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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「大昔の復習」

2025年07月06日 | 思い出話

       
   
      揃いの浴衣の、市民踊協会おばさまたちの指導による、岩国音頭講習会 

思い起こせば65年も前の、暑い夏の話になる。 まさに大昔の「こんな頃もあったんだよね~」という他人事みたいな話である。そんな岩国音頭講習会に、昔の仲間に誘われて参加してみた。受付には顔なじみのおばちゃま二人に出迎えられ、そこここに知った顔が幾つもあるという、思いがけない出会いもあった。

手踊り、笠踊りを復習したが、笠踊りは元々女性踊り。男は大きく腕を振る手踊り一本である。一周も回るうちに遠い遠い昔を思い出し、アリーナの板の間にスニーカーではあるが、楽しく思い出して来た。
その昔は、どこにもかしこにも人間があふれ、全体的には貧乏ではあったが、何をやっても人と人のつながりが強く活気に満ちた時代でもあった。今でいう小集団活動も活発であった昭和35年~40年頃の話である。

当時は小さな村に尾津・門前・牛の谷・平田といったような幾つもの村落が隣接していた。それぞれに若者の集団「青年団」があって、素人園芸会や盆踊りなど芸能活動を競うように催していた。映画館も芝居小屋も満足にない片田舎。青年団の各種行事は、地域住民の憩いの場でもあった。特に、8月15日終戦の日の前後には各地区主催の盆踊りが開かれた。この盆踊りだけは、近隣の地区から応援に来て盛り上げたり、こちらからも出向いて応援盆踊りに汗を流して来た。隣村の会場に出向くのはもっぱら男がこぐ自転車である。今日はどの娘を荷台に乗せて汗をかくのか、そんなロマンもあったし、結ばれたカップルも生まれた。

盆踊りと共に、櫓の上で伝統の岩国音頭を語る音頭取りも、櫓の下で名調子の太鼓を叩く名人もいて、夏の夜の風物詩として一世を風靡したものである。私の地区の青年団は、男女総勢30人。そろいの浴衣で輪を組むと、それはそれは見応えのある集団として、あちこちから参加要請を受けるほどになった。
今は保安の観点から中止となった錦帯橋花火大会の前身の、近県盆踊り大会の大舞台にも上がらせてもらった。そんな昔を思い出させる、盆踊り講習会であった。まだ、足も腰もなんとか付いて行けたのはよかった。

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「修繕」

2025年04月26日 | 思い出話

  
    約2.5kgの立体型幌馬車               その裏面

遠い遠い昔の話で恐縮ながら、若かりし頃にお祝いとして頂いた「幌馬車」の額縁が、ちょっとした拍子に2mの高さから床面に落ちてかなり傷んでしまった。本来ならその時点でお払い箱になるのところを、「これはオレが生きている間は捨てられん」と、いぶかるカミさんを制して今日修繕した代物である。

この頃では「修繕(しゅうぜん)」なる言葉も行為も忘れられかけているのかもしれない。DIYとかいう簡略後に押されて肩身の狭くなった修繕であるが、私にとってはあくまでもこの手で手直しをして元通りに役立たせようという、思い入れを込めた修復作業である。裏面などの見てくれは決して良くないが、表面はほぼ元通り、年季の入った古さゆえの値打ちと風格も出てきたように思う。処分しなくてよかった。

若干26歳の安サラリーマンが「結婚するのは我が家を建ててから」という信念にも似た意地っ張りを通して、身の程知らずのローンを組んで新築した。その時同じ職場だった大先輩3人が「家を見に行くぞ」と言って、新築のお祝いに頂いた大切な物であり、苦しかったあの当時を忘れることのないメモリアルでもある。
昭和44年、その当時は映画全盛期、西部劇も大流行りで幌馬車の贈り物とは、洒落た感覚の持った先輩だったんだね~などと大喜びした記憶が今もよみがえる。

