暇つぶし日記

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ヴェラ・ドレイク ; 観た映画、March 08

2008年03月06日 14時19分32秒 | 見る
ヴェラ・ドレイク (2004)
原題; VERA DRAKE
125分
イギリス/フランス/ニュージーランド

監督: マイク・リー

脚本: マイク・リー
撮影: ディック・ポープ


出演: イメルダ・スタウントン ヴェラ・ドレイク
フィル・デイヴィス スタン
ピーター・ワイト ウェブスター警部
エイドリアン・スカーボロー フランク
ヘザー・クラニー ジョイス
ダニエル・メイズ シド
アレックス・ケリー エセル
サリー・ホーキンス スーザン
エディ・マーサン レジー
ルース・シーン リリー
ヘレン・コーカー ベスト婦警
マーティン・サヴェッジ ビッカーズ刑事
アラン・コーデュナー 精神科医
レスリー・シャープ ジェシー・バーンズ
ジム・ブロードベント 裁判長
フェネラ・ウールガー
リチャード・グレアム
シネイド・マシューズ
サンドラ・ヴォー

1950 年のイギリスを舞台に、望まない妊娠をしてしまった女性のために、秘かに中絶を手助けしてきた一人の平凡な主婦が辿る過酷な運命と、試練の中で浮かび上がる家族の深い絆を丁寧な筆致で描いた感動の人生ドラマ。主演は「恋におちたシェイクスピア」のイメルダ・スタウントン。監督は「秘密と嘘」「人生は、時々晴れ」のマイク・リー。事前に詳細な台本を用意せず、即興的なリハーサルの積み重ねから演技を固めていくマイク・リー監督独特の演出方法がその効果を遺憾なく発揮し、主演のスタウントンはじめ俳優たちは迫真の演技を披露、各方面から絶賛された。ヴェネチア国際映画祭では金獅子賞と主演女優賞の2冠に輝いた。

1950年、冬のロンドン。自動車修理工場で働く夫とかけがえのない2人の子どもたちと貧しいながらも充実した毎日を送る主婦ヴェラ・ドレイク。家政婦として働くかたわら、近所で困っている人がいると、自ら進んで身の回りの世話をする毎日。ほがらかで心優しい彼女の存在はいつも周囲を明るく和ませていた。しかし、そんな彼女には家族にも打ち明けたことのないある秘密があった。彼女は望まない妊娠で困っている女性たちに、堕胎の手助けをしていたのだった。それが、当時の法律では決して許されない行為と知りながら…。

以上が映画データベースの記述だ。

ここで示されるのは社会意識を基礎に撮るマイク・リーの現代にも有効なテーマであり、特に先年アイルランドからイギリスに向けての堕胎ツアーが問題になったり、望まない妊娠の解決のためにオランダの医師団がそういう女性のため救済船を仕立ててその地区の港に近づくことが政治問題に発展しそうになったニュースも耳目に新しい。 社会階層と宗教と性である。 その狭間で日常起こる妊娠をめぐり、ここでは特に堕胎にテーマが絞られる。 キリスト教では、特にカソリックでは峻厳に、神のみが命を規定する。 だから堕胎は勿論、避妊さえ許されない。 あれだけ世間で問題になっているエイズ防止策としてもバチカンは今でも公式には避妊を許さない。 そして50年以上前の古い戦後のロンドンである。 社会通念、宗教観が法に体現され19世紀の法が支配する。 しかし、とはいっても裕福な層には逃げ道はある。 そが中産階級の娘が望まない妊娠をした場合の策としてここに示されるし、有閑階級のネットワークの中で支払われる額もさることながら階級社会の枠は厳しく、一方、かれらの社会モラルに縛られた労働者階級の女性達も、望まぬ妊娠の解決に関して同じく表ざたにはできないその結果はこの社会的弱者に特に厳しいものとなる。 

そこでは寝たきりの老母を世話し独楽鼠のように家政婦、娘、妻、母としてテキパキと物事を取り仕切り、その人の良すぎるといっても過言でもない善良な性格から幼馴染に搾取されているとも気付かず、自分の違法性を意識しつつ、女達の追い詰められ切羽詰っているのを観るに忍びないからと乏しい医学知識で素人堕胎の結果が2年と6ヶ月の刑である。 大法廷で自分の罪を認める主人公の本心は、無罪であるのにもかかわらず。法では有罪であり、多分障害は自己の医学的無知であろう。 けれど、この善良な小市民は罰を甘受する。 そして彼女の善良さをいいことに良家の子女が支払う何十分の一とはいえ掠め取る女はもう登場しない。

救いは家族の愛と信頼の絆であるのだがとりわけ感動的なのは母と娘、その娘と許婚に体現される関係でこれはイギリス映画史上に残るものである。 愚鈍とも見まがう娘がいい。 とても今では博物館的とも思えるようなアプローチはハリウッド映画に慣らされ世間にそれが普通となったイメージのなかでクラシックなものである。 クラシックとここでいう意味は普遍に今でも好ましく存在するだろう、ということである。  

古くから堕胎天国の日本ではここに示された重みが伝わりにくいかもしれない。 水子地蔵があちこちに見られ、戦後、優生保護法の下、経済的理由が合法的な堕胎の理由になる日本ではここでの問題はあっけないほどクリヤーされているのだ。 60年代、農家の元気なオバサンが一日床についていることの不思議さに、また、70年代に学生の知人が彼の女友達のために金が要る、と我々の周りを走っていたこともあったのだがそこにはモラルの呵責は見られないし、それぞれには子供を産めない理由があるのだ。 そのころ看護婦だった母親が何度か堕胎手術に立会い、世間で簡単にいわれるそれが如何に危ないものになりうるかを女性として話していたこととあわせてこの映画の一種哀れさと重なるのだ。

日本の出生率が問題になり担当大臣まであるという。 女性が子供を産みたくない、産みたくても産めない、産まない、という事態のもとにある社会状況とこの映画の時代、多分それぞれ生むことが出来れば産みたいのだがそれでも堕胎する、という状況の違いは何なのだろうか。