「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「友は我が師」

2008年06月30日 | つれづれ噺
「あなたのお友達の○○さんですよねーこの記事は」と、まだまだお付き合いは浅い、しかし大切な大切なお友達から電話で教えてもらった。
新聞を開くと、紛れもない、50年来の旧友が写真入りで記事として取り上げられていた。

ヨシッ、今日のブログはこれに決まり。と手を叩いた瞬間「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく、なさけあり。友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱」という与謝野鉄幹「人を恋うる歌」の一節が思い浮かんだ。現在の京都大学の前身である、第三高等学校寮歌として歌い継がれ、私の頭にも印象強く残っている歌である。

何故この記事と、この昔の歌がつながるんだろう。自分でもはっきり説明がつかない。
勝手に想像するに、旧友の彼は、「自分の世界」を持っていて、一つの道を究めようとする努力家としてこの目に映っている。自分の世界とは、世の中の動きや生きとし生けるもの全ての営みを、一瞬にして一コマの画像として切り取る。それによって人々に感動を与え、後世に残す仕事、つまり写真家である。

新聞記事の所在を、私に連絡してもらった大切な友人も、選ぶ道は異なっているが旧友と同様の情熱をもって、文筆活動に励んでおられる。エッセイストである。

二人に共通するのは、その道に入り込んで、書をひもときながら研究熱心であること。それを通して、周囲の人たちに指導的役割を果たす熱意を持っていることなどである。
遅ればせながら、文筆活動にいそしみたいと思っている私にとって、まさに良き友・良き師・良きライバルである。

侠気も熱意も、一旦身に付いたものは失われない。そんな友が私の側にいてくれることを誇りに思う。そう言えば、農作業の師匠・タケノコ掘りの師匠・剪定の師匠など、身の回りにそれぞれの道の師匠がいっぱいいてくれる。友達って有り難いなーそして心強いなー。
        (写真:旧友が掲載された新聞記事 2008.6.29)
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「場違い」

2008年06月29日 | 晴耕雨読
梅雨の晴れ間にと思って始めた庭木の剪定。途中から降り出した小雨にもめげず、なんとか予定時間内に刈り終えた。

狭い庭に、色んな植木がひしめいている。お金をかけたのも何本かある。そのうちのサザンカ。この家に引っ越して間もなく、かなりの金額で購入した。
当初は、それはそれは元気で見事な花を楽しませてくれた。

年々周囲に木が増えたり、枝葉を伸ばしたりして、先住のサザンカの水利権も日照権も脅かされつつある。特にサザンカは乾燥に弱い。ここ数年極めて貧弱な古木に陥りかかっている。

何とかしなければと考えたのが3年前。我が家のオール電化工事で、湯わかし用ボイラーの灯油タンクが不要になった。持って帰ろうとする業者を押しとどめ、タンクをもらい受けた。何度も何度も中を洗い流し、果てはペンキを流し込んで、ゴロゴロ回転させ、内側のペンキ塗装完了。

サザンカの根っこに据え付け満杯に水を張った。給油バルブとドレン抜きバルブの2カ所から、数十時間かけて水滴程度の水が滴るように、オーダーメードした。真夏の乾燥時期でもサザンカの根っこの周りだけは常に潤いがある。

ここまでは完璧だった。が、我が家に来る人ことごとく「ありゃー何かね?」と尋ねられる。そのたびにくだんの説明をする。これは想定外だった。
植木の根っこに金属製タンク設置は、やはり「場違い」なんだろうな。こういうのを「野暮」というんだろう。

まあいいや、場違いでも野暮でもいい。見栄えよりもサザンカの生存という実を選んだのだ。言うなれば「花より団子」を選んだのだ。イヤこの場合は団子ではなく花を選んだのだから「団子より花」かな?やっぱり世の中、ややこしい。
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「ややこしや……」