そんな先輩方もここ数年の間に、定年退職者の会に出て来られなくなった。その分を今私たち世代が大手を振って中心的存在になっている。
この贈り物を頂いた26歳新築から26年を経て、子どもたちの成長などで手狭になったため、新たに2軒目としての新築から既に30年が過ぎようとしている。その間も部屋の鴨居から、ず~っと私の生きざまを静かに見守ってきたこの幌馬車の額縁。私の目の黒いうちは、ちょっとやそっとでは手放せない。
そんな思いで話にお付き合い頂きました。感謝申し上げます。

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「春を分かつ日」

2025年03月20日 | 思い出話

                 
                    花咲く日を待つイトスイセン

暑さ寒さでお馴染みの春を分かつ日。牡丹餅のパックとお花を買って、先祖代々のお墓の前で手を合わせた。
それこそ数えるほどしか出向かないお墓ではあるが、お盆前の墓石磨き・草取り・清掃だけは欠かしたことはない。そんな無精者の私でも、手を合わせて帰る道すがら、気持ちがす~っと軽くなるのを覚えるのが何とも心地いい。^^♪ そこにわたしはいません、ねむってなんかいません、千の風になって・・・♪などとは言わないおふくろとおやじ、よ~来たの~と言ってくれるに違いない。

30年前の今日、東京の地下を走る鉄道3路線の電車に、猛毒のサリンが撒かれ、多くの死者や数えきれない負傷者を出した「オウム真理教」による東京地下鉄サリン事件の当日である。本社勤務を命じられて、生まれて初めて親元・故郷を離れて一人暮らしをしていた東京での出来事。朝の通勤に東京メトロで渋谷に着き、そこから地上を走る山手線で有楽町へ。同じ通勤時間帯に犯行があった地下鉄に乗り合わせなかったラッキーは、見えない糸であの世の父と、現世の母がまもってくれたのかもしれない、などと30年たった今そんな縁を思い返している。

そして同年の阪神淡路大震災も忘れてはならない大惨事であるが、ハルマゲドンなどと勝手なことをののしって最終戦争後の理想郷を求めるという、人類を破滅させる宗教活動を展開したオウム真理教。こんな無謀な洗脳活動がまかり通る世の中を再現させてはならない。風化させてはならない一大危機である。みんなが賢くなって、無法に早く気づき危険を予知できる人間社会になることを願いたいものだ。

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「公衆電話」

2025年03月04日 | 思い出話

                  
                   懐かしの公衆電話ボックス

三日連続のあめ・アメ・雨そして大風。卒業式を間近に控えた中三の孫君にとって、この雨この風ばかりはいくらタフな年ごろとは言え、遠距離を自転車で行かせるのもどうかな~と少し気にはなっていた。そこは、孫君の母親も同じ思いだったらしく、最寄りの駅までクルマで送りJRで登校させた。しっかり者の孫君は、人の迷惑顧みず自分が電車に乗る時間に、ばあ様に電話をかけてきて、夕方4時18分に着くから迎えに来て、と帰りのお迎えを約束する念の入れよう。

約束通りばあ様が迎えに出かけたところへ彼から固定電話に電話が入った。「公衆電話からです」と電話がしゃべる声に胡散臭いなーと思いながら出ると「じいちゃん、オレ。電車が遅れているから着くまでばあちゃんに待つよう電話しといてくれ」という。そっか、中学生はスマホの学校持参は禁止事項である。
どが付く田舎の小さな無人駅によくぞ公衆電話があったもんだ。しかも公衆電話の掛け方をよく知っていたもんだ。窮すれば通じるってことか。ひどい雨風に教えてもらった実体験、無駄にはなるまい。

ワタシにとっての公衆電話は、繁華なネオン輝く街から最終電車に乗ってご帰宅に及ぶときの、駅の片隅にある緑色の電話機。十円玉一つコロンと入れて「今から帰る、迎えを頼む」。電報みたいな一報で、アッシー君が最寄りの駅で待っていてくれる。
時代は流れても、便利な世の中になっても、駅前にポツンとたたずむ電話ボックス、公衆電話は、必需品なのである。そばに柳の木でも植えられていたら「絵になる」昭和の断片である。

