悲惨は悲惨だがどこかユーモラスだった 2006-11-20の記
あの頃あたしは中学二年か、毎日なにして過ごしていたのだろう。勿論学校へは行っていた、それだけはまちがいない。しかし勉学には身が入らなかったことは事実だ、もっと勉強に励んでいれば、もっとましな人間になっていたかも。しかし現在の成り立ちを悔いているわけではない、むしろこれでよかったと思っている。過ぎたるは及ばざるが如しという、ほどほどの人生を過ごしてきたと達観している。いや、諦めかな。まだ先があるなんてもう気張らない、気ままに生きよう、お迎えが来るまで。と愚にもつかぬ前置きはこのくらいにして話をすすめる。
先ず家の廻りを見渡せばさっぱりしたものであった。なにもない、さっぱりし過ぎている。一面焼け野原、後日広島の原爆投下直後の、悲惨な写真が公開されたが、まさしくその小型版である。駅までの道は舗装は剥がれ、焼け跡と混在状態となり、あらたにケモノ道ならぬ人間道が幾条もどろんこ道となって通じていた。近道として焦土の中に生活道路が自然発生していったといえる。
目立つものといえば焼け落ちずに残った質屋の蔵とか、赤くさび果てた大小の金庫の残骸だ。そして駅前は最初はりんご箱に戸板を乗せて品物を並べていたのが、いつの間にか薄っぺらな板で囲った、店まがいのものが並ぶようになっていた。
あたしはときどき、ヨチヨチ歩きの妹の手を引いたり、背負って街を歩いた。妹は焼け跡に作られている菜園を、あれこれ指差して言うのだ。あれは麦、トマト、なす、かぼちゃと、おそらく疎開先で引率者の姉に教わったのだろう。
菜園には復興農園なんて札が立てられているものもあった。戦時中は空き地のいたるところが耕され、戦時あるいは勝利農園なんて、勇ましい立て札がたてられていたのに…。
そして焼け跡の一隅で上半身裸の男が、汗まみれになってつるはしを振るっているのをたびたび見た。なにかとみれば、焼けて残骸もない電柱の、地中に残った部分の柱を掘り出しているのである。もちろん燃料にするためである。男は汗だらだら、無言で掘り続けていた。大変な労力である。しかしこの燃料、腐食止めのため十分にコールター?を塗りこんであるので、燃すと真っ黒な油煙がたちこめ、鍋底もなにも真っ黒になってしまうそうである。背に腹はかえられないってとこなのだ。燃料不足も深刻だったのである。
話は戻るが焼け金庫の残骸のこと。ひとつ先の駅の近くに、○○金庫という会社の焼け跡があり、社名が書かれた看板だけが立って。そのひろい土地に焼け跡からの、真っ赤に錆びた焼け金庫が集められていた。おびただしい数である。その後この会社は再生した金庫の販売で財を成したと近所では評判だった。
焼け跡にはまだまだ水道の鉛管がむき出しとなり、漏水状態になったままなのをよく見かけた。それをまた掘り出す人たちが出没していた。掘り出してぐるぐる輪にしてリャカーに積んで消える。厳密に言えば窃盗なのかもしれないが、だれも咎めたなんて話は聞かない、白昼堂々と行はれていた。皆生きるための懸命な姿といえる。
最後にもう一つ異様な、そうでもないか、野外広告の話。電車の窓から見る外の景色、もちろん焼け野原。それでも焼け残ったものはある。崩れ落ちずに残った石塀や、コンクリートの建物の壁である。それに黒々と「○○とはなんぞや」とペンキで大書されているのだ。それが延々と山の手線ならおそらく一回り、京浜線ならどの範囲か、とにかく窓外から見える塀や壁、その広告が目に入るといった寸法なのである。凄い商魂といえる。
話にきけば東京は駒込の、結婚式場且つ料理屋さんの広告だったらしい、駒込から通っていた級友が、みなに「○○とはなんぞや」とからかわれたりしていたから。東京ではかなり浸透した広告であった。
胃腸風邪
もどしたり、下痢したりするのでしょうね。辛い症状ですね。
よかったです。
今の東京からは想像できない世界ですね。
子供たちは今日から学校に行きました。おかげで
用事を足すことができ、ほっとしました。
夫が出張から戻るまで、子どもたちには元気で
いてほしいです。(まだ学校で胃腸風邪が流行っているので)
「なんぞや角萬」の広告は、小田原あたりまでの東海道沿線にも大書してありました。六義園の近くにあった料亭だと思っていましたが、ネットで調べたら大塚駅の近くに結婚式場のビルを建て、屋上に金閣寺を乗せたとあります。ヤミ屋相手に、しこたま儲けたのでしょう。