「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「変わり目」

2009年08月31日 | ニュース・世相
8月も今日で終わり。一般的には明日から多くの学校で2学期が始まる。
小学・中学・高校生をもつ親の、“やーれやれ…”と安堵のため息が聞こえてきそう。
その点は我が家もご多分に漏れず、やっと学校が始まってくれるか…という思いはある。

昨日は、向こう数年の我が国の行方を占う国政選挙が行われた。結果は衆知の通り、今更何おか言わんや。ただただ厳しく見つめ、有言が実行されるか否か、検証していくことが我々一票を投じた者の責任であろう。

図らずも、今回の日本丸の方向転換か、直進かという大きな別れ目を占う選挙に、頭を突っ込んで経過を観察するお役目に預かった。
責任の重さもあるし、初めての体験でもあり、胸躍る思いは隠せなかった。

だだっ広い体育館がせま苦しく感じるほどに、各投票所の投票箱が集められる。それぞれの地域ごとに、出張所や支所の職員が群がって開票作業に入る。壮観である。

しかし、投票箱が開票所に集められた頃テレビでは、当確・万歳・花束・喜びのインタビューが報道されている。敗者の弁へと続いていく。

これから数字を出そうという立場の面目まるつぶれじゃないか。と思いつつ数字の確認をする。100%近くテレビ報道が当たっている。 出口調査を信頼すれば開票のあの混雑が馬鹿らしくささ見えてくる。あの報道の在り方にも一石投じたい。結果が早けりゃいいってもんでもない気がする。

いずれにしても明日から9月、防災の日を皮切りに台風シーズンに入る。学校も始まる。政権も交代する。大きな変わり目を迎えている。あらゆる面で、舵取りを誤まらせないよう、私たち一人一人が監視役・見張り役を勤めなければならいないのだろう。

               

         開票直前の静寂                白熱の開票 
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「一病息災」

2009年08月29日 | つれづれ噺
完全リタイヤするまでは、年に一度、必ず健康診断を受けてきた。受けさせてもらってきたというのが正解だろう。

企業に働く人間は、年一の定期健診は受けなければならない、受けさせなければならない、という労使双方の立場から完全な義務化されたシステムであり、結果の状況、有所見率の動向など詳細を、労働基準監督署に報告する義務も負い、いち早く処置活動を行う道筋も出来ていた。当然ながら健康管理・衛生管理も真剣そのものであった。お陰で、何事につけても早期発見という安心感があり、労働安全衛生法によって守られてきた。
今は違う。とは言っても野放しではない。国民健康保険を納める人間にたいして、保険組合から、誕生月健診やガン検診という制度が設けられていることはご承知の通りである。しかしそれには強制力なども義務もない。飽くまでも自らの判断で受診を決める任意となる。ついついおろそかになりがち。

そこを面倒くさがらずに、早めの健診・早めの予防が、自らの健康な老後を保障する大きな要素だという意識を持ちたい。“自信過剰は身を滅ぼすよ…。”

特に若いときに患った肝機能障害・中年でひどい目に遭った腰痛障害。この二つとどううまくつきあうか…常に至上命題として頭から離れない。ある意味では臆病に・神経質に生活してきた。それが今の健康を維持する原動力であることは間違いない。

今回受診した健診も、太鼓判を押される健康優良児(ジジ)。さて問題は首から上の中味の劣化……。気になりながらも、結果が知れるのを怖れて避けている部分がある。 これも一病息災を心がけるなら、早めの健診で、問題のあぶりだしか。一病や二病でなかったらどうしよう……。

         ( 写真:健康優良、健診結果 )

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「待つ楽しみを」

2009年08月28日 | おせっかい
中学校同期会案内状。先生分も含めて195通、郵便局から無事発送した。

第1回目の幹事招集から半年。仲間の動静収集・住所録洗い直しなどと平行して、会場交渉・予算編成・案内状作成・印刷・返信はがき作成・印刷・宛名シール作成……これら一連の作業を積み重ね、今日の発送に至る。これで同期会作業の2割が終わったかなと思う。

吾輩の「おせっかい」の最たるものであり、案内状を受け取る側の反応がいささか気になるところである。
でもな~誰かがやらなきゃ始まらないしな~…と思い直す。 前回の苦労話は忘れ、いいことだけを思い返す。そんな繰り返しで、小・中・高 それぞれおせっかいをやってきた。

何割が返信寄越すのだろう。何割が出席なのだろう。あいつはどうかな…。 こいはいつも返事さえ寄越さない。などとつぶやきながらひたすら待つ。「今日は○勝○敗よ…」(勝は出席、敗は欠席)と、小学校だった長女がハガキを手渡してくれたこともあった。今回は、毎日首を長くして、郵便配達のバイクの音を待つ。