2008年06月28日 | 家族・孫話
この世に生を受けて100年と3ヶ月。介護病棟のベッドに伏す母の様子を、いろんな人から尋ねられる。
「お元気なんですか?」と問われると「ええ、まあまあです」と答える。
「お加減はどんなですか?」と聞かれると「可もなし不可もなしです」と答える。
「お元気でいいですねー」と言われたら「お陰様で、まだ生きています」とは言いにくい。
時間があれば、近況をじっくりお話出来るのだが、短い日常の挨拶程度の会話ではそうも行かない。なんと言ったら一番いいのか迷ってしまう。

元気と言えば元気。食事は経口で一日3度。専用のゼリー食ながら、介助者の手で口元に運んでもらえれば、自らの力で口を開き舌と歯茎でそしゃくし、飲み込む。当然ながら排泄もあり、汗もかけば涙も出る。笑顔もしかめ面も見せる。意味不明ながら言葉も発する。

このように、我々健常者と全く同じ動作を繰り返す毎日。ただ、障害によって自分の意志を言葉で相手に伝えられない。身体硬直で手足をはじめ全ての機能が自由に動かない。やむを得ず寝たきりの日々を余儀なくされている。それでも尚、その肉体には人間としての生命も魂魄も宿っている。

このような状態を「元気」という一言で言い表せるのかなー、どうなんだろう。
とは言っても、癌や具体的な病名のある病に冒されて、明日をも知れぬ緊迫状態でもない。だからといって安心して病院任せにしておけるかというと、決してそうでもない。

ややこしや・ややこしや。なれど、間違いなく生きているわけだから、大いばりで「お陰様で元気ですよ」と答えることにしよう。そして自然なお迎えが来るまで、手を添え口を添えて居心地よく過ごさせて上げることが、今、家族に出来る親孝行なんだろう。

NHK、土曜日午後の番組に出てくる「百歳、万歳」に比べると、母の状態は少し淋しい気持ちにさせられるが、この世に百年生きてきたことに間違いはない。
送るエールはやはり「百歳、バンザーイ」かな。
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「嬉しい便り」

2008年06月27日 | 趣味・・エッセイ
思いがけない嬉しい便り。なんだか大きな得をしたような豊かな気持ちにさせられる。個人に宛てられたのではなく、大勢の仲間と共に喜びを分かち合えることが、嬉しさを更に大きくしている。

先日、我々のグループが開催した「第2回岩国エッセイ教室」その講師としてお招きした、毎日新聞山口支局長「勝野昭龍」氏から、直筆によるお礼の葉書をいただいた。

「皆さんの熱意に楽しい一日を過ごさせていただきました。また、役員の皆様の一糸乱れぬ団結にも感服致しました」とある。これ以上の褒められ方はないくらいの賛辞である。

これこそ、我らがエッセイサロンのチームワークであり、リーダーはじめ全員の協力の力強さを評価していただいたと思っている。個人を褒められるのも嬉しいには違いないが、所詮個人の力はたかが知れたものである。そこへいくと、グループ全体が力を合わせると、強力なパワーが湧き出てくるから不思議である。

エッセイ教室の直後、つたないながら手書きのお礼葉書を投函した。もちろん私だけではなく、多くの方がお礼をしたためられた。それに対する返信という形ではあるが、お忙しいであろう支局長が、個別にそれぞれ返信を出された由。わずかでも物を書こうと志す人間にとって、忘れてはならないマナーを見せつけられた思いがする。

少し大げさでは、というご批判もあるかも知れない。が、嬉しいことを素直に喜び、次へのエネルギーに換えることが、物を書こうとする者の感性と言われる得体の知れないパワーになるのだと思う。そして、筆まめであることは、我々の忘れてはならない本分でもある。「鬼のような悪筆」と言われようが、必要なときはこの手で書くぞー。これからも。
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「名は体を表す」

2008年06月26日 | ニュース・世相
梅雨の合間、今にも降り出しそうな厚い雲。こんな天候でも運動公園は賑わっているのだろうか。ふと興味をおぼえてクルマを走らせた。

そこには曇り空などなんのその。雨さえ降らなければ、ボールを追ってラケットを振り回す元気印の高齢者があふれている。掛け声も半端じゃない。すっごい熱気であり、写真だけを撮りに行った自分が、恥ずかしくなる光景がひろがっている。

