観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「多重下請」「保険」「相続」「農業」「医者の給与」「解雇規制」「国民年金」「住宅」を考察する予定。

神武天皇雑考

2019-02-12 17:16:03 | 日本地理観光
神武天皇は日向国で生まれたと記されますが、兄の稲飯命(いないのみこと)に新撰姓氏録(平安初期815年の嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑)記載の異伝があって、新羅王の祖ともされる(関連性不明ですが、三国史記新羅本紀において、脱解尼師今(第4代新羅王;昔氏王統の初代。在位57年~80年。その治世である73年、倭人が木出島に進入してきたが、羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死との記載あり。三国史記の成立は遅いのですが(多分中国と同じく王朝が終わってから史書を編纂したのでしょう)、日本書記の最初の八代は欠史八代とされ事績がありませんが、大陸・半島の史書と年代を比較すると(あえて皇紀を脇において考えると)、大陸に近い分(楽浪郡支配が大きかったかもしれません)、半島の方が記録をとるのは早かったようにも見え注意が必要と思います)の出自について倭国東北千里の多婆那国とする記事があり、これを丹波国と関連づける説があるとも)ことが注目されていいかもしれません。ただ、丹波国の活躍は時代が降るはずで、新羅と距離もありますから、伝説の収録か、事実が元になっているなら、北九州か本州西端あたりに多婆那国があったと見るべきでしょう(あるいは伝説と事実がごちゃまぜになっている可能性もあります)。タバナとは恐らく田畠(タバタ)のようにも思えます(魏志倭人伝不弥国(博多あたりの奴国から邪馬台国に向かう途中の水行の出発点で奴国からそう遠くなく北九州沿岸だと推定されます)の長官は多模(たも)でこれも田に関係ありそうです。田守でしょうか。【名字】田守(名字由来net)を参照すると、読みはタモリ、タモです)。西日本において鼻は端で岬を意味しますから(西日本に「鼻」という名前がついた地名がいくつかあるんですが、なんで~ Yahooトラベル)(筆者が生まれ育った校区に白石の鼻という岬があってしばしば下手に入ると流されるぞと注意喚起されていたことを記憶しています)、田鼻(タバナ)の可能性もあるとは思いますが、検索では引っかかりません。ただ、北九州(や本州西端)に候補となり得る岬は幾つもあります。タンバ(タニハ)とタバナの発音は近いようで遠いようにも思えますが、日本を前提に記録を眺めると丹波に見えなくもないのかもしれません。

神武東征のルートは日向国から宇佐、筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国、そして大和。日本史の常識からすれば、日向から宇佐、筑紫が謎ですが(大分→福岡はありますが、とにかく宮崎の勢力が北上、定着したことがありません。西都原古墳群が知られますが3世紀前半からで神武天皇と年代があわず、最大の古墳は5世紀頃になります。薩摩方面から肥後に向かうのが南九州の北上ルートの定番です)、筑紫から河内までは常識的なルートと言えます。河内まで来て紀伊が謎ですが、最初期の巨大前方後円墳である箸墓古墳と付近の纏向遺跡、三輪山は奈良盆地中部で大和川ルートが通常・有力と思いますが、南方にもルートが開いていて紀伊と繋がっている位置にはあります。纏向遺跡からそう遠くない位置に弥生時代の巨大環濠集落唐古・鍵遺跡があって銅鐸の主要産地であったようです。銅鐸は埋納されたことで知られますが、時期は紀元前後と2世紀頃に集中するとされ、前者なら常識的な寿命に直した神武天皇の活動時期に一致するような気もします。

神武天皇の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)あるいは狭野(さぬ)。神武天皇の妃は吾平津媛(あいらつひめ、記:阿比良比売)。日向国吾田邑出身で火闌降命(神武天皇の大伯父)の娘。薩摩・大隅・日向南部には火山も多いですが、火国(肥国)は熊本(及び長崎・佐賀)だということに注意も必要かもしれません。古事記によれば吾平津媛には阿多の小椅君という兄がいたそうですが、阿多でイメージするのは南薩摩でしかありません(阿多という地名——南薩と神話(1) 個人ブログ)。天孫降臨の舞台高千穂は一般に宮崎県が言われますが、宮崎県の高千穂は日向というより寧ろ阿蘇山と連動した歴史があるようです。阿蘇山は噴煙を上げており火国(肥後国)を代表する火山とも言えますし、高千穂が鹿児島であったとしても火(山)と関係が深いことが示唆されるのでしょう。磐井の乱も筑後ですし、南北朝時代の菊池氏とか北九州の南の勢力が北九州を落としたり脅かしたりする事態があっても不思議はありませんが、神武天皇一代で大和まで統一してしまうことはさすがに考え難いものはあります(時代は邪馬台国の時代を少なくとも120年ほどは遡りそうです)。神武天皇は弟ですから、南九州の有力勢力の嫁をもらって北九州の経済力武力を背景に、あるいは宇佐~安芸~吉備を経由して畿内に移民したと推理することも出来るのかもしれません。そういう事態は日本史において必ずしも突飛な発想ではなく、関東を開発した有力武士も平家であり源氏でした。そもそも倭国は北九州にあったのは確実です。そこから筆者の推定では6代経て倭国の中心が畿内(大和)に移動すると考える次第です。弥生時代は環濠集落が多く、環濠とは諸説ありますが、どう考えても堀でしかありません。矢尻の刺さった人骨も見つかり、弥生時代は戦乱の時代と言われます。