出したら返事が来る、それを待つ。ごく当たり前のことなのだ。但し、一方的に出したラブレターの返事はそうは行かない。必ず返信があるとは限らないから……経験者語る……。

同期会の返信は出してよね。 ○をつけて名前住所を書いて投函すりゃいいハガキが同封されているのだから。それでも来ないのがかなりある。顔ぶれはおよそ決まっている。「その人には案内状を出さないことにしよう…」という意見も出てくる。当然かな…と思う反面、いやいや彼らも仲間だ、案内状を受け取って何かを感じてくれるに違いない。次には出席を思い立つかも知れない…、などなどを考える。やっぱり住所が分かっている全員に出す。何よりも、一人でも多くの仲間からの返事を楽しみに待っている幹事がいることを分かって欲しい。

賽は投げられた。待つ楽しみを味わいながら、一人でも多い出席を待つとしよう。

          ( 写真: 出来上がった案内状の束 )
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「腹を割って…」

2009年08月27日 | つれづれ噺
ヤモリ 「守宮とか家守」と言う字が当てられ、古くから家の守り神的な存在で、人間と共存してきた小動物。

5月上旬~7月下旬に戸袋や壁の隙間、天井などに粘着性のある卵を2つずつ生む。卵は40~90日で孵化する。孵化するまでの温度によって孵化する幼体の性別が決定されることが知られている。極端に高い温度と低い温度ではメスに、中間の温度(28℃前後)ではオスになるのだそうだ。

主に、灯りに寄ってくる虫を食べてお腹を満たす。そのためヤモリ君は灯りに引き寄せられるように集まってくる。
爬虫類を好まない人にとっては、灯火の下でその姿を目にすると、一瞬たじろぎをおぼえるようだ。

足の指の裏側に小さな毛が密生している指下板(吸盤のような働きをする)と呼ばれる器官があり、それを利用して壁などの垂直部分や天井のようなところでも自由に走り回る。先日も網戸に腹這い、虫を狙っている姿を目撃。

人間が住む家に人間と同じように棲息しながら、人間と大きく異なるところがある。それはあっけらかんと腹を見せている。人間はなかなか腹を見せない。腹を割って話そう…などと言いながら、腹芸を使って、本音の話し合いにはなかなかならない。腹の白い?我が輩にしてみれば、腹黒い輩には手を焼く。

この腹芸を駆使しながら歴史を作り上げた人物も少なくない。太閤秀吉もその一人。“露と落ち 露と消えぬるいのちかな 浪花のことは 夢のまた夢” 晩年に出来た我が子への哀惜に駆られながら、結果的には腹芸天下一品の徳川家康に天下を取って代わられた歴史は記憶に新しい。

腹を見せるヤモリからとんでもない話になったが、これもまた、“夏の夜の夢のまた夢…”ということにしよう。

         ( 写真: 垂直な網戸越しに、腹を見せる太っ腹ヤモリ )
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「お父さんの背中を…」

2009年08月26日 | 家族・孫話
いつもブログネタで世話になっている孫達のお父さん。娘婿殿。
厳しいしゅうと(舅)の目から見てもなかなかのやり手である。婿殿がやり手であることは、しゅうとめ(姑)にとっては大変嬉しいことのようである。ならばしゅうとにとってはどうなんだろう。ウーン、ちょっと複雑。

明快なお考えがあれば、是非コメントでご教授ありたい。

もちろん可愛い娘の婿殿、憎かろうはずがない。これは基本である。
手話はサ-クルのリーダー経験者、スキーは堪能、サッカーは審判免許。何よりお酒が飲める。強い。
下戸の標本のようなしゅうとは付いて行けない。我が家を代表してのお酒の接待などの席では、ちょっとやそっとでは引けを取らない。安心して任せておける。これは助かっている。

数多い趣味の中でも、今回特筆すべきは魚釣りである。これも半端ではない。
グループで船を借り切り、四国近くまで出かけて、釣り上げたのが70㎝のブリ・50㎝の鯛・35~40㎝級のアジなどなど。

全てを我が家に持って来る。慣れぬ手つきで大物をさばくバアちゃん、悪戦苦闘。お腹が太るほどの刺身・塩焼きなんでもあり。果ては、切り身を天ぷらに揚げて南蛮漬け。ささやかにビールの相手をする。

普段から、小3・小1二人を連れてあちこちに釣りに出かける。だから兄ちゃんなど、海でも川でも魚釣りとなると、ジイちゃんが邪魔になるほどの手早さで、さっさと準備していち早く釣り糸を垂れる。
あのお父さんにしてこの子あり…。間違いなくお父さんのの背中を見て育っている。

所詮ジイちゃんは三枚目。主役にゃなれっこない。しっかり応援団長を努めよう。

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「初物は笑って…」

2009年08月25日 | 季節の移ろい・出来事
真夏に降り続いた雨と、ガンガンに照りつける陽差しのお陰で、今年は畑の雑草の伸びが違う。例年より遙かに生い茂っている。狭いながらも草取りに大いに汗を流す日が続いた。

