3月16日(火)、雨。
早速「コメント」で「非公開連絡」を受け取りました。
これを使っていただくと大変便利です。
東京にお住まいの「ともや」さんから、「伊藤駒」の写真と手紙をいただきました。
「ともや」さんは、昭和49年に師匠からこれを譲り受けて、大事になさっていたものの由来がもうひとつ分からず、先日、コメントで質問をいただきました。
「伊藤駒」は、竹内淇洲翁ゆかりの駒です。
これについては淇洲翁の六男・六朗さんの手紙などで見聞きしているところを述べさせていただきます。
淇洲翁が10代の若き頃に書いたのが「淇洲書」の駒。
このオリジナルは「盛り上げ」」ではありません。「漆の書き駒」です。
有名な話ですが、関根七段が酒田市を遊説したとき、竹内家から「次期の名人たる人に」と贈られて、東京に戻った関根は、以後これを愛用して連戦連勝。やがて巷間では「向かうところ敵無し、錦旗の駒」と称えられました。
淇洲の「錦旗の駒」が有名になるにつれ、竹内家では親戚の伊藤四郎右ェ門なる人が中心になって、版木で「錦旗の駒」の原版をつくり、これで駒を作った。
これが世に言う「伊藤駒」。およそ10組作って、主な将棋関係者に渡したそうです。
余談ですが、昭和60年頃、茅ヶ崎の木村名人宅で名人所蔵の駒を10組ほど拝見させていただいたことがあります。このときの名人はお元気で奥様と長女にもお会いしました。
名人は「一番大切にしている駒です」と語りかけながら出してこられたのが、竹内家からもらった「淇洲書」の駒。材は薩摩つげ。それが「伊藤駒」でありました。
「ともや」さん自身は「磨くことはあっても、使ったことはない」とのことですが、師匠から受け継いだ「淇洲書」の駒は、かなり使われた形跡がありますので、お師匠さんはことのほか愛用されたのでしょうね。
双玉の駒。一枚の駒尻に「淇洲書」。他方には銘はありません。これも「ともや」さんお持ちの駒と同じです。
六朗さんから戴いた手紙類。これを写真にしました。
佐藤公太郎さんが著した豆本「錦旗の駒」のコピーをお届けします。
参考になさってください。そのほか質問がありましたら、ご遠慮なくどうぞ。
では、また。
[追加記述]
答えていなかった質問がありましたので、お答えします。
「ともや」さんの駒も、薩摩ツゲです。
見るところは年輪の調子です。薩摩ツゲは総じて年輪の強弱が少なく、かつ、幅が広いのが特徴です。
なお、オリジナルの「淇洲駒」は、鳥海山のツゲだといわれています。
これは、本間美術館(寄託先)に今もあると思うのですが、30年ぐらい前に此処で実物を拝見しています。
このツゲの年輪も、あまり年輪の強弱(濃い薄い)は殆んど無く、緻密で堅そうでした。
ーーーー
写真は、六朗さんから戴いた手紙(ブルーブラックインキ以外に、赤ペン、緑ペンも)や「淇洲書」の字母紙、その他です。「伊藤駒」が薩摩つげであることも、この手紙の中に書いてあります。
木村名人の「淇洲書」も薩摩つげで、年輪の間隔は3ミリくらいでしたか。
その後、駒は将棋博物館に寄託されて、3年くらい前までは大阪にありましたが、今は木村家に帰っています。
「伊藤駒」が10組ほど作られたこと。薩摩つげであったこと。寄贈先の一人が木村名人であったこと。その他親交のあった棋士にも進呈していること。「広報酒田」の記述は、佐藤健一氏であるが、内容の大部分は佐藤公太郎さんの提供であること。
ということで、「ともや」さんのお持ちの駒は、世に言う「伊藤駒」のひとつだと思います。
あー、そうそう。「竹内」は、酒田では「タケノウチ」と呼ばれています。
早速「コメント」で「非公開連絡」を受け取りました。
これを使っていただくと大変便利です。
東京にお住まいの「ともや」さんから、「伊藤駒」の写真と手紙をいただきました。
「ともや」さんは、昭和49年に師匠からこれを譲り受けて、大事になさっていたものの由来がもうひとつ分からず、先日、コメントで質問をいただきました。
「伊藤駒」は、竹内淇洲翁ゆかりの駒です。
これについては淇洲翁の六男・六朗さんの手紙などで見聞きしているところを述べさせていただきます。
淇洲翁が10代の若き頃に書いたのが「淇洲書」の駒。
このオリジナルは「盛り上げ」」ではありません。「漆の書き駒」です。
有名な話ですが、関根七段が酒田市を遊説したとき、竹内家から「次期の名人たる人に」と贈られて、東京に戻った関根は、以後これを愛用して連戦連勝。やがて巷間では「向かうところ敵無し、錦旗の駒」と称えられました。
淇洲の「錦旗の駒」が有名になるにつれ、竹内家では親戚の伊藤四郎右ェ門なる人が中心になって、版木で「錦旗の駒」の原版をつくり、これで駒を作った。
これが世に言う「伊藤駒」。およそ10組作って、主な将棋関係者に渡したそうです。
余談ですが、昭和60年頃、茅ヶ崎の木村名人宅で名人所蔵の駒を10組ほど拝見させていただいたことがあります。このときの名人はお元気で奥様と長女にもお会いしました。
名人は「一番大切にしている駒です」と語りかけながら出してこられたのが、竹内家からもらった「淇洲書」の駒。材は薩摩つげ。それが「伊藤駒」でありました。
