2019/11/02
万葉集は誰の発案で編集が始まったのだろうか。最終的には大伴家持に委ねられたのは確かだが、誰かから引き継いだ事業であることは、確かである。引き継いだというのは第一、二巻は編集方法が違うし時間が飛鳥京、藤原京の歌が中心となる。
持統天皇かという説もあるが、編纂のマグマは日本書紀の成立における歴史の歪曲でないかと思う。
理由を論理的に述べるのは難しいが反藤原派からすると我慢がならなかったのだろう。日本書紀は元正天皇の時、舎人親王により奏上され、藤原不比等はその完成を見届けて死ぬが、翌年から、日本書紀の進講が始まる。太安万侶が講師であったらしい。この御進講がどんなものだったかは気になるが、反藤原氏の皇親派には物議を醸したのだろう。
不比等(720年死)亡きあとは藤原四兄弟が活躍するが首皇子、安宿媛と長屋王のゴタゴタがありその結果長屋王は排斥され自尽に追いやられる。大宰府に追いやられていた旅人も帰郷するが、失意のうちに死んでいく。旅人や億良は歌を詠んだり集めたりはしていたが万葉集を編纂してやるという野望にはいたっていなかったと考える。聖武天皇は、人麻呂を顕彰しているし誰かに命じて万葉集の編纂を望んだのであろう。誰かに命じというのは橘諸兄で田辺福麻呂、家持に引き継がれていったのではないだろうか。
大伴坂上郎女、大伴旅人、山上億良等も重要な役割は担っていたのだろうが・・・。
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