暇つぶし日記

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町田康 著 「湖畔の愛」を読む

2017年09月25日 11時59分32秒 | 読む

 

 

町田康 著

湖畔の愛 

雑誌 新潮 2017年 9月号掲載 200枚(P9-P66)

雑誌見開きの目次に「 ようこそ九界湖ホテルへ --- 投宿する大学演劇研究会のエース二人は愛を賭けて演芸対決の舞台に立つ。 芸と笑いのニルバーナ。」とあった。 「演芸」の言葉に曳かれたのは町田のデビューのころから関西方言を多用しその文体に演芸の汁が沁み込んだものを好んで味わっていたこと、先日町田の「告白」を読み次のように記していたことから本作がどんなものになるか些かの予想と期待をもって読み始めた。

 https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65738170.html

「告白」は河内音頭の題材である「河内十人切り」を素材にしておりそれは関西で広く知られた民謡・演芸である。 河内音頭は大阪河内地方から周囲にかけて広く盆に歌われ踊られる民謡であってその素材を作者は熱く語り、その語り口は町田のもち味である論理的で、且つ味わい深い古語をない交ぜにしてあり、河内弁をベースに力作長編に仕上げたものだ。 ここでは関西弁が語りを引っ張る決定的な要素となる。

本作は東京の大学演劇研究会での演芸対決の話であるけれど対決の漫才・コントで主要な言葉は関西弁でありこれは80年代からの漫才ブームで西から席巻してきた吉本軍団の影響も大きく、現在では圧倒的に東京中心に作られるテレビのバラエティー番組などで聴かれる関西弁はごく普通のものとして受け入れられていることは40-50年前のメディアでの関西弁の地位を考えると隔世の感がある。 そういう意味では文学で関西弁がこのように作品の中央に「居座る」作家はまだ半数にもはるかに及ばない。 それに町田にしてもいつも関西弁を使うわけではない。 けれど共通語をベースとしていてもその語り口、調子には七五調、調子のいい体言止め、地口などが多用され古くからの演芸・古典の伝統は明らかでありそれは例えば野坂昭如などにもみられるものでも明らかであるように関西文化のものだ。 このように町田には関西弁は魚にとっての水である。

漫才師を題材にした芥川賞受賞作に又吉直樹の「火花」があって自分はそれを早飲み込みをして芥川賞的というより直木賞的だろうと思ったと下のように書いたことがある。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64912372.html

確かに又吉の語り口、文体は同じ芥川賞作家である町田のものと比べると直木賞的ではあるけれど自分は「火花」に於けるある部分に創造的瞬間を感じ受賞に納得したのだった。 又吉作では世に出る前の芸人たちの切磋琢磨が描かれており町田の本作と同様にも見えるが本作ではそこに少々の捻りが掛かっている。 それは芸人の世界ではなく、大学の演劇研究会つまり学生の趣味、素人の団体内の話であるということだ。 それでは又吉作の中に出てくる養成所とどう違うかということがポイントで本作では登場人物の主要なものは学生であり、養成所では少なくとも将来は芸人を目指す若者たちが集う場所であるところが相違点だろう。 けれど大学には運動の分野に於いて各種野球部なり相撲部というものがあり将来プロへの道が開けているのであるから学生だといってもそこには違いがあるようだ。 

自分は1970年代初頭に学生時代をすごし写真部に籍を置いていたのだが部員でプロになったものは皆無である。 また将来プロになろうというような雰囲気さえ生まれるような場ではなかった。 それに運動部にしても例えばテニス部からテニス同好会が出てくる頃でその違いは体育会系のきつい「厳しい」縛りから離れて楽な弾力性のある「楽しさ」への移行であり、そのような雰囲気の中では将来プロになろうとする志向は一層薄れる傾向にあったように思う。 その頃知人がプロレス同好会を立ち上げた。 プロレス好きが下宿の寺の本堂でプロレスごっこをするためのものだったがそれはプロレス部ではない。 多分プロレス部というものがあったなら基礎体力造りから技の研鑽を含む体育会系のものであっただろうものがプロレス同好会は当時のオタクが集まった文科系・演劇系のもので本作の、以前は演劇研究会だったものが時代の趨勢か今では演芸・バラエティー研究会となっているそういうものとの共通項を含むものと思われるのだ。

演劇研究会の二人が愛をかけて演劇対決の舞台へ、と惹句にある。 その二人はイケメンの岡崎と(天才)大野であるが二人が目指すのは女三人組の中でとりわけ可愛い気島淺である。 町田の作には魅力ある女性が登場する。 例えば「告白」では主人公熊太郎の妻になる美少女の縫であり本作ではこの気島淺であるのだが二人に共通するのは男に阿るということを知らない独立した自我をもっていることである。 本作では気島はこの研究会に来る前にZZトップ風ブギ―ロックグループ・ポーコランズの辺見チャン一郎にイカれ彼女のカルトで無名のグループを少しは知られたものにした後、ぷいと興味を失い当研究会に来て岡崎に興味を示すかに見えるがその興味の所在は人というより演芸にあったようだ。 そこに当研究会で嘗て伝説の芸で知られ天才として鳥取砂丘に消えた横山ルンバ、ヤクザ三人組も加わりドタバタコメディーの観を呈すように演芸対決第二回戦へと突撃するのだが結末は予想を裏切るものだが気島の愛の脈絡は変わりないようで、そこには「告白」の縫に共通するものが見られ、それが両作を魅力あるものにしている。 最後の気島淺の独白にこうある。 「私はまるで光に吸い寄せられる蛾のようだ。 だから私は狂うのか(P65)」。