朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

渡辺3号

2014-04-02 00:23:09 | 21世紀
渡辺3号
2014/04/02
 正村一平君は小倉高校の同級生で、私と同じ土木屋になりました。松尾橋梁に就職し、韓国の工事が多く、韓国語はペラペラです。韓国で友人に自分の韓国語の程度を訊いたところ、小学校4年生程度と言われたそうです。(本人は幼稚園程度と謙遜しています)75才ですが、勉強に精出しておられます。
 手紙を戴きました。
 昨年、一昨年と二年間、大阪府の高齢者大学で古典文学一般と、源氏物語を受講しましたが、今年は「大阪歴史探訪」というクラスを受講してみようと本屋で何か参考書でもと気をつけていましたら、ある本を見つけ読みはじめました。「渡邉」という地名が出ていました。
 「大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号」ビジネス街の中心にご鎮座する座摩(いかすみ:通称・ざま)神社の住所である。通常数字で表記されるはずの番地が「渡辺」となっている風変わりなこの住所こそ全国多数の名字ランキング五位・百万人以上いる渡辺さん発祥の地である。
平安時代、渡辺の地と呼ばれていたのは、今の天満橋の南西付近。その地の守り神であった座摩神社は、豊臣秀吉が大阪城を築く際、現在の地に移転させられ、一緒に渡辺の地名も引っ越した。渡辺とは、「船の渡しの辺り」の意味で、その名の通り渡辺津と呼ばれ重要な港があった。江戸時代に名を変えたが、今も遊覧船の発着地として賑わう天満橋のたもと、八軒屋浜である。
平安時代の中頃のある日、その渡辺津に一人男が現れる。嵯峨天皇の流れをくむ武将・源綱(みなもとのつな)である。彼は渡辺の地に住み港湾業務を取り仕切っていたことから、自らを、渡辺綱と称した。そう、最初の渡辺さん誕生である。彼の子孫は渡辺党という武士団に発展し、瀬戸内の水軍として全国に散っていった。時は流れ、昭和の頃には、渡辺町と定着していた座摩神社の住所は、平成元年(1989年)の町名変更で、消滅の危機にさらされる。だが全国に散っていた渡辺さんたちが反対運動を展開し、渡辺の名は。異例の番地表示として残ることになったのである。
 今日も、渡辺姓の聖地を守る座摩神社その第五十八代宮司もまた渡辺さんなのである。(松原宏文)
 私(渡邉)の先祖は、毛利氏の下級武士で、関ケ原のあと、山口県に住み農家になりました。私の曽祖父は、明治になって上京し出世を試みましたが、志を果たさず病没しました。祖父は山口高商に進学し、東邦瓦斯・西部ガスに勤務し、北九州市で私は誕生しました。私の先祖は大阪から瀬戸内、下関・北九州と移動したのでしょう。正村さん思い出させてくれてありがとう。


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