一方ゲートボール会場では「カチン」という、スティックでボールを叩く音が小気味よく耳に飛び込む。審判の機敏な動作と判定の掛け声で、同じくこちらも熱気にあふれている。
このパワーが今時の、高齢者と呼ばれるお年寄りのパワーであり、元気さである。

この人達のパワーをないがしろにしたり、おざなりに扱うと、政治さえも頓挫してしまうことを、政治家の人たちも世間一般の人たちも忘れてはならない。

「後期高齢者」という扱いそのものの内容もさることながら、ネーミングがよくない。
「高齢」とは、「年齢が多く、老いていること」と書いてある。その上に「後期」がくっつけば、どう考えてもお年寄りが大事にされているという印象からはほど遠い。

何でもかんでも政府の打ち出す方針に反対する者では決してない。
最初に反対ありき、貸す耳を持たない、では何も解決しないことも十分承知している。
その上で、人間が年を重ねるということは、誰しも避けて通れない高齢者になっていくことを政治家の人たちもよく認識した行政を遂行して欲しいと願っている。

「名は体を表す」と言われるように、名前を聞いただけである程度内容の予測が付く。
それなら尚更のこと、行政のネーミングには慎重を期する必要があろう。出来れば中味もネーミング同様、いやそれ以上に慎重を期してもらえると有り難い。
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「生涯、大まじめ」

2008年06月25日 | 趣味・・エッセイ
長いことマージャンから遠ざかっている。身体のことを考えるとあまり健康的とは言えない。しかし、脳トレ・ボケ防止には結構効果がありそうだ。
世の中には、害になるものは多いけど、100%有害で1%もいいところがないという現象はあり得ない、と言うのが持論である。

いいメンバーに恵まれ、のめり込んだ時期が随分長かった。それこそ、土曜日は先ず毎週欠かさなかった。誰かが土曜日に都合が悪ければ、金曜日に繰り上げたり、日曜日に繰り下げた。カラスの鳴かぬ日はあっても、週に一度パイを握らない日はないくらい、それはそれは真面目に取り組んできた。

その頃の心意気として「たとえ不真面目なことでも、一生懸命取り組むことに意義を見いだそう」などと勝手な理屈をつけて、2番目の家庭争議の火種をくすぶらせ続けた。それでも自慢じゃないがやり通した。その頃から頭の上がらない一家の主になりさがった。

家庭争議1番目の火種?それはねー…言わぬが花としておこう。 今更火に油をそそいだら、今夜からのねぐらにも事欠きそうだから。

兎に角、右手親指と中指の腹、薬指の内側に出来た分厚いタコは、勲章のようなものだった。マージャンに関する武勇伝や、何とか乗り越えた家庭崩壊の危機などを話せば、明日の朝まででも続ける自信があるくらい、方々に多大な迷惑をかけてきた我がハンセイ。

今では手も足も洗って、タコの面影もほとんどなくなった。そこで、パイに代わる脳トレグッズの登場がキーボードである。こちらものめり込むと、運動不足・睡眠不足・肩のこり、畑手入れもさぼりがち。二階の自室に引きこもり。

でもまあ、どちらも好きな道、あれもだめ・これもだめでは息が詰まる。家庭争議の火種が一つ取り除かれただけでも、大儲け。
これからも、つたない独りよがりのエッセイもどきを書きながら、脳トレは続けて行きたい。でもマージャンも声が掛かれば飛んでいくかもね。染み込んだアカはなかなか落ちないもんだねー。アナタはこんな経験ない??
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「アーカイブ随筆2」

2008年06月24日 | アーカイブ(蔵出し)随筆
最近、手紙を書かなくなった。電話という文明の利器が、あまりにも幅を利かせる昨今。手っ取り早くしかも確実に、自分の意志を相手に伝え、直接返答を得られる電話に、ついついお世話になってしまう。

