うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 蔵出しエッセー90年ごろ

2008-01-11 05:52:44 | エッセー

戦争の終わった日<o:p></o:p>

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私たちは正午に重大放送があることを知っていた。昭和20年8月、私は東北の小さな町にいた。前年の6月学童疎開で来てその翌年3月に卒業を迎えたが、東京へ帰らずそのまま町に数名の級友と下宿し、地元の中学に入学した。学校では勉強はそこそこに連日戦時菜園のための開墾に追われていた。私にとって過酷な作業だったが、疎開らという嘲笑をかわすために懸命に鍬を振るった。空腹に耐え「勝利の日まで」ただひたすら頑張る日々であった。戦況は日増しに悪化、本土近海には敵機動部隊が遊弋し、田舎町にも艦載機が襲来し、夜は完全な灯火管制である。農作業に疲れた躯を引きずって帰り、暗い部屋に横たわるだけの中学一年生の生活。<o:p></o:p>

その日、私たちは朝から下宿の裏庭で防空壕造りに汗を流していた。放送までに一段落つけようと、みな黙々と体を動かしていた。正午私たちはラジオの前に座った。私はかろうじて戦争が敗戦というかたちで終わったことを理解したのだが、悔しさというより嬉しさがこみ上げてくるのを押さえようもなかった。これで親元へ帰れる、次代を背負う少国民の気概など泡の如く消えていた。<o:p></o:p>

その夜、電灯を覆った黒い布を私たちは競って外した。飛び散るような明かりが目を射り、光は庭先を照らし夏草が映える。<o:p></o:p>

「こら、疎開ら、なにやってんだ」怒鳴る土地の人に「戦争は終わったんだ、空襲なんてもうないんだ」輝く電灯の下でわたし達ははしゃいだ。<o:p></o:p>

既に私の気持は東京にとんでいた。親兄弟に再会できるという想いは息苦しくなるほどだった。そして嬉しさは日ごとに倍増する、9月17日の日付の入った東京ゆきの切符を手にしたときの、胸の鼓動は今でも忘れられない。<o:p></o:p>

だが、久しぶりに乗った電車の窓から見た東京の街は、真の闇だった。<o:p></o:p>