幸いと言うべきか、雑草も例年以上に茂るが生り物も同様に豊作の様子である。
今まさに旬を迎えんとする「イチジク」が大きく口を開き始め、食べ頃を迎えている。グルメの孫兄ちゃんの大好物。
4月の終わりに根っこの周りの草取り、施肥の手入れをしたのが効いたのか、木が小さい割によく生っている。

今年初めて、熟れ具合を覗いた昨日。2・3個はカミキリムシやアリさんがお先に毒味をしていたが、十分に我々にも分け前を残してくれていた。

“ウマイ(美味い)ものは 宵の口” とか“仕事は大人数・ウマイものは小人数” と、おふくろがよく言っていたなー。
“初物は東の空に向かって、笑って食べる…”とも。

なんで東の空なのかよく分からない。が、“ウマイね…”と言いながら、旬の初物を頂く有り難さ、作物を育てる自然の恵み、そしてそれらを作る人々に感謝の気持ちを忘れないで…という教訓だったのだろう。空はどの方向でもよかったのかも。

その時その時に最高の味を出す旬の物、どうせなら、いちばん食べ頃の美味しい時季に賞味したい。
しかし、食べ物の旬は短い。それに比べて人間の旬はどうか、生涯続く……と思いたい。
昨日は昨日の、今日は今日のそして明日には明日の、それぞれ違った味わいがある。

その味こそが旬の味。初めて出会う明日という日はまさに初物。
旬の初物を笑顔で迎え、日々新たに仲良く付き合って行くことにしよう。

           ( 写真: 今が旬のイチジク )

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「ふるさとのぬくもりに…」

2009年08月24日 | 家族・孫話
      ♪♪ うさぎ追いし  かの山  こぶな釣りし  かの川

                夢は今もめぐりて  思いいずる  ふるさと  ♪

40㎞ばかり田舎に入ったところにカミサンの実家がある。よく言えば「大自然のふところに抱かれ、緑と川のせせらぎに心癒されるふるさと」反対に、「まさに高齢化の一途を辿る、住む人もまばらになった過疎の集落」ということになろうか。
義兄夫婦が住んでいて、お墓も仏壇も守っている。「ふるさと」の歌詞そのままに、山に入れば色んな動物に出会う。最近では、先方から人里に降りてきて、畑という畑を食い荒らし、お年寄りの楽しみまで根こそぎ持って行くという。

家の前には、錦川の支流がほどよい水量で小さな急流を作り、アユ・ハヤ・コイなど多くの川魚が、太陽にキラキラお腹を光らせる。本来なら3回くらい遊びに行くはずなのに、今年ばかりは8月も下旬になってようやく行けるようになった。
夏休み前半の雨で、狭い川は水かさが増し、急流となっており、泳ぐだの魚釣りだのは自殺行為に等しい。

ここんところの日照り続きで、いつもの水量に戻って、釣りも泳ぎもOK。満を持しての「ふるさとの川」兄ちゃんはハヤ釣り。カー君は泳ぐ一式。結構流れがあるだけにジイちゃんは片時も目を離せない。小麦ダンゴを練ったエサで釣る兄ちゃんに、ハヤが寄ってくるかの如く釣れる。 お父さん仕込みで腕も感覚も確かなものだ。
  
   

やがて高学年になり・中学校・高校・大学……と、いやが上にも受験戦争に巻き込まれ、生存競争にしのぎをけずるときが来る。責めて今のうちに、自然の川や海とたわむれ、魚を追い回す時間を作ってやろう。

母親が運転する帰りのクルマでは、ジイちゃんに寄りかかって寝息を立てる3年生。この子らに幸せ多き世の中を…とついつい欲張ってしまうジジバカの晩夏のひととき。いったいどっちが楽しんだのやら……。

            ( 写真:上  格好良く竿を操る兄ちゃん )
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「岩を噛む」

2009年08月22日 | つれづれ噺
    

地に植わっている何本かの庭木。少々水遣りを怠っても、ジリジリする日照りにもめげず枝葉を茂らせている。
そこへいくと、プランターのアサガオ・ゴーヤ。鉢植えのピラカンサス・山比婆など、大地と縁のないものは、ホンのちょっとゆだんすると、たちまちしおれたり、ヘタをすると枯れてしまったりする。

それほどに、大地に根を張る木々は、地球からの恩恵を受けているのである。
また地上に伸びて広げた枝葉と同じくらいに、根っこは地中深く張り巡らされていると聞いた。

時折登るお城山の急斜面にも、数匹のスネークが這い回っているかの如き、むき出しになった根っこが、山肌の岩を噛みながら土を求めて、先を精一杯伸ばしているのを見かける。その逞しさたるや自然の中に生きる生命力の偉大さを改めて感じさせる。

