来に少しの希望と光を感じ始めた頃に成人式を迎えた。
初めて自分で買ったスーツの上下。靴はおふくろが、当時のお隣さんだった靴屋さんで誂えてくれた足にぴったりのピッカピカ革靴。
気持ちは、何が何だかわからないまま「兎に角、男の大人として、行動に責任を持つ。働き、稼ぐ。」という単純な決意に燃えていた。のかな?

青年団の中心的年令にさしかかり、戦没者慰霊盆踊りだの、素人演芸会だのと、必死に駆けずり回る新成人だった、のかな?
酒の力を借りて人に迷惑をかけるなど、全く考えられもしない。ある意味、余り面白くない二十歳の出発だったような。
どっちにしても、「働かざる者食うべからず」。どうかすると「貧乏人は麦を食え」に、負けてたまるかであったような。

成人式に臨んで、大人にもなりきれてない輩が、単に酒を呑んで、人の迷惑顧みず大声張り上げたり、式そのものをぶっ壊すなどというお粗末は、その当時はなかった。
そんなことが許されるほど世間は甘くなかった。そんな輩が当時いたら、爪弾きにされ、厄介者扱いの汚名を着せられたものだ。
要するに、警察や官庁が大目に見てくれても、世間は許してくれなかった。だからどうだ!それがよかったのか?ウーンどうじゃったんじゃろう。

少なくとも、数年前の、荒れる成人式が当たり前のような『世間への甘え』はなかった。生きることへの必死さと、ひもじかった子供時代を覚えていたから。
その一方で、18歳から成人扱いとされる世の中。大丈夫なの?逆に22歳から成人と認める、という方が、今時の子供には会っているような気がするけどな~。
いずれにしても、少子高齢化は進むばかり。少数精鋭の時代を生き残れる成人になってくれることを願いたい。
他人のためじゃないよ。自分のためだよ。

 

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「睦月の望月」

2020年01月11日 | 季節の移ろい・出来事

    
    午後6時10分。小山の上に顔を出したオレンジ色の満月     午後7時20分。絵に描いたような黄金色の満月

夕方、いつも通り放課後児童教室に孫君を迎えに行く。帰り道の小さな峠を越えて海岸線に出ると、目の前に大きな大きな真ん丸月が顔を出す。その月はまだまだ出初めで、海面からすこし上がった位置にあり、なにかしらはにかんだようなグレーっぽい白い色をしている。
家に帰りついてしばらくして見たら、窓の向こうの小高い雑木林をかすめるように浮かんでいた。

その色はグレーも白っぽさも卒業して、これから中天を目指す決意を示す如く、萌えるようなオレンジ色に変わっていた。
まさに睦月の満月。寒そうではあるが、こうして色を変えながら中天に昇ると、見事な黄金色に落ち着き、ゆっくり位置を変えながら、分け隔てなく地上に月あかりを届ける。ついつい ♬ 月がとっても青いから~ ♪ などと口ずさんでみたくなる。

まん丸満月には、季節や月に応じた色んな呼び方がある。
仲秋の名月とか、スーパームーンなどは、言うまでもなく諸兄のご記憶に新しいところである。
では、この真冬の1月の満月はアメリカ式に言う「ウルフムーン」だそうである。
「冬に食料が無く遠吠えする狼にちなんでいる」とある。

ならば近いところで12月の満月は「コールドムーン」寒い時期のお月さま。これは何とも味気ない気がしないでもない。
ちなみに、11月はビーバーが巣作りにいそしむ季節なので「ビーバームーン」。ついでに、2月は雪の多い季節だから「スノームーン」と
呼ぶそうな。やはりそこは、我が国の面積の25倍もある広大なアメリカである。呼び方も大雑把と言えなくもない。

今度は、もっと情緒豊かであろう「和名」により月別の満月の呼び方を、チャンスを見つけて調べてみたい。

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「飽食をかえりみて」

2020年01月08日 | 季節の移ろい・出来事

                                            
                  春の七草「なずな」(ペンペン草)

昨日は「七草がゆ」を食べて、正月以来の飽食を慎み、酷使した胃腸を休める日。当然、お酒も控えめにせよということなのだろう。
昔の人の知恵の深さを改めて思い知り、理にかなっているな~と感心することしきり。

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」(芭蕉) とあるように、古くから人々に親しまれてきた野草「なずな」。
ところが今では「七草が生えているよな場所が無い」が現実である。
そうは言いつつも、「なずな」や「仏の座」と言われる野草は身の回りにいっぱい生えている。しかもそれらは、すずな(蕪)すずしろ(大根)を畑で育てるときの大敵である。ちょっと油断すると、これら野草の方がはるかに伸びて、本命の成長を脅かす。

しかも「なずな」は、ペンペン草と呼ばれ、この草がはびこる家は没落すると、忌み嫌われてきた草でもある。
「あの家はペンペン草が生えている」とか「あの家にはペンペン草も生えないほど貧乏だ」というふうに使われてきた。
昔から春の七草にうたわれたほどの人気も、時代の変遷とともに価値観が変わってくる。ある意味恐ろしいことである。

里帰りする子や孫においしいものを食べさせようと張り切って、確かに贅沢を構える。ついつい肉食系の美食に走る。
しかし、よくよく考えてみれば、若い者親子は食生活も割と時間をかけずに、手っ取り早い食材で済ませる傾向にある。ついつい手間暇かけない美味しい料理、つまり肉食系になる。そういう彼らに限って、七草がゆなど食べないだろう。

となれば、本当の里帰りおもてなし料理とは、普段多く食べない野菜たっぷり草食系を心がけるべきではないかな。
などと立派げなことを言ってはみるが、しょせん手を下すのは誰あろう山の神である。吾輩は出された食材を「うまいね~」とひたすら食する専門員である。七草がゆはやっぱりうまい。体にもいいような気にさせられる。

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