暇つぶし日記

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千年の祈り  (2007);観た映画、 Nov. '11

2011年11月12日 17時32分58秒 | 見る

千年の祈り (2007)

原題; A THOUSAND YEARS OF GOOD PRAYERS

83分

製作国 アメリカ/日本

監督:  ウェイン・ワン
製作:  木藤幸江 、リッチ・コーワン
製作総指揮: 小谷靖、 孫泰蔵
原作:  イーユン・リー 『千年の祈り』(新潮社刊)
脚本:  イーユン・リー
撮影:  パトリック・リンデンマイヤー

出演:
ヘンリー・オー    シー氏
フェイ・ユー      イーラン
ヴィダ・ガレマニ   マダム
パシャ・リチニコフ   ボリス

北京生まれのイーユン・リーが渡米して英語で書き、デビュー作にして数々の賞に輝き世界的ベストセラーとなった話題の短編集を「ジョイ・ラック・クラブ」「スモーク」のウェイン・ワン監督が映画化した感動ドラマ。アメリカで自由と孤独な一人暮らしをする娘と、北京からはるばるやって来た伝統を重んじる父、互いに相容れない価値観を持ち不器用なコミュニケーションに終始する一組の中国人親子の家族ゆえに生まれるわだかまりと、それでも失われない深い絆をしみじみとしたタッチで描き出す。

妻に先立たれ、北京で引退生活を送るシー氏は、アメリカに暮らす娘イーランのことを心配して、はるばる海を渡り彼女のもとへとやって来る。離婚して一人暮らしをしているイーランの生活は、シー氏の目には予想以上に荒んで見えた。娘の幸せを願い、何かと口を出すシー氏に対し、イーランは苛立ちを募らせますます心を閉ざしてしまう。一方、公園で出会ったイラン人マダムとはカタコトの英語で交わす会話を楽しみ、互いの境遇を重ねて心を通わせていくシー氏だったが…。

以上が映画データベースの記述である。

テレビガイドに今日の一作として推薦されていたものをベルギーの局にチャンネルを合わせて観た。 ストーリーは静かで淡々とした展開であり、私事、北ヨーロッパの町に住んでいれば世界中に散らばる中国人の様々な世代交代を身近にも見、それが他の国から来た移民たちとの比較において確かに違う中国人社会を自分の知る日本人社会と照らし合わせてみることもあり、海外の日本人社会の伸び悩みがすすむ現在、そもそも圧倒的に量が違うことが確かな中そんなことは無駄なことのようにも思えてくる。 例えば他国で暮らす外国人若しくは元外国人の居住形態で絶対的に違うのは中国料理屋が西欧世界のどんな辺境の地に行っても存在する、ということだ。 ピザ屋、ドナーケバブがあるではないか、といってもそれは近年のこと、この100年を越すあいだに欧米に大量にくまなく住み着いたという点では唯一のアジア人である中国人にはとてもかなわない。 田舎の村にはいつもピザがあるとは限らない。 私事、ノルウエーのバカンスで周りに森林しかないところを旅していて外食の機会がなく、一番近くで80kmほどだというので車を飛ばしたところにただ一軒ポツンとあったのが中華料理屋だった、という経験もある。 オランダのどんな辺鄙な村にいってもあるものは教会と中華料理屋だというジョークのような話があるし、西部劇では鉄道施設の人夫、洗濯屋、召使として欠かせないし、腰に拳銃をさした荒くれたちが集まるバーでジョン・ウェインが他の連中と丸いテーブルを囲んで遊んでいるのはマージャンだったりするほどだ。 

