ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

ミュシャ展

2007-01-23 | art/exhibit/museum




1860年7月24日チェコ共和国モラヴィアのイヴァンチッツェに生まれた画家



約10年前に千葉県立美術館に見に行った時の印象が素晴らしかったので、島屋では、
きっと、それより小規模だろうとは思っていたが、招待券を持っていたので仕事帰りに行ってきた。

午後6時から8時の時間帯は、家族の食事時間を考えながらでないと、いくら仕事帰り
と言っても、なかなか自由に使うわけにはいかないのだけど、この日は、
まず、娘が外食だとわかっていたし、パパからは夕刻に、友達と会うから食事いらないメール
が入った。残るは息子だが、なんの連絡もない。見終わって真っ直ぐ帰宅すれば
おそらく大丈夫だろうな、と、♪~は~るばる 来たぜ にーほんばし~♪
でもなく、あっという間の日本橋だった。
屋上駐車場に止めて8階に降りるとすぐに、こんな催しが・・・!

雑誌 ミセス が選ぶ かくれた味 うまい味
web上より拝借

もうちょいで、ここに来た目的が入れ替わったほど、魅力的な催し!
この週、島屋の新聞チラシが、たしか入っていなかったので知らなかったぁ。
一回りして、2ヶ所ほどで試食なんかしちゃって、今回はここ見て帰ろうかぁ・・とまで考えた。
元祖田丸屋の「水沢うどん」も出店していたし、
何回か足を運んだことのある、帯広の六花亭カフェもあったし~。

 別に私は島屋の宣伝をしているつもりはないけど、よりによって、ミュシャだけを
見に来た日に、こんなのを同時にやっているだなんて、時間が間に合わないっす。

気を取りなおして、ミュシャ展へ

                 第一章 ミュシャと女性 & 自然
                 第二章 ベルエポック
                 第三章 
装飾デザイン
                 第四章 祖国モラヴィア
                              の四つの章に分かれての展示。

10年前の展覧会の印象が良すぎたので、ここでは入った途端、リトグラフと書かれた
絵がまるでグラビア印刷のように見えてガッカリした。が、進んで行くにつれ、やはり
ミュシャの世界に引き込まれて行ってしまった。

 
ミュシャ自画像 チェコ語では「ミュシャ」でなく、「ムハ」と言う。



彼はプラハの美術アカデミーを、技量不足!ということで入学出来なかったという。
地元で、地方裁判所の書記として数年働いたあと、ウィーンに行き、
舞台装置を作る工房で働くが、20才の頃に母親や異母姉を亡くす。
劇場が焼失し、年少のミュシャは工房を解雇された。
ウィーンを去り、ミクロフ地方に移って生計をたてるため肖像画を描いていたところ、
そこの大地主クーエン伯爵と出会い、伯爵の弟が最初のパトロンとなる。
25才のころ、伯爵の援助でミュンヘン美術学校に入学するも、最初の2年は
飛ばしてもいい程の腕前だったという。
1888年、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入る。
この頃、「ファウスト」を題材とする絵が完成。
アカデミージュリアンからアカデミーコラロッシに移ったころ、
伯爵からの援助が打ち切られる。

生活のために、ミュシャが装飾デザイナーとして出版社のための仕事を
始めたのは、この頃からであり、挿画やポスターを制作しては大好評となり、
アール・ヌーボーとミュシャとは同意語とされていたという。

ということで、彼の描く絵はポスターに、カタログに、カレンダーに、本の表紙に、
はたまた紙幣にまで使用され、全世界に広まった。
ヴィクトリアン・サルドゥの戯曲「ジスモンダ」に主演するサラ・ベルナールのために
最初のポスターを制作し、以後6年間の契約を結ぶまでとなる。


チェコスロヴァキアの10コルナ紙幣


  

      
        「スラブ叙事詩」 展            四つの星ー「明けの明星」          「ジスモンダ」


装飾資料集(リトグラフ)書籍

装飾資料集を見ながら、気に入ったデザインをお客さんが選び、
タイトルと文面をつければ立派なコマーシャルアートとなります。
パリ万博公式晩餐会のメニューにおける彼のアートも実に洒落ている!


パリ万博公式晩餐会のメニュー下絵 (鉛筆・墨・白のハイライト/紙)

しかし、彼にとって、これらの仕事はあくまでも生活の為のもの。
逆境あってこそ脚光をあびるようになったミュシャの一側面だったのだ。

ミュシャのパリにおける活動は、1903年ごろから版画制作の割合が減少し、
同時に、注文による制作をなくし自由な芸術活動の割合が増えていった。
私が気に入ったのは、木炭とパステルで描かれた
「生地イヴァンチッツェの思い出」という小さな絵。
会場内に置いてあった図録での解説にはこんなことが書かれていた。

《「生地イヴァンチッツェの思い出」は、他人の利益の為にかりたてられて制作する毎日に
対するアルフォンス・ミュシャの抵抗をよく表しているだけでなく、青春時代や夢、
故郷など、生まれる端から指の間をすり抜けていってしまうあらゆるものを表現したいという、
彼の欲望の表れでもあった。》と、息子のイジー・ミュシャは書いている。
両手を組み、夢想にふける少女の背景に、イヴァンチッツェの教会の塔から飛び立った
ツバメの群れが、少女のかたわらへと降りてきている。

図録は、以前のがあるから購入しなかったが、この絵の絵ハガキがなかったので
後日図書館で探してみようと思う。あとで少し追記予定!

アール・ヌーヴォー風のカット

ー 追記 ー

1月23日午後11時。ただ今、2回も追記を消滅させて、あせっています。
仕事から帰ってきて、自分のブログの一部の字体がー2ポイントだった事を知り、がっくり。
web上にUPさせる資格がないですかぁ。
帰宅前に図書館に寄りましたが、私のお気に入りの絵は見つかりませんでした。
ダリの時もそうでしたが、いつか、見つけた暁には、スキャナでコピーして
そぉ~っとUPしときます。
以下、ミュシャの晩年の記述を本から移し取りました。
彼の生活の場が、アール・ヌーボーそのものだった、と、本で知り、更に憧れてしまいました。

ミュシャが晩年に向かうに従い、民族意識が高まり、1911年より:

0点の記念碑的な壁画よりなる《スラヴ叙事詩》で、スラヴ民族の起源、
自らが今日までに達成した志、未来において到達するであろう目標を描こうともくろんだ。
・・・・・・・・
つまり、現実と寓意、物語とその象徴的な意味、今ここに存在する人間と将来の彼らの
神と祖先。歴史画と象徴主義の結合はそれ自体が《スラヴ叙事詩》の最も顕著な
特質だ。しかし、そればかりではない。1890年代の装飾美術に積極的に
関わる事によって豊かになった芸術家が、歴史画に復帰した時に見せる
発展も示しているのである。

ミュシャが望んだのは、スラヴ民族の歴史的に重要なエピソードを描くことにより、
未来の世代に、清廉と勇敢と理想主義と信念を教えることであった。
人間としても、芸術家としても同じ精神を持っていたので、、彼の生涯と作品は、
世界中で反応を引き起こし、国境を越えてひろがってゆく。
(ノースカロライナ美術館 アンナ・ドヴォルジャーク)




1939年、ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際,ミュシャはゲシュタポに最初に
逮捕された人々の中にいた。尋問された後帰宅を許されるが,この苦しい体験は
ミュシャの健康を損なう。7月14日,プラハにて死去,ヴィシェフラッド墓地に埋葬。