頭の中でモヤモヤしていること、自分の気持ちにあることを、文字で手紙として表すのはなかなか骨が折れる。しかも手紙は、相手に伝えたい表情やニュアンスなどが加味されない。そのものズバリ、そこに並べてある文字のみで一方的に理解してもらわなければならない。いわゆる融通性に欠け、ごまかしがきかないのも功罪取り混ぜた手紙というものの特色であろう。

誰しもが経験する、メンメンたる恋心を相手に伝える最初の手段は、なりふり構わず思いの丈を書きつづる「ラブレター」に勝るものはない。
友達のラブレターを一手に引き受け、半ば無責任に、半ば自分自身の練習のつもりで、精出して代筆した高校時代が懐かしい。

近頃の人達はラブレターさえもあまり書かない、イヤ書けないのかも知れない。
いきなり電話や直接対面で、恋心を打ち明ける。それだけ初恋もラフになり、恋することの妙味など感じない世の中になったのだろう。

「一筆啓上、火の用心、お仙病ますな馬肥やせ」戦国時代の武将が、戦場から国許の妻に宛てた、短い手紙の傑作として後世に残されたものである。

手紙にはエチケットもあれば、マナーも常識もある。しかし、必ずしも既成の枠にとらわれない、多少の型破りがあったとしても、その人の持ち味・個性として受け止められる現代の風潮を活用したい。そして自由に、思うがままを素直に文章にすれば事足りると思っている。

後世に残るような傑作は出来ないが、実りないラブレターをネジリハチマキで書いた昔を思い出し、旧知の友や遠い親戚に、一服の清涼剤となる手紙を書いてみよう。

1977年 7月号 工場機関誌掲載 やぶにらみ随筆。
30年余を経た今でも、結構通用する内容のようである。世の中の動きは速いが、人間の思いはさほど早く動いてはいないのかな。
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「ウメーおはなし」

2008年06月23日 | 季節の移ろい・出来事
当たり年は二年続かないというジンクスに反して、梅が昨年に続いて大収穫となった。
カミサンの実家にある、わずか5本ながら今を盛りの梅の木、たわわな実を付けた。

ここ2・3年、寄る年波や体調不良などで、十分な手入れが出来なくなった実家の義兄夫婦に代わって、剪定・下刈り・施肥・枝振り調整などをマニュアル通り、この手でやっている。マニュアルは林業センターからもらい受けた「梅の栽培方法」に関する本格的参考書のコピーである。

この通りにやれば大体うまく出来るはずなのだが、毎年毎年そうも行かない。これが当たり年と裏年の違いなのだろう。腕が悪いわけでは決してない…と思う。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」と昔から言われるように、梅は徒長枝などの剪定時期や頃合いがなかなか難しい。今年の出来映えがよかったら、前年の剪定ほか全てがうまくいったと評価される。一夜漬け試験勉強の答案用紙を思い出す。

梅雨の合間を見計らって梅もぎに精を出す。これでもかこれでもかと言うほどなっている。水滴を含んだ葉っぱが容赦なく衣服を濡らす。ヤブ蚊は絶え間なく襲う。膝まずいたり、伸び上がったりの2時間あまり。二人で100kg近い収穫。

普段の生活では味わえない、自然の中に溶け込んで流す汗。膝は笑う、太ももは吊る感じ。それでも貴重な体験をする年間行事の一つになっている。シャワーと生ビールと、雨で増水した川の瀬音の接待を受ける。帰り道の1時間あまりはクルマの助手席で高いびき。至福のひとときである。

今年もお手製の美味しい、梅干し・梅ジュース・梅味噌が存分に頂ける。食欲不振の夏場には欠かせない食材である。
ここで、最近の梅干し作りについての講釈を一つ。容器に梅を入れる。それを浸すほどの「らっきょう酢」を入れる。ふたをして冷暗所に保存約4ヶ月。従来とはひとあじ違った梅干しの出来上がり。おにぎりの中味として絶品ですぞ。
      (写真:鈴なりの梅の実)

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「雨の”夢大吊り橋”」

2008年06月22日 | 旅行・レジャー
21日土曜日、朝5時30分起床。鉛色の空を見上げながら6時15分家を出た。
6時30分予定の集合場所からバスに乗り込み、目指すは大分県九重(ここのえ)町、「日本一の“夢大吊り橋”」。