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「物価と昇給と」

2025年02月25日 | 思い出話

            

冬枯れた隣の空き地に今も青葉を保ち、みずみずしさを誇っている一角がある。遅くに育った大根である。
あの暑かった昨年の秋、一回目に撒いたタネは全部暑さ負けして一本も芽を出さなかった。二度目に植えたのは時期を外した冬前。それでも何とか芽を出し、遅まきながら大根はしっかり食べさせてもらった。そしていまは青い葉っぱをヒヨが朝に夕についばみやってくる。餌の少ないこの季節、キャベツや白菜なら勝手には食べさせないが、ま、大根の葉っぱでよけりゃどうぞお召し上がりを。

それにしても何もかもの値上がりで、年金生活の侘しさが身に染みる。などと嘆いてみたところで仕方がない。昭和40年代の所得倍増論・日本列島改造論に乗っかった右肩上がりのウハウハバブルを一度は体験して来たのだ。5月まで4万円だった給料が、6月になったら7万4千円に跳ね上がっていた。そんな夢のような話を現実に味わってきた。それこそ今は遠い遠い昔の話だが、この物価高の中で思い出すと、あんなこともあったね~などと、少しだけ気持ちが軽くなる気がする。

台所を預かる主婦にとっては、そんな甘い昔話など何の足しにもならん、そこんところも心得てはいるが、企業人を卒業してから、仕事をしない国家公務員が長く続いている。親方日の丸という今の立場で、親方が儲けてくれないことには下々までいい話は回ってこない。いつになるのか分からない高度成長の話。このまま、いい話ばどないまま朽ち果てそうだが、それもこれも自分の一生なのだから逃れようがない。そんなとき、同級生の言葉を噛みしめる「俺たちゃもう20数年、国から養ってもらっている。有難いと思わないとね」。耳に心地よい話ではある。ほどほどの欲で、健康だけは貪欲に。

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「二つとはない、切ない訃報」

2024年12月11日 | 思い出話
一瞬言葉を失う訃報を受け取った。まさか、こんなことってあるの?、耳を疑ったが夢でもなければうつつでもない、現実そのものであった。悲しい。

遠い思い出が次から次に浮かんでくる。どの思い出も大切な一コマとして脳裏に焼き付いているものばかり。
正式には67年前の高校入学式での出会いである。大学を卒業して4年目の、まだ完全に教師になりきっていない、やんちゃな新しい兄貴分のような人だった。その人が高校3年間の担任であったことが、小生の人生に大きな光を当ててもらった、そんな素晴らしい出会いであった。

出身は種子島で、国語の教師を多く輩出した東京の某大学出身。眉が濃くて鼻も高く黒いキリっとした瞳の、垢ぬけたとはこういう人をいうのか、と田舎の高校1年生の男女共通のあこがれの担任教師であった。他の教科はあまりできなかった小生だが、担任が国語専科であったことも幸いして、何とはなしに可愛がって頂いた、と今でも感謝している。
小生たちは普通科であったが、時代を反映して進学よりも就職志望の方が多かった。そんな中でも地元の某銀行の求人にいち早く受験のお膳立てをしてもらった。ただ、家が貧乏だったので、当時の銀行は採用してはくれなかった。我々が卒業して2年後に新潟に移られた。
そんな思い出に始まって、小生たちが無事定年退職を迎えたとき、昔の教え子3人が新潟に飛んで「定年退職報告旅行」に出かけたとき、新潟の料亭で飲んだ越乃寒梅は美味しかった。

