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久しぶりに寒川猫持さんの「面目ないが」をパラパラ開いてみる。猫持さんの短歌はちょっと変わっていて読み出すと癖になる。文庫本の解説というか猫持評を「当世のますらおぶり」というタイトルで田辺聖子さんが書いている。お聖さんによると『詠んで愉しく、耳で聞いて娯しく、おぼえて口ずさめば尚いっそうたのしい、というふしぎな歌が、あちこちで目に止まり、それは、<ぴょい、ぴょい>と、飛びはねている、という印象であった。』とあるが、実際の歌を見れば一目瞭然である。
「もみじ饅頭一個くわえて走ってるあの縞縞がうちの猫です()」
このような歌を見ると自分でも冗談半分に作れそうな気になるが、これがなかなか難しい。ちょっと猫持先生の歌を並べてみよう………
「遅くまで物書く吾を蒲団から顔だけ出して猫が見ている()」
「にゃん吉よおまえが死ねばボク独りなんでんかんでん死なねでけろ()」
「僕ですかただ何となく生きているそんじょそこらのオッサンですよ()」
「おーいお茶、風呂に入るぞ飯食うぞぼちぼち寝よか谺しており()」
「尻なめた舌でわが口なめる猫 好意謝するに余りあれども()」
という感じである。
たぶん、まねはできても猫持先生の歌境にはたどり着けそうもない。というのも猫持先生は歌を読むだけでなく、もとは俳句を正式に作っており、虚子門下の有名な先生に師事していたらしい、文筆の方は、かの辛口コラムニストの山本夏彦氏の門人で兄弟弟子に安部穣二さんがいるらしい。何でそうなんだか、わからないが由緒正しい文学者なんだと知って恐れ入る。
本人は文学者でないというがそのくだりは次のようである。『歌人が文学者なら、歌よみは文芸家である。もっとわかりやすく言えば、歌をよむ芸人である。』猫持先生は、子規について和歌を短歌と改めて、芸術にまでたかめたのはいいが大衆性が失われた。もう一度、歌を大衆のものにできないかと考えて歌を詠んでいる、らしい。
たしかに、結社などを作って徒弟制度的な閉空間での運営には、大衆性はない。
最後に猫持先生の俳句を掲げるがわかりやすいし、笑いもありの味のある俳句になっている。
「風車並べて風を売る男()」
「牛の面程はごわっど島大根()」「菊を着てみんなあの世の人ばかり()」
「蜆汁子なき夫婦に貰ひ猫()」
「漱石に紙魚の這ひをり古本屋()」
「哲学を少しかじりし紙魚シミらしき()」
「木犀や吾に猫待つ家路あり()」
「雪女郎別嬪ならば吾ゆかん()」
最近はどんな歌やエッセーを書いているのかちょっと気にかかる今日この頃である。
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