暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

大使館、ライデン周遊、パーティー二つ

2018年05月28日 08時04分06秒 | 日常

 

定年後の引退生活でも結構忙しい時があって先週がそんな例になるものだった。

8日に大使館に出かけるつもりがハーグに着いた途端必要な書類を家に置いて来たことが分かりそれでは何のために来たのか全く用にならないのでその日はただハーグの町をブラブラしただけで戻ってきた。 当然再度行く必要があり、その用事というのは年金受給のための現況届を今月中に年金機構に着くように送らねばならず、そのための確認証が要り、そのためのハーグ行きだったのだ。 それを月末までまだ時間が充分あると安易に考えていたらその間に友人の葬儀があったりで結局出かけられる日が22日になってしまいバタバタしてしまったのだった。 その届けがないと自分はもう死んでしまったと見做され、年金がとまってしまう。 去年は大手術の前にそれを出し、ひょっとしてそれが最後になるかもしれないとも一瞬考えもしたのだったがどうやら何とか生き延びて次の届け出を出すのだが、それがこの始末だ。 半分死んでいるようなものだ。

大使館の領事部で状況届の証明ができるまでそこに置かれているテレビで日大アメフト部問題、加計学園問題などについてのニュース解説が流れているのを眺めていてそのバカバカしさに今更ながらあきれていると同じようにそれを眺めている若者がいた。 その前に中国のパスポートをもった若い女性が何かの証明を貰いに来ていて威勢のいい英語でしゃべっているのを聞いていたのでその若者もそんなものかと今テレビで話されていることが分かるか英語で訊いてみた。 分かると言うのでどこで日本語を学んだのか訊くと両親とも日本人だと言う。 上手な英語なのでどこで育ったのかと問うとと日本だと応えた。 そのうち係りの事務員が彼に日本語で対応して仮のパスポートが出来たという。 そこから日本語で話したのだが学会でオランダに来て荷物を盗られその中にパスポートも入っていたからその再発行を頼みにここに来ていたのだった。 その後彼と一緒に市電で国会議事堂まえまで行き、そこで一緒に生鰊を喰いカフェーでビールを飲みながら話を聴いた。 若いのにしっかりした青年だった。 言葉もできて今回のような災難にも対応でき、将来が頼もしいと感じた。 この20年ほどの若者の動向を見るにつけこんな若者がどんどん海外にでてくればいいと思った。 

高校生のオランダ娘の海外研修の場として九州のお菓子屋に依頼した。 友人に大阪南部にチェーン店をもつお菓子屋がいてそのものから九州で同じような規模でチェーン店を展開している親しいお菓子屋の息子がライデン大学に留学しているので何かあったら出来ることをするようにとの連絡がありその若者に何回か会っていた。 若いのにしっかりしていてこちらから特に何にも言うことはないのだが自分のオランダの遠縁にあたる娘が日本で研修先をさがしていると頼まれたのでこの青年に声をかけたら親に頼んでくれて話がトントンと進んだ。 彼の両親がライデンに来るというので遠縁の娘の研修を受け入れてくれた礼も兼ねてライデンの町を案内した。 自分の友人兄弟夫婦も何年か前に来た時に案内して彼らはライデンの町を気に入った様子だったので同じようなところを案内したのだが少しは喜んでもらえただろうと思う。 オランダの真夏日がぶり返したようで町には人は少なかった。 皆公園の芝生で日向ごっこか海岸に出かけているのだった。 濠では大人も子供も水に入って遊んでいた。

真夏日の夕方から友人夫婦の誕生日、結婚40周年を兼ねてのパーティーがあって家人の生まれ育った村に行った。 家人が育った運河沿いの家が見えるところが会場で100人ぐらいの主に村人たちが集まって夜中まで飲み食い踊るという楽しいものだった。 写真を撮っている者がいなかったのでカメラマンをしようかと申し出て集まった人の写真を撮った。 友人夫婦や子供たちは別として見知った顔は10人もいなかった。 小さなグループになった人たちの写真を撮っていると自然と友人とはどんな関係かと訊かれそれからは彼らと友人との関係も聞かされ全部廻る頃にはこの村の情報は粗方頭の中に入ってきていた。 友人と言っても昔家人を通じて知り合った人々で家人にとっては学校の同窓会か従姉妹会のようなものだった。 子供連れ、孫連れで集まった人々をみると年寄りだらけだった。 これが自分の同年配の集まりなのだと今更ながら自分の歳を思わないではいられなかった。 DJを村の若い者に頼んでいて70年代80年代のポップスやロックを流しそれで皆で踊った。 その中の一人が孫にこの歳でディスコかと呆れ,おばあちゃんにも若い時があったのだと言い聞かせたのだ、と言っていた。

日曜には姪夫婦主催のティー・パーティーがありそこに出かけた。 姪夫婦には6つになる娘がいるのだが生まれついての脳障害をもち自分で歩くことも出来ず、眼も見えず、耳も聞こえず言語障害、内臓障害と幾つもの困難をもち、意思の疎通もほとんどなく、生まれた時には医者から成人はしないだろうと言われている。 そんな車椅子でしか人前に出られないような状態の子どもを支えるのには継続的に大学病院のサポートがなければたちいかず同じような子供をもつ親たちと連帯して基金を募ることをこの何年かやっている。 そのためのチャリティー・ティーパーティーだったのだった。 肉屋にパン屋、地元のスーパーの現物援助のスポンサーを得て100人ほどの参加者で20万円ほど集まって有志のつくった食べ物、飲み物で時を過ごした。 集まった資金を基にして7月にはユトレヒトで他の団体との共済イベントを企画して10倍、50倍ほどの寄付金を期待しているという事だった。 日頃政府の財政カット、医療費カットの報が聞かれる中、患者、その家族のこういった援助が財政カットを押さえる小さな圧力にもなるのだそうだ。 どこの病院でもあちこちにこのような寄付を記したボードが見られるが、病気・障害をもつもの家族には政府・自治体だけには頼られないということのデモンストレーションにもなる。 自分に関してはオランダの癌基金の寄付には毎年ささやかながら賛同していたけれど昨年からは自分のこととして廻って来る人にはそこのとを話しかけ元気づけるようにもしている。 寄付に頼らなければやっていけない事業と言うのは健康ではないのだが現状はこういうことが多く、満足のいく社会と言うのはどこにもなく、誰かが何かの形で働きかけなければ物事はいつまでたっても変わらない。

この何日か暑い夏が訪れて軽装で過ごしている。 汗ばむので毎日シャワーを浴びる。 日本にいるような気分になるが日本からの訪問者は湿度が低いので過ごしやすいと言った。