Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

泰山曲阜2

2011-11-04 01:52:24 | 中国旅行

実は前回のブログの一番最初の写真を見ていただければ分かるように、10月28日早朝、運よく天候は好転し、御来光はばっちり見ることができた。ただ、前日にガイドが「この石段を登ったこの辺から見ます。明日はホテルの担当者が案内してくれる」とだけ説明し、本人は惰眠をむさぼっていたのだが、実際はホテルのおじさんは、ホテルの入り口を開けて、東の方角を指さし、「あの広場(前日ガイドが言った場所)からは角度が悪くてよく見えない。向こうの(別の)ホテルの前の場所に行ってくれ」と行ったきり、道案内などしてくれなかった。我々は人々が進む方向にたくさんの人がすでに集まっているのを発見、後をついていって日の出直前にその場所にたどり着けた、幸い、雲があり当初の日の出想定時間より遅く太陽が顔を出したので、写真のように雲から太陽が出てくる前から待ちかまえてみることは出来た。
中国人、相変わらずいいかげんで無責任である。

さて、ホテルに戻って朝食を食べて、7時半にはダッシュで出発だ。今日は日程が込み入っているらしい。
前日は曇っていて見えなかったが、南大門の裏のすぐそばに、まさしく客家の円楼(土楼)のような形の建物があったので、ガイドに聞いてみると福建省の土楼の事さえ知らなかった。オイオイ、あんたは観光のプロフェッショナル、ガイドじゃないのか? 世界遺産だぞ。やはり青島は、山東は田舎だ。で、レストランのようだったので、客家が作ったのだろうか?

でロープウェーで下山し、バスで下まで戻って、待っていた車に乗り込み、約2時間で昼前に何とか曲阜に着いて、孔子廟、孔府(孔子一族の家)、孔林(孔子一族の墓地)を見て回った。この「三孔」観光には専門のガイドが現地で対応して、土産物屋の前ではゆっくり歩いて、観光地の解説は早口で済ます。孔林では「カート、一人20元です。見学料金には含まれてません」と半ば強制的にカートの金を払わされ(実際は広すぎて、短い時間で全体を歩いて回るのは不可能だったが。べつに20元が惜しいわけではないが)、孔子の里にしては極めて生臭い考えのガイドだった。

孔子廟の中にいる孔子の像だが、ガイド曰く、「孔子の顔はすべて見ることはできない。そのように廟が作られている。すべてを見えず一部を隠すことで、孔子の神格性を高めることに寄与している」とのことだそうだ。

孔林の孔子の墓の墓石も「大成至聖文宣王墓」と書かれているが、「王」の字の下の部分は墓石の手前の石段に隠れて、下から拝んでいるときは「王墓」と読めないようになっている、石段を一つあがると「王」の縦棒が長ーい、一番下の「一」まで見ることができる。これも、子孫たちが孔子を陰で「王様」と呼んでいることが、参拝する皇帝にばれて顰蹙を買わないように、一見して「王」と見えないように作っている、とのこと。実際、孔子が死んだときの墓はものすごく小さく、その後、子孫たちによってどんどん大きくされていったらしいが、孔子の意を介したものなのかどうか。

孔子廟のそばのホテルのレストランで昼食。韓国の金大中・元大統領や台湾の連戦・国民党名誉主席(元副総統)も訪れたようだ。連戦と夫人が並んでいる写真が張ってあった。それ以外にも中国共産党の指導者が続々訪れているホテルのようだった。孔子にあやかりたいのかね。
そういえば、中国の民主活動家の劉暁波氏に昨年、ノーベル平和賞が授与されたことに抗議したのか、中国の“民間”学者団体が設立した「第一回孔子平和賞」の受賞者は連戦だったなあ。本人は中国に訪れて賞金を手にすることはなかったが。で、今年は孔子平和賞はボツになっちゃったそうだが。連戦は曲阜を訪れていたことが、受賞理由の一つにあったのかしらん・・・?

その後2時間ほどかけて済南に行き、昨年できたばかりの山東省博物館へ。3階建てのでかい博物館で、展示室より中央の吹き抜けの階段の方が立派だ。ただ、展示していたお宝はすごいものばかりだった。西安の兵馬俑の人型や馬の土製の実物大の像は有名だが、ここ山東省は秦が中国を統一する前からの有力地方国家「斉」のあった場所で、土の人形ではなく、生きた馬や人間を皇帝の墓に殉死させて埋葬していた。その馬車や人骨が展示してあった。その後、秦の西安の兵馬俑の時代を経て、漢代などのやや小さくなった兵馬俑も提示されていた。

これはトラの絵だ。よーく見ると右側の顔がユーモラスだ。当時はこの辺までトラが現れていたのだろうか。あるいは円山応挙のようにトラを知らないで話だけで描いたのだろうか。

人の絵も当時の人々の風俗が垣間見られて面白い。

それ以外に、壁画が描かれた古墳とか、仏像とか、明代の「洪武○年」と書かれていた木造の船。ものすごく保存状態がいい。これは兵隊や軍事物資を運んだ運搬船で、山東の運河を行き来したらしい。かつて福建省の泉州でマルコポーロや鄭和の時代の木造の外洋航海船を見たが、それよりは小さいが、構造は似ている。これは運河を行き来したから、強風や荒波をあまり考慮しなくてもよかったのだろう。
「孫子の兵法」が書かれた竹簡もあった。

従来その存在が疑われ、孫臏が自らの兵法と「孫氏の兵法」の両方を書いたとの説もあったが、これらの竹簡が別々に発見されたことで、孫武が「孫子の兵法」を著わし、孫の孫臏がそれに続いたとの説が証明された、世紀の大発見らしい。

で、午後6時ごろ真っ暗になる手前に、済南を流れる黄河を見た。近くに黄河森林公園があるらしいが、川幅はたいしたことはなかった。山東省までくると、黄河もこんなものか、という感じ。ちょっと見ただけで十分だった。
で、ホテルに戻って沈没。この日は結構ハードスケジュールだった。





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2 コメント

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日の出の角度 (天文家)
2011-11-04 15:56:40
日の出の角度は、季節に依って大幅に異なります。月の出の角度は、もっとぶれます。中国人が好い加減なのではなく、無関心な中国人が多いだけでしょう。私の周りでも、月の動きに関して、トンチンカンなことを言う日本人が多いですよ。
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Unknown (Kazuchan)
2011-11-06 00:24:06
いいないいな!羨ましいな! 私も行ってみたいな? 
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