家族、一族の結束は強く、中国人はイタリア人にも例えられもするがイタリア人はアジアの辺境には大挙して移民などしない。 同じ欧米文化圏に移動しているだけだ。 この10年ほどなにかと中国が話題になる。 中国は国内には膨大なさまざまな問題を抱えながらも経済大国になりつつあり、現在のヨーロッパ財政危機に関係しても首脳たちは将来に向けての投資としての中国からの財政援助を明らかに期待している節がある。 それはヨーロッパ首脳から「倒れるなら次はお前の番だ」、といわれている女狂いのベルルスコーニを首相として頂くイタリアとは性格を異にしている。 そんな、国が沈没するかどうかのイタリア人と上げ潮中国の国民の生活と意見というのはどんなものだろうか。 それぞれ、国などは関係ない、自分の家族が喰っていかれるかどうかだ、というに違いないし、家族の結束、ということでは例えばマフィア映画に出てくるようなところではそこには必ず家族がからみ義理がからむけれど中国マフィア映画でみられる家族愛はどうなのだろうか。 団の構造が違うのかもしれない。 どちらにしても非情では変わりないだろうが中国映画のほうが非情であるような気がする。 充分な検討もなく無責任な話ではあるが、それは中国人のほうが金、つまりビジネスになると厳しいような気がするしそれが中国という国の状態の反映だからだ。

オランダでは何年か前に中国マフィアの抗争があり幾つかの死体があがり警察はそれには全く見当もつかずそのあげくにメディアで情報を募ったのだがその後何も発表もなく、どう解決が付いたのかもわからない。 警察国家になるのではと知識人から警告のでることもあるオランダででも自国内の中国人社会の情報を警察は掴めないということだ。 オランダのメディアをこの何年もにぎわしているドラッグ・マフィアの頭領であるオランダ人の裁判で明らかにされつつある構造をみても悪たちのつながりには親族、家族というような横の広がりはみられず個人が何人かあつまっただけのものと思われ、その構造自体は典型的な個人主義社会のモデルのようにみえ、だからそういう社会の警察というのはアジア的社会をなかなか理解できないというのもわからないでもない。 当然、中国系の警察官も多いのだろうがそこでは容姿はアジア人でも現地の教育、訓練を経た現地のオランダ人であり、現地国に完全に同化しているということだ。 本作でいえば大学図書館で働く娘はアメリカ人になろうとしている中国系アメリカ人である。 それに自分の後にしてきた国についての背景にしても肯定的なものが少ないように写り、それが同化の勢いに悲壮さをも見せるようでもある。 人種の坩堝アメリカではもとからのアメリカ人は日本でのアイヌと同様、アメリカ原住民、インデイアンしかないのだから他は全てこの400年ほどの移民であり今もアメリカに絶えず流入する移民とそれに関わる文化摩擦に関してはこういった作品がヒットするという地盤は充分ある。  

こんなことを思い浮かべたのは本作のゆるいテンポと本作があまりにも日常の普通の話でドラマがないとも見える展開だからで、だからいかにも大上段に国や国民性を出してみるような気にさせられたのだ。 上で文化摩擦と言ったのは大仰かもしれない。 それに加えて世代摩擦ともいえるだろうけれどそれを言うとあまりにも普通すぎて話しにならない、というか、それは何時の時代にもどこにでもあるドラマの展開だ。 けれど一方では、あまり普通過ぎると書いたけれど、それは周りからの音を少なくして台詞も少なく、娘と父の間に息の詰まるような空間を何回も提示しているところでは映画という媒体の特徴を最大限生かした場面であり、そこに普通さが通奏低音として流れているというところでドラマとして光るのだ。

イラン人の老婦人と中国人父親の交流がいい。 どちらの言葉が分かるのでもない我々観客が時には字幕つき、他には字幕なしでその対話を見るというのは実際のまどろっこしいコミュニケーションを知ることにはならないからそれはあまりにも便宜的なような気もしないでもなく、それが果たしてオリジナルバージョンの趣旨に沿っているのかを疑うけれどこれでストーリーの交通整理をしていることは理解できるだろう。 長年ヨーロッパに住んでいてほとんど言葉の通じない人々と話すことがあるときに感じる不自由さをこの二人の老人は互いに親しいと認め合っているがゆえに話し相手が理解できない互いの自国語で話して分かったことにする、分からなくてもそれで相手を理解していると思い込める歳なのかそれは二人の人生経験のなせる業なのか、そのように意思の疎通を行う。 そこで語られることは相手に伝わらないのにも関わらず語らずにはいられない溢れ出る異言語の呟きであったり訴えであったりする。 そのようにこの二人を設定し話させるシーンは本作の救いでありこれを見るものには忘れられないものとなるだろう。


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