暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

夜汽車が混んでいて驚いた

2007年09月15日 11時32分24秒 | 日常
ほぼ二ヶ月ぶりにアムステルダムに出かけ日本から来たバンドの演奏を聞いて終了後出演者たちと話をしてからゆっくりと会場から中央駅入り口に戻れば最終列車に2分しかない。 とても2分じゃ全速力で走っても11番線までたどり着けない事を悟って仕方なく駅の外に出た。

午後に少し降った雨も止んで12時40分の空は月は見えないものの所々に星も覗く晴れ間の多い秋空だった。 駅周辺は金曜の夜ということもあって若者が多い。 腹が減ったので駅前にあるホットドッグの屋台でザワークラウト入りを頼みそのあと勝手に芥子やケッチャップを搾り出し、屋台ではアルコール販売の許可が出ていないのか仕方なくミネラルウオーターを買い、まだ1時間ほどある1時42分発の夜汽車がでるプラットホームにのそのそホットドッグを頬張りながら歩いていった。

ホットドッグは10分もかからず平らげて広々とした構内で暇をつぶすべく駅で拾ってきたフリーペーパーを読んだりネットで探して先週手元に届いた80年代に日本で好評を博したオランダ人女性ヴォーカリストの伝記を読み始めた。 さすが夏を越しただけあって夜中の構内はシャツ一枚ですごす私には少々涼しすぎるようだった。 1時間に一本の最初の夜汽車を待つ人が結構多く発車10分前ほどにホームに入ってきた列車から降りる人は多かったもののまだかなりの数が中に残っており結局出発するときには長い車両はほぼ満員となり普通の寂しい夜汽車の雰囲気はまるでない。

本の続きを読んで30分ほどの時間をつぶしたのだが隣のポックスにいる中年男はまだかなりアルコールが残っているのか前に座った女性に話しかけて彼らが住む街の様子を話している。 男はかなりしつこく女性の住所を詮索しており女性の方は曖昧にごまかそうとするのだが男はなかなかあきらめない。 そういう話が耳に入ってくるのに嫌気がさしたのかそのうち男の隣に座っていた若い男が立ってどこかに去っていった。 そのうち男は斜め前に座った大きなスーツケースを横に置いた女性のほうに注意を向け話しかけるがこの女性はオランダ語がわからない。 ポーランド人なのだとその女性は言い皆黙った。

2時を半分ほどまわって自分の駅についてみると長い車両からぞろぞろと人が降りてきた。 今日は一体なにがあったのだろうか。 夜中にこんな大量の乗降客があるのは珍しい。




ヴィタール(Vital) : 見た映画、 Sep 07

2007年09月15日 11時31分06秒 | 見る
ヴィタール / VITAL

2004年 85分

プロデューサー;塚本晋也 川原伸一 日下部圭子 日下部孝一 朱京順 川原伸一
監督  :塚本晋也
脚本  :塚本晋也
撮影  :塚本晋也 志田貴之
美術監督 :塚本晋也

配役
   
高木博史  浅野忠信
大山涼子  柄本奈美
吉本郁美  KIKI
高木隆二  串田和美
高木慎子  りりィ
大山のり子  木野花
柏淵教授  岸部一徳


「鉄男」「六月の蛇」の塚本晋也監督が、“人体解剖”をモチーフに、人間の肉体と精神をめぐる不思議に迫る意欲作。交通事故で全ての記憶を失った医学生が、解剖実習を通じて記憶を超越した世界を生き始め、次第に再生していく姿を描く。主演は「アカルイミライ」「座頭市」の浅野忠信。また音楽活動休止中の Coccoが本作のためにエンディングテーマを提供。
 交通事故に見舞われるも一命を取り留めた医学生の高木博史。だが、彼は自分が誰なのかも分からず、父や母の顔さえ思い出せないほど一切の記憶を失ってしまっていた。ただ、なぜか医学書にだけは興味を示す博史。そして彼は、大学の医学部に入学する。やがて2年生となり、必須科目である解剖実習が始まった。博史の班には若い女性の遺体が割り当てられ、彼は解剖の世界に没頭していく。そのうち博史はふいに現実と異なる世界へと入り込んでいた。それは、彼が涼子という女性と2人きりでたたずむ甘く切ない光景だった…。


