何故CDを買うのか、というのは、それが欲しいからというあまりにも分かりきった答えが用意されているのでばかげた質問だ、と思うけど、そんなことを考えたのは今日このCDを買ったからだ。
Rita Reys / Once Upon A Summertime The Netherlands Metropole Orchestra / TMD records 3-6919-2 1999 全11曲 録音 70,73,77,87,98年
先ず明白な事は、そのCDを所有したいということがあるのだろう。 で、なぜ、所有したいか、それはそのCDに価値があるからと自分が認めたからで、それだけでは買おうということにならないのだがこれをそのままにして置けない、自分が希望するときに自由に聴けるような体勢におきたい、手元に置いておきたい、ということなのだろう。ただ聴きたいのであれば公共図書館の購入希望リストに書き入れておけば何ヶ月か経つと希望どうりに図書館のCD棚に並んでいるかもしれない。実際は無料ということでは借り出されなくコーヒー一杯分ぐらいは手数料としておさめなければならないだろうけど。 そうすると今日は3杯分ぐらいで手に入れたということだったのか。
プラスチックの盤に情報が固定されたものがLPやCDの媒体としての形なのだが、近頃は簡単に電子機器経由で自分の末端に音楽情報をいずこからか流入させ情報を聴けるような環境を整えるようになってきているので情報が固定されたLP,CDなどは不要になるのにはまだ時間がかかるものの、しかし、時代の趨勢はこれらはいずれ淘汰され少しづつ過去の媒体になりつつあるような気がする。子供達を見ても100円ライターに毛の生えたようなサイズのものから大量の音楽を普通に引き出しているではないか。彼等には入れ物自体に対するフェティッシュともいうべき感情はないのだろうか。情報自体だけに専心するというのはそれ自体立派な事だと思うけれど、本当に大量消費用のパッケージから離脱して情報自体のみの消費ということになるのか興味深いところだ。
何故、買うのか、に戻ろう。情報になんらかの価値があると自分が認め金銭的に余裕があれば購入ということになるのだろう。余裕が無くても買う行動に出ることは私は自分の経験から知っている。若いとき本来、書籍や衣類に行くべき金ががプラスチック盤に変ったし、時には食い物もそのディスクに変った。自分には今これが要る、という思い込みは製作者、演者にはありがたい、この資本主義の中でシステムがすがるべきものだが、人はこのような一種せっぱつまった理由からだけで買うわけではなかろう。 時が経ち自分の様子、行動を観察してはっきりするのは若いときの、これが無ければ、というような一途さはない、ということである。 つまり道楽になっているのだ。
無くてもいいがあるに越した事が無く、生存のためのリストがあればたとえ優先順位の上位でなくても心、頭の中で優先順位の上位を占めるもの、時間ができれば没頭したいもの、あるときには他の生活上必要不可欠なものに優先して行なうもの、そういうものかもしれない。 たとえば、頼まれてもいないのに、なんの益もないのに今こうやってキーボードを叩く行為など道楽といえる。本人には大きな価値があり、何らかの意味があるのだろう、その時には。こう言うものを道楽と呼ぶ。
落語のまくらで昔こういうのを聞いた。 暇な連中集まって端から順番に楽しみ、道楽を聞いていく。そしてそれぞれごく普通のものごとを言っていくうちに一人が尋ねられ、その返答に南京豆、とひとこと、言って皆に呆れられ挙句がばかにされる、と言うものだった。それが忘れられない。本人は真面目に本当に素直にそう答えるのだけど周りにはなんと間抜けたばかげたことなのだろう。 けど、本人には何かの折に、おのずから確保した時間にわが手で選んで口に運ぶ一粒の南京豆、人生で意味のある、しかし、英語でいうところの、ほんのささいな、ピーナッツ。
さて、今日のこのCDなぜ買ったのかというのが今でも自分ではっきりしないから今まで長々と書いて整理しようとした。整理しきれないからこうまでだらだらと続く。 欲しいからじゃないか、聴きたいからじゃないか、意味があるんでしょ、おまいさんには、今週のピーナッツ、というわけだ。 果たしてそうか。
この何年かヴォーカルを聴く。意識、無意識のうちにそれぞれいろいろな要素を聞き比べている。甘いものに惹かれて蛍は飛んでくる、というたとえがあるがこの人、リタ・ライス、若いときの声には華があった。あった、と書くのは残念な事だ。今はない、という意味を含んでいるからだ。実際、ヴォーカルでこの人は30年以上前に1度か2度聴いた事がある程度だった。この25年この国に住んでことあるごとに世界的名声を博したといわれて登場する1924年生まれの歌手だからあちらこちらで見聞きする機会があったが、しかし、あえて自分でCDを買い進めようと言う気持ちにはなっていないのはなぜか、ということを知るためにリタ・ライスのCDを入手しようというのが動機になっていることが一つ。この人はもう50年歌いつづけているのだと言う。幾つか聴いた中では50年代の後半のが一番の時期だと思う。今回このCDではっきりしたことは70年までの録音は現役である。しかし、それ以降は喉自体が老朽化してヴィブラートが古今東西どこでも聞かれる楽器の最後の響きのパターンを示すからだ。だから、このCDでは声の質を評価できるのは一曲だけである。
もう一つは、自分の嗜好の傾向、嗜好を形付ける要素を知るための材料にも先程も書いたように他と聞き比べようと、そしてここではオランダのリタ・ライスとほぼ同世代のジャズ歌手1939年生まれのGreetje Kauffeldという人をこの何ヶ月か頭に於いて聴いているのだが比べているとその差がはっきり出ているのが見えて興味深い。
Greetje Kauffeld。 この名前は聞いていたが実際に聞いたのはテレビのジャズ番組でこの人ももう還暦はとっくに越してもうステージにたつこともあまりなく、アムステルダムの音大でジャズヴォーカルの授業をときどきうけもっているようなことをその番組の中で報じていて、歌唱を教授するという経験が自分の解釈、理解を深めるのに如何に役立ったかを逆に再認識するというフィードバック効果を話していたし、還暦を祝うコンサートでの歌唱力の確かさ、喉の若さに驚いた事だ。スタンダードの一語一語を大事に歌い解釈の確実さ見事さに打たれたのだ。その後、この15年ぐらいの録音を集めたオランダジャズクラシックのシリーズCDの一枚になっているのが中古市場に出たので入手して折にふれて聴いていたがスタンダードが渋みのあるうまさでみたされているのにじわじわと感動した。
Dutch Jazz Giants volume 1 Greetje Kauffeld / Point Entertainment 0966 / 1976, 82,87,89,92,93,99
82年の3曲はバックにフィル・ウッズ、ニルスヘニングエルステッド・ぺデルセンを擁したコンボであるがウッズ先生先走りがちな間奏で渋くうたうカウフェルド女史の声にはなかなかマッチしにくい。スイングする声ならば華やかなアルトが合うのだろうがこのセッション、ウッズ氏に関しては成功とはいえない。
ジャズのスタンダードを聴こうと思いプレーヤーに乗せる時このごろ曲より歌を聴きたいと思うことが多いのが、そのとき華やかな人、色気のある人より渋めの人、つまりはっきりと言葉を歌う歌手を選ぶ傾向にあるようだ。歌詞を喉と言葉で私たちの頭の中に一つの世界をはっきりと呈示することができる歌手としては私は多分、Kauffeld女史をもう少し聴いてみたいと思うのだ。