「ともや」さん自身は「磨くことはあっても、使ったことはない」とのことですが、師匠から受け継いだ「淇洲書」の駒は、かなり使われた形跡がありますので、お師匠さんはことのほか愛用されたのでしょうね。
双玉の駒。一枚の駒尻に「淇洲書」。他方には銘はありません。これも「ともや」さんお持ちの駒と同じです。
六朗さんから戴いた手紙類。これを写真にしました。
佐藤公太郎さんが著した豆本「錦旗の駒」のコピーをお届けします。
参考になさってください。そのほか質問がありましたら、ご遠慮なくどうぞ。
では、また。
[追加記述]
答えていなかった質問がありましたので、お答えします。
「ともや」さんの駒も、薩摩ツゲです。
見るところは年輪の調子です。薩摩ツゲは総じて年輪の強弱が少なく、かつ、幅が広いのが特徴です。
なお、オリジナルの「淇洲駒」は、鳥海山のツゲだといわれています。
これは、本間美術館(寄託先)に今もあると思うのですが、30年ぐらい前に此処で実物を拝見しています。
このツゲの年輪も、あまり年輪の強弱(濃い薄い)は殆んど無く、緻密で堅そうでした。
ーーーー
写真は、六朗さんから戴いた手紙(ブルーブラックインキ以外に、赤ペン、緑ペンも)や「淇洲書」の字母紙、その他です。「伊藤駒」が薩摩つげであることも、この手紙の中に書いてあります。
木村名人の「淇洲書」も薩摩つげで、年輪の間隔は3ミリくらいでしたか。
その後、駒は将棋博物館に寄託されて、3年くらい前までは大阪にありましたが、今は木村家に帰っています。
「伊藤駒」が10組ほど作られたこと。薩摩つげであったこと。寄贈先の一人が木村名人であったこと。その他親交のあった棋士にも進呈していること。「広報酒田」の記述は、佐藤健一氏であるが、内容の大部分は佐藤公太郎さんの提供であること。
ということで、「ともや」さんのお持ちの駒は、世に言う「伊藤駒」のひとつだと思います。
あー、そうそう。「竹内」は、酒田では「タケノウチ」と呼ばれています。
お時間をいただきありがとうございました。
お言葉に甘えて一つ質問させていただきます。
広報さかたにて
佐藤健一の文化出会学
幻の錦旗の駒 その三にて
伊藤駒について材料も薩摩ツゲ
をしようしている。とありますが
木村名人他皆さんが所有なされている
伊藤駒の材料は薩摩ツゲなのでしょうか?
私は駒については全くの素人なので
見当違いの質問になるかもしれませんが
写真にてお送りした私の駒も薩摩ツゲ
なのでしょうか?お手数おかけいたします。
いろいろありがとうございました。
遠き日のことが鮮やかに蘇りいろいろな思いが
浮かんでは消えていきました。
駒をお作りになった方ばかりでなく、携わってきた方々、そして井上先生を筆頭に、この駒で勝負を争われた方々や研究に並べられたりとそれぞれの思いが伝わってくるようでした。
お話は変わりますが
先生のブログでの駒箱のコメント読ませていただいてなぜか?影水の駒箱作りを思い出してしまいました。
失礼な質問になってしまうかもしれないのですが、先生ご自身は駒箱をお作りなされるのでしょうか?
なぜこのようなことをお聞きするのかというと
私の手元に大変不思議な駒箱が残されているからなのです。
どのように不思議かというと
上がタモ(確信は持てません)で下がサクラで
作られ、しかも売りものでないことがひとめで
解るほど上箱の素材の欠点が目につきます。
それなのに、極限を思わせるほど上箱と下箱
の隙間が無く手入れをするまでは、開けるに
してもしめるにしても、ちょっとでも気を
許すと、開けることもしめることも出来なく
なってしまうほどです。
空気を閉じこめてしまうと、駒がはいってい
ても、空中で下箱から手を離してもぴくり
ともしません。うまく箱を開き上手くしめる
と、砂時計のごとく落ちていきます。
上下とも細工がほどこされていて
何度手にしても飽きることはありません。
妥協のない駒づくりをなされる先生なら
解っていただけると思います。
上箱が落ちていく緩やかなスピード
先生ならどのくらいが限度とおもわれるで
しょうか?お忙しいところ、ご意見を
お聞かせいただけたら幸いです。
どうかよろしくお願いいたします。
小生は駒箱は作りませんが、桐箱屋さんに作ってもらった箱に、漆ふきしたり、蝋引きしたり、磨き上げたりはします。平箱も独自で設計して、作ってもらったものに駒を並べる仕切り桟は、自分でやります。
自分でやる方が手っ取り早いからです。
ところで、箱の蓋の閉まる時間ですが、早すぎても遅すぎても、どうかと思います。
時計で測ったことはありませんが、多分3秒とか5秒とかでしょうか。3秒は、少し早すぎるかもしれませんね。
というのも、駒の入った駒箱を持ち上げるとき、先ず左手で蓋ごと持ち上げ、畳との間に隙間を作って、利き手の指で底から持つわけですが、このとき、数秒間は、中箱も自然に持ち上がることが良いわけです。
なお、桑のときは、材が重いので「スーッ」と閉まっても、桐の場合は軽いので、多少微妙で時間が掛かります。
特に、小生の設計した桐箱は「薄造り」なのでさらに細工は微妙となります。
本日午前中にメール便届きました
本当にありがとうございました。
先生の直筆の封筒とお手紙
影水の想い出と同じ箱に保管いたします
いつかどこかで影水と私と熊沢先生の
三人でお会いできたらという思いを込めて……