皇后はヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)。タタラ製鉄は6世紀半ばの伝来が定説だったようですが、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、古代の製鉄遺跡が見つかっており、文献に見るタタラという姓名から5世紀前後の国内製鉄の可能性も指摘されるようです(必ずしもそれ以前に遡らないとは思いませんが。それ以前に朝鮮半島で日本が戦争していたことは文献・金石文から確実だからです)。五十鈴の語源は定かではないようですが(伊勢の五十鈴川は有名ですね)、気になるのは鈴です。日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説なのだそうです。後に大型化しましたが、銅鐸=鈴だった可能性があると思います。銅鐸文化は大和朝廷に伝わらず断絶しています。大型化した銅鐸は中国の鐸に似ていたかもしれませんが、当初は鈴だったならばずっと鈴と呼んでいて、後に出土物を見て鐸に見えた可能性があると思います。イに関しては「「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。 ウィクショナリー「伊」」ということですから、神の鈴が五十鈴ですなわち銅鐸と見れば、ストンと落ちるものがあります。少なくとも五十鈴(いすず)はよくある和語で、日本文化に広く定着した何かであったはずです。

神武天皇は畝傍山(うねびやま)東南橿原の地に都を開きましたが、ウネビとは畝(ウネ)+ビ(傍か火)が通説のようです。畝は「畑で作物を植える土を盛り上げたところ。畝を作ることで、水はけを良くして、植物を育てやすくするもの」で恐らく間違いなく農耕に関係する畝でしょうが(山の形も畝っぽいような気がします)、ビがよく分かりません。諸説あるということは皆よく分からないということだと思いますが、正史の日本書記が傍(かたわら)、古事記が火です。富士山に似る円錐形の山のようですから(ただし200mほどの低山)、ヒヤマを火山と見る人が多いようです。しかし、日本語でヒヤマというと寧ろ檜山ではないでしょうか。ヒヤマはよくある姓で地名でもありますが、檜山表記が普通です。秋田県能代市檜山や北海道の檜山支庁が有名ですが、意味は檜(ひのき)の生い茂っている山です。ヒノキは日本では建材として最高品質のものとされ、古事記でスサノオが使ったとの記述もあるようで、寺院神社でよく使われ、弥生時代の神殿でも使われたとか。語源は火の木説もありますが、日の木説が有力のようです。従って当時は(畝がついており)よく分からなくなっていたかもしれませんが、畝檜山が語源なのかもしれません。火と日は古代で音が違うらしいのですが、神武天皇や妃の名前の火も日で日の木に関係していても不思議ではありません。ヒノキは北海道から鹿児島県や熊本県の市の木でもあって、日本なら何処でも生える木のようです。

橿原は普通に樫(橿、カシ)原のように思え、樫はブナ科の常緑高木の一群の総称です。杉原・松原は普通の用例で橿原は珍しいものの違和感はありません。柏もブナ科の木で柏原(かしわばら)が寧ろ一般的でであり、これがカシハラ、カシワラであるようです。ブナと言えば縄文時代でブナ林が優勢の東日本の人口は西日本を大きく上回っていました。大和の橿原がスタートの地という伝承(邪馬台国の関係ありそうな三輪山も大和盆地東端です)もそう考えると示唆的です。大和自体、山処ととも考えられますが、標高が周辺より高くやや寒いでしょうから、このあたりではブナの恵みが利用できて人口も多かったかもしれません(低地が開発されるのは土木技術が発達してからで、案外山は古くに優勢です)。皇室自体山幸彦の系統です。ここでは詳述しませんが、神武天皇自体は海人族との関係もある感じで、やはり航海して移動してきたような気はしますが(それで分かり難くなっているかもしれませんが)、畝傍山然り、橿原然り、後に大和と呼ばれる地域に移住したとされること然りでやはり山や木とも関係が深いところはあるような気もします。ブナは熊本の市の木でもあって西日本でも生えるのでしょうが、ブナ林=東日本・北日本と見るのが通常ではあるんでしょう。気温は時代によって高低あって、当時の大和が寒かった可能性もあると思いますが、詳細はよく分かりません。