そのような木の根っこや竹藪の根の広がりによって山の傾斜は守られている。 天変地異と言われるほどの集中豪雨などは別格としても、これらの地を這い・岩を噛む根っこを大切に守り育てなければ、必ずやまた雨・台風などによる人的被害を繰り返すことになるのだろう。

四方を海に囲まれ、内陸は山に覆われる我が国の地形。山を育て海を守る共存の行く手に、食糧自給率の向上・農・林・水産業立国の再検討など、素人ながら我が国の将来像が少し見えてくる気がする。

太閤秀吉の城攻め常套手段のひとつ「兵糧攻め」に遭ったら、我が国などひとたまりもなく落城か……。

暑い寝苦しい夜とはいえ、もう少し面白い夢でもみながら眠りたかったなー。
あまりの暑さに、初めて一晩中エアコン使ったら、たちまち偏頭痛。アーア…。

          ( 写真: 山肌の岩を抱き、隙間から岩を噛む木の根っこ )
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「漁り火遠く」

2009年08月20日 | つれづれ噺
長雨や風などの影響で陰を潜めていた、真夏の漁り火。
ようやく持ち直した星空に迎えられ、真っ暗い遠くの海に点々と光って見える。

闇の中に浮かぶ漁り火は、いかにも遠くぼやけて見える。しかし実際の距離はさほど遠くでもないことが、昼間の海で予測はつく。

二階の窓から見えるほどの至近距離の陸に沿って、一体何が取れるのだろう。知り合いの漁師さんに聞いてみた。
「この時期は、6~7㎝の中型エビ・アナゴ・たまにタコ・イカ、どっちみちお金になるものはなかなか取れない…」と。

そう言えば独身華やかりしころ、専業漁師のお父さんを持つ友達に誘われて、徹夜の底引き網漁に付き合ったことを思い出した。遠浅の砂地を2~3時間底引きして網を上げる。

いるわいるわ。クルマエビを始めアナゴ・タコ・イカ・数種類の雑魚などがウヨウヨ。手作業で、エビを大中小に振り分けするのが仕事だった。それでも我々の若い頃には近海物が結構獲れた。専業漁業で飯が食えた。

今では、昼も夜もがんばっても大したお金にはならないという。どこも世知辛い世の中ではある。
所詮漁り火などは、遠くから眺めて演歌の一つもひねってみるのがいいのかなー。漁師さんも大変だよなー。

     海の魚はかわいそう
   
        お米は人につくられる  牛は牧場で飼われてる  鯉もお池で麩(ふ)をもらう
     
      けれども海のお魚は  なんにも世話にならないし  いたずら一つしないのに
       
         こうして私に食べられる  ほんとに魚はかわいそう        (金子みすず)

             ( 写真: 瀬戸の海に浮かぶ 真夏の夜の漁り火 )
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「早くも秋が」

2009年08月19日 | 季節の移ろい・出来事
“ 静けさや 岩にしみいる せみの声 ”と詠まれて、主役を張ったクマゼミやアブラゼミに代わって、いつしかツクツクホーシが主役を務めるようになった8月後半。
もう目の前に秋の訪れを感じる頃となった。立秋がとうに過ぎたのだから、当たり前と言えば当たり前だが。

我が家に隣接する荒れ地には「荒れ地待宵草」が、愛らしい黄色の花を朝日に輝かせている。毎年眺める光景ではあるが、暑さに満足しきって、涼しさを欲しがる私に「早くも秋が…」と喜ばせる花の訪れでもある。

「宵待草」か「待宵草」か……。あれこれ考察してから早くも1年。早いなー…。

例年そうであるように、待宵草が咲く頃には、全国高校球児の夢舞台「甲子園」がクライマックスを迎える。
泥まみれのユニフォームに真っ黒い顔。こぼれる真っ白い歯。勝って泣き、負けて泣く彼らの姿、感動なしには見られない人間ドラマがある。

人は悲しいときも嬉しいときにも泣く。感動して涙することもある。
また、さまざまな状況の中で鬱積した感情に押しつぶされそうになったとき、泣くことで解放されることもある。
快楽とはいえなくともそれはたしかに快感ではある。 (モンテーニュ・フランス思想家)

日本古来の武士道精神によるやせ我慢も日本人の美徳の一つではある。
しかし、無理をして感情を抑え込むより、いっそ感情をむき出しにして泣くことによって、気持ちの切り替えにつながり、新たな笑顔が取り戻せるなら、泣くことが女々しいなどとは決して言えないと思えるようになった。

そこに、“泣くことも一種の快楽である”という言葉が生まれるのだろうか。

         ( 写真: 可憐に咲く、真っ黄色な荒れ地待宵草 )
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