映画データーベースには上記解説が載っていた。 「六月の蛇」で美しい画像とエロチシズムが描かれていたのを見たのだが、そのなかで今でも印象的に残るのが雨のシーン、青、緑の混ざる絵だ。 本作も雨に加えて同系統の色調の美しい映像がが見られそれでああ、これは監督の好みのトーンなのだろうなと察せられる。 映像としては映画のストーリーがなくとも雨、ガラスを通して何かが見える、何かを見る、というようなシーンのストックをフェティッシュに持っていそうな気もする。 この嗜好はエロスの世界でもそのようで、ここでは快楽追及の手段として首を絞める、というようなところにも現れているのだが、ここで我々に思い出されるのは大島渚の「愛のコリーダ」であり、快楽を求める主人公二人の究極の愛の姿でこの形がとられていたことだ。

大島作品では女に完全に身を任せこのかたちで快楽を完遂して死に至るわけだが本作ではそこまでは至らない。 そこに至れば別のストーリーが発生するのだが、本作では二人の女とこの形をとり、塚本の性愛表現における嗜好の一形態をみせる。 それは本作では主に浅野の側からの視線であり浅野は大島作の主人公のように快楽と心中する気配は無く、快楽追求の気配は充分あるものの結局、性愛の死から生還して死に至る気はない。 この男は死から生還しているのだ。 

死んだ女の親を訪れて親に娘を殺したと難詰される場面は日常幾多と起こっていることと想像され、誰にでも起こりそうなことでもあり、他人事とは思えず、この場面は特に心に響く。 私も娘の父親でありこのようなことになれば同じように反応する蓋然性は甚だ大きい。 だからこの父親はステレオタイプである。 けれど浅野の反応はステレオタイプではない。 記憶をなくしていなければ慙愧の念、娘の心情に添う反応、この父親に対する反応も違ったものであったろうが過去を取り戻す、いや、取り戻そう、というような自然で健康的な知的好奇心とでもいえるようなものが浅野の反応であるから父親も怒りのベクトルもそれに対応して自然と変化する。 

ここでは好奇心はそれが満たされるまでは死の気配から遠く、文字通り健康的な態度を保つのだ。 浅野の態度は健康的でそれがVITALということだ。

渋さ知らず、 BIMHUIS、 14-9-07

2007年09月15日 11時29分10秒 | ジャズ
渋さ知らず アムステルダム公演
Fri. 14 Sep. 2007

指揮; 不破大輔
tp; 北陽一郎、 タツミミツヒデ
tb; マツモトカズシ
tuba; Gideon Juckes
as; カワグチヨシユキ、 立花直樹 
ts; サトウハン、 
g; オオツカヒロユキ、 Taeil Hwang
b ; オノアキ
perc、vocal ; セキネマリ
ds ; イソベウン、 
fl, vocal ; オノアヤ
vocal ; ワタベシンイチ
dance; アヤカ、 カエ
舞踏 ; マツシバトヨ、 ムカイチエ、 シモムラヨシヒロ、フクザキマユミ
live painting; アオヤマケンイチ、 アベタヤスヒコ
live visuals ; ヨコザワコウタロウ
keyboard ; ? (女性)


夕餉を和食堂の餃子定食ですませガード下を渡っているときに日本人男女と思しき二人に声をかければこのバンドのトランペットとパーカッションだった。 簡単に今回のツアーの様子を聞きながら一緒に会場に向かったのだが着いた会場は既にかなりの入りで一人で出かけたのが功を制したのか一つだけ空いていたのが音響ビジュアルコンソール調整の真下で4列座席の中央最上段だった。 たまたま座った隣が放送関係で働くオランダ人エディターで、彼によるとこのバンドをもうここで2,3年のうちに2回聴いているという話で、それに派生して彼が入れ込んでいる喜納 昌吉、沖縄滞在の話も聞かされて私のまだ見も知らぬ南国の話も私の理解できない方言をも交えて熱く語られたのだった。 日本でも自分のCDを出していて、大男で30代半ばかと見えPascal Plantingaと名乗った。 