その後ず~っとお付き合いが続き、特にお歳暮の時期は互いの産物を贈り贈っていただくようになった。数年前までは年に何度かお手紙のやり取りもあったし、奥様とも何度かお話しする機会もあった。手紙が段々疎遠になりとうとう年に一度お歳暮の贈答だけになっていた。というのも、段々病気が出たり弱りゆく経過を話し合うのが辛くなっていた部分はある。
この暮れも同じように岩国レンコンを数日前に発送した。その到着のお礼の電話の冒頭で、「〇〇が4月に亡くなりました」と思いもかけぬお話であった。
「あまりにも急なお別れで、私も動顛して具合が悪くなり、何をしていいかわからないままでした」という奥様の弱弱しい声には、「4月に教えて欲しかったです」とは言えなかった。
ただただ驚くばかり、先生とはもちろん、奥様とも世間話もしてきたじゃないですか、という言葉も飲み込んで、他にも申し上げたいことの全てを腹に納めて、悲しみのはけ口としてブログにぶつけています。

ごめんなさい、今日このブログを最後まで読まれた方は、大変お気の毒ですが、ちょっと運が悪かったとあきらめて頂いて、yattaro―の「二つとはない切ない訃報」の気持ちをちょっとだけご理解いただくわがままをお許しください。  合掌
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「師走ついたち」

2024年12月01日 | 思い出話

                                        
泣いても笑っても、今年の暦はペランペランのたった1枚だけとなった。
今年も7泊8日の旅に出たのなら喜ばしいことなのだが、そうも行かない。5月末日の手術で国立病院機構の大きな医療センターに入院したのが7泊8日だった。これを最後に入院手術とか、落ち込みの激しい病気に罹らないよう、静かに祈りながら、半分おっかなびっくりで過ごしている。というのも、泌尿器科手術の後遺症はなかなかしつこく、まだ完ぺきではない。

などと可愛い愚痴をこぼす間はまだいい。今年もあの人この人多くの人の喪中はがきが届いている。中でも「え~~??」と思わず声が出そうになる訃報に接した。50歳を過ぎた遅いお上りさんであり、慣れない東京本社勤務に不安いっぱいで有楽町駅に着いたとき、気さくに迎えてもらったのが、敏腕営業マンと名が知られていたYさんである。学年はこちらが一級上だが、生き馬の目を抜く東京商圏を闊歩できる気っぷのいい男であった。敢えて同僚と言わせて頂くが、短い時間に大日本印刷・凸版印刷・東京書籍など印刷大手の担当者に「岩国工場のエンジニア」という触れ込みで紹介され、面目を施したのを思い出している。

お酒は強かったね~、カラオケは自分より人に歌わせるのがうまかった。そんな大切な思い出の人に、1年に1度の年賀状さえ出せなくなった。そんな思いの裏返しに、葉書の差出人である奥様宛てに、感謝を込めた徒然なる思いや奥様の健康を願う気持ちなどを認める師走ついたちとなった。
少しの違いだけど早い旅立ちに間違いない。やがていつかは行く道ではあるが、今しばらく訃報連絡を受ける立場に徹したい。それも元気ピンピンで。
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「いい風呂の日」 

2024年11月26日 | 思い出話
                                              
今日は極めて単純な語呂合わせで、11月26日「いい風呂の日」だという。
先日のいい夫婦の日(11月22日)の方が少しは文学的な匂いもするようだが、まあどっちにしても11月は頭に「いい」と言う二文字から始まるから何かにつけていい記念日になりそうな気がする。

あまり裕福ではない、と言えばかっこいいが、あまりどころかまるで裕福ではない家に生まれた子供時代。風呂にまつわる話には何かしら暗い影がつきまとう。
先ずは風呂の水くみの話。我が家の井戸が枯れてしまって隣りからのもらい水。それもうまくいかなくなったら今度は、少し離れてはいるがおふくろの仲よしおばさんの家のもらい風呂。小学校4・5年生だったろうか、何かにつけて恥ずかしさを覚える頃のもらい風呂は、風呂上りから戻る道すがら冷えるのなんの、もらい風呂の哀れさと貧乏が身に沁みた思い出がある。