行く途中はさほどでもなかった雨が、大分県九重町の手前あたりから土砂降りとなった。
案の定、最大の目的地「夢大吊り橋」に着いた時は、準備した雨合羽を通すほどの大雨。
カメラに降りかかる雨を、折り畳み傘で辛うじてよけながら、執念で全景写真だけは撮った。橋では笠をさしてはいけない規則。靴も靴下もグッチョグチョになりながら、途中まで渡ったがそれ以上は進まなかった。アホらしさと惨めさが込み上げてきて。

この日に備えて、19日・20日の2日にわたって、このブログで雨をしっかり誉めあげておいた。雨もやみくもに降るのではなく、人間の生活を支えようとする雨もある…と。今回の旅行日だけは「降らないでおくれね」という切なる願いを込めてゴマをすったのに。
残念ながら、このゴマすり効果を上回る味噌桶人間がツアーの中に混じっていたのに違いない。エッ私?カミサン? 否定できないね。

今回の旅行で意外だったことが三つある。
一つ、行き先の天気予報が、大雨洪水警報が発令されているにもかかわらず「予定通り実行します」と旅行会社が自慢そうに言うこと。
二つ、45人乗りの大型バスなので、それなりの人数かと思いきや乗客は23人。後ろはがら空き。採算人数は一体何人なんだろう。
三つ、忘れられかけた九州の山奥に観光客を呼び込むためとはいえ、19億2千万円もの巨費を投じて、日本一の吊り橋を架ける必要があったのだろうか。

夢大吊り橋の概要は、大分県玖珠郡九重町を流れる鳴子川に架けられた、長さ390m・高さ173m(いずれも日本一)幅1.5m・耐重量:大人約1800人分の117トン・入場料大人500円。2006年5月完成。生活道路にあらず、観光専用。

錦帯橋を誇りにする岩国市民だからこそ、よそにどのような自慢の橋が出来たのか、是非見知っておきたかった。
総延長700キロ、延々15時間のバス旅行。雨にはたたられたが、食べ放題の豊後牛シャブも美味しく一人前は頂いた。何より深緑の豊後路を終日森林浴出来たことが、また明日への活力になるであろう。と言うことにしよう。
       (写真:大雨にかすむ日本一「夢大吊り橋」全景)
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「♪ あじさいの雨」

2008年06月20日 | 季節の移ろい・出来事
6月の花と言えば菖蒲と紫陽花が双璧だろう。もっとも、お金を出して遠く北海道までお花見に出向けば、ラベンダー・ハクサンチドリ・エゾツツジなどが見られる。

お金を掛けずごく身の回りにある花、あじさいが今見頃である。
色とりどりの花弁に、一生懸命梅雨のしずくを抱いている姿は絵になるし、まさに演歌の主役を張るのにふさわしい。

そう言えば、「雨に咲く花」に代表されるように、演歌に雨は欠かせない格好のネタとなっている。それに加えてあじさいとくれば鬼に金棒である。「あじさいの雨」「あじさい情話」などなど。

雨やあじさいは主役であるはずなのに、残念ながら、どちらかといえば悲恋や別れの物語で負のイメージが強い。「♪雨が降るから逢えないの、来ないあなたは野暮な人……」それだけ我々日本人にとって雨は、あまり有り難がられない存在のようである。それでいいのかな?

干ばつに悩まされ、作物の栽培さえままならないアフリカ各地の人が聞いたら、雨は嫌われながらも演歌の主役として扱われている現状を、怒るだろうなー。
そんな気候的に恵まれた我が国が、食糧自給率が40%を割り込むという現実は何なのだろう。

オット…あじさいの花弁に宿る水玉の可憐さを言いたかったのに、大げさな話になってしまった。ただ、まばゆい太陽と同じくらいに、雨を大切なパートナーと認めて歓迎する気持ちも持ってあげないとね。
人間って随分勝手な生き物だなーと自分で自分を叱っておこう。
      (写真:あじさいに宿る水玉)
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