会場には日本人の姿が普通以上に見られそのうち客席300をはるかに超えて400に届くかというような盛況である。 このバンドは何年も前から名前だけは聴いていてその「渋旗」というCDは聴いていたが録音からはこれはライブで聴くバンドだなと1、2度聴いただけでそのままになっていた。

20年以上前にはこの名前は知らなかったものの生活向上委員会、という名は聞いておりLPを聴いた覚えが微かにある。 数年前、梅津和時がオランダ人のサックスグループの一員として私が住む地元の公民館でオランダ人サックスグループの一員としてその公演を聞いた際に80年、90年代のジャズの状況を多少は彼からも伝え聞いたこともあり渋さ知らずも日本の流れの一つだろうと想像していた。

会場に設えられた左右の舞台と正面スクリーンを見てパーフォーマンスのグループだと確信した。 オーケストラであるのでそのアンサンブルとソロの按配に興味がいく。 まさにオーディオ・ヴィジュアルパーフォーマンスのセッティングにどれだけ目が幻惑されないで音を捉え続けられるか自信がなかったのだが、それがその通りになった。 学生絵時代にテント芝居を幾つか観た経験と80年代から世界的に知られた舞踏、煌びやかなミニスカートのゴーゴーダンサーとの組み合わせがその時代をよみがえらせるようで期待外の効果に驚きそちらに幻惑されたのかもしれない。 

今回はオランダ人のバリトンサックス、在蘭日本人トロンボーンをも加えてのフランス、ナント、オーストラリア、ウイーンを経過しての公演であり、何年か前の西欧、東欧、ロシア旅行などのヴィデオ映像をバックのロードショーであることは分かるのだが、そんな映像をバックにどこやらで買ってきたウオッカを指揮者が封を切りアルコール好きな楽団員と廻し飲みにするところで会場からはおいおい、というような笑いが起こるものの彼らはそんなことは意に介する風もなく、リハーサルでは酒など飲んでいられないだろうに逆に舞台だからのリラックスぶりだ。 

しかし、その背後での映像が彼らのロード・ムービーを見せるなか、鍛えられたソロイストがトランペット、サックスなど渾身のインプロヴィゼーションを紡ぎ出し、昔風に言えばオドロオドロシク我々にせまる舞踏男女が舞台上でうごめく様子が目に入るのだからこの場に立ち会うものは視覚、聴覚のお祭り騒ぎの渦に放り込まれ、上質の困惑に放り込まれそうになるのに反してふと思わず観客の反応を見ると欧州人、白人の典型的な目と耳だけをそばだて目の前で起こっていることを咀嚼しようとする静寂がかなりみえるもののリズム感のいい女性達や思いもかけない公務員風のオジサン風が上体両腕を振り回し座席のまま踊るのも見られる。しかし、一曲一曲が終わると会場からはそれぞれ力の入った拍手が浮浪者若しくはフウテンの風采をもつ指揮者へと惜しみなくそそがれる。

もう40年近く前に何度か経験したテント芝居、パーフォーマンスをときには生活形態をともにして旅をする集団が繰り広げていたような雰囲気もここに現れ、普通のジャズコンサートにないような経験をしたのだった。 といっても東欧諸国の伝統的な旅芸人の楽団にはここで時たま見せる創造的即興音楽のひらめきはすくないものの音楽のパッケージでは類似のものも最近は時々ジャズ・フェスティバルでみかけるのだが当集団はそれとは似て非なるものである。 

休憩中に会場のカフェーで初めて会った駐在員と話をしていてその御仁がオランダの見知ったジャズメンが会場に見られないようだがと行ったその腰もと10cm先にはオランダより日本で人気があるといわれているカワイコちゃんファンクソウルアルトのキャンディー・ダルファーの父親、自身もテナーを吹くハンスが椅子に腰掛けてアルコールで赤くなった頭があったのだが、さすがマッチョ親父のダルファーでもこの公演には日頃の大きな口がはさめないのだろう。