暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

BBC・TV,Newsnight、Facebook,銀行の横暴?パンク振り付け師

2011年06月09日 02時39分49秒 | 見る
2011年 6月 8日

夜中近くテレビのBBC2局、ニュースショー番組 Newsnight を観た。

1)Facebook から無断でコピーされた女性写真が現在政情不安なシリアで抑圧が続く同性愛者活動家のものとして使われ、それがガーディアンのサイトでばらまかれたことに対するメディアの無責任、ネット無法状態に警鐘を鳴らす報道に接して少々の震えを覚えた。 活動家のアイデンティティーを隠すために他人の写真を盗用してブログに貼り付けたことが被害者の女性のプライバシーと安全を脅かすものとして、たとえ活動家の安全を保つためだとしてもそれを無責任に盗用、発表した団体、新聞社及び最近その信用性にいくつかの疑問が呈されているフェイス・ブックの管理体制に批判が求められ、デジタル時代の安易性に潜む危険性を露にするものだった。 多分日本ではこのような、まるで関係のない一般人が或る政府、若しくはその同調者からの拉致、制裁の危険にさらされる、というようなことには思いもいかないのだろうがありえることへの想像力を持つものがメディアにどれくらいいるのか思案する。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/9509289.stm

2)銀行がしばらくそのなりを潜めていたと思ったらまた横暴が始まった?  不況慢性化の下、数々の批判がある中、しばらくなりを潜めていた銀行家たちの自己保身のための銀行業務が中小商工業者に大きな不利益と投資の遅滞を招くとイギリス労働党の若手議員が保守、民主党の政策を鋭く批判しているのを観て、この構図は今ヨーロッパ各地で行われているものと平行していて資本主義業務の最たる銀行のこのような活動を制御できない政府とは何なのかとのコメントが行き交っていた。

3)パンク振り付け師がテートギャラリーで公演    Michael Clark という80年代からパンクカルチャーを背負って、いわばダンス界のビリー・エリオットといわれる振り付け師がテートギャラリーで公演するにあたり彼の軌跡が紹介されていた。 ちょうどその前日、オランダの文化局でパンク・ファッションの流れを今もデザインに創り続ける Vivienne Westwood のパリでのファッションショーをめぐるドキュメンタリーを見ていたこともあって今パンクのリバイバルなのかとも思ったのだが、これらの創作家はこの30年以上そこで努力して今の結果だから当時のパンクがそのまま今でもアナーキーにそこに発現すると能天気に考えるどこかの国のファンション・コンシャスには何のことだろうと響くに違いなく、諸費ではなく何事にも成熟の種がいくつもあってそれらが育っているのを再確認する契機になるようだ。 ビリー・エリオットは最後に「白鳥の湖」で踊るバレリーナになったけれど、ドラッグでも何でも芸術のためには使うと豪語するダンス界のクラークはその表現方法としてダンスを使うことに映画ビリー・エリオットとの表現媒体の違いを想う。

Choreographer Michael Clark still believes in punk ethos
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/9508367.stm

1)の補遺;  その後の報道で国連安全保障委員会ではシリアに対する制裁、処置を検討しているものの武器輸出、経済上の理由からロシアと中国が賛成をしない、などの予測が立てられていた。 中国のギリシャ、スペイン、ポルトガルなど経済破綻寸前のヨーロッパ諸国発行の国債買収を大量に続ける事実ともあわせて社会資本主義の強さをもって睥睨する態度がここでも見られることを想わずにはいられない。

アメリカのスペースシャトル計画がピリオッドをうち、その同時期にロシアのロケットが共同宇宙基地に日・米・露のアストロノーツを運んだというのも今日報道されて不況下の宇宙政策にも共同参画が浸透していることを今更ながら知らされるとともに、ガガーリンが飛んでいる光り動く夜空を眺めた昔からの変化にため息もでると同時に夢も現実の下、縮小することをも思い知らされたのだった。


ニュースの後、スタンドアップコメディアンの Stewart Lee による民主主義というタイトルのショーを半時間ほどみた。 静かに語るリーの淡々と語る話には幾つもの引っ掛かりが付けられており、さまざまな角度から状況のジョーク、皮肉が感じられる構図になっているものでこの種のコメディアンを持つ国は民度が高いものとみていいのではないか。 本人のオックスフォード大学在学中に接した現在イギリス首相や副首相の若い頃のことを虚実ない混ぜて強烈に皮肉る語りは卑語、声高な言葉で語られるものではなく何気ない言葉の積み上げで皮肉、笑いに持っていく話術でありそれは後まで残るものである。 知識、地位の高みから大上段に政治批判をする半可通のコメディアンが多い中、成熟した普通の語りのなかで今の時代に対する批判を笑いの矢で射込む芸は日本にはないものだ。 日本には単に高学歴の芸人がいるとしてもそれらが社会に対する自分の思考を批判の笑いに変えて喝采を獲るということも出来なく、それを許す土壌もなく、その精神ははるか昔、明治までもどらなければ見つけられないというのも日本での民主主義とか民度というものの未熟、停滞を意味するのかと少々の憂鬱に襲われそうになるのだが、それも日本に住まない者の無知と高慢ちきな戯言とうけとられても仕方がないのかもしれない。 こういう笑いを日本語で語る芸人がいるのなら聴いてみたい。