少し大人に近づいたころ銭湯が流行りだした。小さな街にも銭湯が2軒進出して来た。そのうちの一軒の常連さんになって、番台に座るおふくろより少し若いくらいのおばちゃんとウマが合った。銭湯の服脱ぎ場に張りめぐらされた映画館のビラ(ポスター)のビラした券という入場割引券をもらっては映画館に通うちょっといい思いをした思い出もある。
だから我が家を建てるときにお風呂にはこだわりがあった。流行りの最先端を行くキラキラの丸いタイルをふんだんに使ってもらった。四角いタイルの焼き方、色にも注文を付けた記憶がある。朝ご飯の後に新聞を持って籠るあの空間に次ぐリラックスできるのが風呂である。ちっちゃな幸せだが、それさえ手に入らなかった子供時代があるからいまの有難味がよくわかる。
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「花も嵐も・・・」

2024年03月11日 | 思い出話

                
                   
久しぶりに机の中の小物整理をしていたら、見たことのある証明書が出て来た。1枚は当時の写真付き従業員証。1枚は、労働組合の組合員証である。この2枚があれば、我が全人格が保障されていると言っても過言ではないほど、昭和41年当時の夜の街でも昼の銀行窓口でも、かなり自由に泳がせて頂けるという、若者を強力にバックアップしてくれた大切な証明書である。

組合員症の方は、決して粗末に扱ったわけではないが何故か完全に破れてしまって、セロテープで補修したそのままに残っていてくれた。オー懐かしいね~、若くてちょっとうるさげな兄ちゃんの雰囲気。
この2枚の証明書を手に入れるまでのプロセスが、人それぞれで面白い。
すんなり入社試験で合格する人もあれば、艱難辛苦、というほどでもないが少し苦労する人もある。

先ず入社試験が簡単に受けられるわけではない。受験に足りる成績と人柄が適切であるか、縁故の有無など。さらにこの会社の試験当時、他の企業の受験の結果待ち期間でないことなど、複雑な要素が絡まっている。
早い話が、この2枚を手にするまでにかなり苦労した経験者の一人だから、この2枚には苦楽ないまぜの懐かしい汗と脂がしみ込んだ、青春の思い出が刻まれている。その割にはいつしか引き出しの奥にひっそりと忘れられていたな~。

若い時の苦労なんてこんな風に忘れ去られるんよねー。そして良いとこ取りの画像がイメージとして焼き付けられる部分が多い。そうしないと、苦労はつきものの人生っていうやつが面白くなくなってしまう。人の一生、そんなに良くないことが続くわけないもの。やっぱり人生って楽しいんよ。愉しむべきなんよ。

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「桃の節句」

2024年03月03日 | 思い出話

          

3月3日、桃の節句、上巳の節句(じょうしのせっく)、色々言われているが、やっぱり「お雛祭り」が一番親しみがあるようだね。
そういえば我が家にもかつて、華やかにお雛段を飾って雛祭りをした昔があったのだ。

昭和48年2月に生まれた我が家の第一子長女に、親元から贈られた七段飾りの豪華なお雛様が、一部屋を占領していて、何かしら寄り付きがたい威厳を放っていたように感じたものである。その時まで七段飾りの雛壇などと縁のない生活であった。

そんな思い出の雛飾りも、娘がお嫁さんになった時も持っては行かなかった。今では階段下の倉庫の主となって陣取っている。時々は出して飾っていたが、娘のところは男の子3人で母親の雛飾りをあまり楽しんではくれなかった。無理もない。ババ殿も出し入れの手間と、汚してはいけない慎重さが段々億劫になり暗いところでお眠りになったままである。

それにしても長女の雛祭りの話などするとどうしたって昭和の話になる。ましてや昭和49年・50年などと言えばバブルの絶頂期。仕事も忙しかったが、元気に遊んで騒いで、我が子の子守などを忘れてしまうような沸騰の時代であったような。今じゃ娘も人生の半ばを迎えた。私たちに手を差しのべるお役目が回りそうな時代。お雛祭りにつけても、昭和が段々遠くなっていくんだね~。

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