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8 コメント

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古事記の高千穂 (管理人)
2019-04-13 09:47:04
筆者は基本的に日本書紀を支持しており、古事記を使わないことにしているんですが、国産み神話との関係で古事記の高千穂を紹介しておきます(ダブルスタンダードとの批判は甘んじて受けます)。

韓国(カラクニ)に向かうところが筑紫の日向の高千穂のくじふるたけのはずなんですよね。韓国岳は宮崎県・鹿児島県の県境の霧島山系にあるんですが、通常、この時代の韓国は三韓の加羅国だと思います(後にカラ国は唐国を指すようになりました)。北部九州は弥生時代始まりの地で中国の史書にも漢代の北部九州の倭国が記載され、金印も発掘されています。そもそも縄文時代から延々と北九州と半島は通交があったようです。

九州島は古くは筑紫島と呼ばれ,筑紫,豊,火,襲(そ)の4国に分かれ,つくしは国土の尽き果てるところを意味するとも言うようですが、これは大和目線を感じます。つくしと聞いて思い浮かべるのは土筆でもあって、あまり格好のいい名前ではありません。陸奥の国が典型ですが、辺縁の国ほど大きく分けたりするんですよね(例外は恐らく共立に関係して吉備くらい)。日本書紀では高千穂は襲と書いてますから、日向=宮崎県でいいとは思いますが、いずれにせよ、まず筑紫は九州島という解釈でいいんでしょう(古事記では筑紫(国)とも読めそうです)。

続く日向は日に向かうところぐらいの一般的地名のような気もします。筑紫の神は白日別で九州4国の神はいずれも日が入っています。皇祖神は太陽神ですが、神武東征が伝わることと弥生時代の人の流れが注意されるべきです(ただし大和が強くなったのは考古学的に弥生時代のそれほど遅くではないようです)。

面白いのは朝日のただ刺す国、夕日の日照る国なりという指摘です。これをそのまま読めば東西の一方に向く国は苦しくなります。何時頃からかは知りませんが、福岡県の日向峠(ひなたとうげ)が伊都国と奴国(早良)の境で東西に通じており面白いんじゃないかと思います(大昔で出典は忘れましたが、福岡県に日向峠があるという指摘は見たことあります。福岡県に高千穂を関した企業名もあって、古事記記載ですし、こうした話を知っている福岡県民もいるんじゃないかと思ってます。まぁ能ある何とかという話ではありますが)。

高千穂をあえて挙げれば脊振山系最高峰の脊振山(1,054.6m)ですが、それほど尖った山ではありません。ただ、福岡県側は断層地形のため急峻で、渓谷も深く、坊主ガ滝、花乱ノ滝など滝も多いんだそうです(脊振山 ヤマケイオンライン https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=958)。

さいごに「くじふる」ですが、「霊異ぶる」という指摘もあるようです(天孫降臨てんそんこうりんの地 http://www7b.biglobe.ne.jp/~kirishima/tensonkourin/tensonkourin0.html)。くじふるの用例は確認できませんでしたが、クジなら、憶持(1 心に念じて思いとどめること。常に念頭に置いて忘れないこと。「僧、心経を―し、現報を得て、奇事を示す縁」〈霊異記・上〉2 執念。また、思慮、分別。「衆徒の軍拝見して候ふに、誠に―もなく」〈義経記・五〉デジタル大辞泉(小学館))や意気地(事をやりとげようとする気力。デジタル大辞泉(小学館))という言葉があって、フルは例えば「ちはやふる」を想起します。脊振山系一帯は、古くは霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場だったようですし、山岳信仰と神道は元来関係が深いです。もうひとつ紹介のホームページで面白いのは「「高千穂」は本来、高く積み上げた稲穂のことで、神霊の降下する所と考えられた。」という指摘で確かになだらかな(急峻な峰がない)高い背振山系(山脈)こそ見たまんま高千穂ではないかと思わせるものがあります。

笠紗(かささ)の御前(みさき)の記述があり、鹿児島県南さつま市笠紗町野間岬とされますが、笠紗は必ずしも古い地名ではないようです。福岡県でもよく分かりませんが、崎がつく岬は多く(福岡県の崎/岬一覧 https://www.navitime.co.jp/category/0706010/40/ NAVITIME)(単に先の意だと思われます)、どうも気になるのは海の中道(古くは奈多の浜)です。その先の志賀島は金印が見つかった地(「叶崎(かなのさき)」あるいは「叶ノ浜」 金印 http://museum.city.fukuoka.jp/gold/ 福岡市博物館)。満潮時には一部が海水で区切られることがあるため道切(みちきれ、満切)と呼ばれ、18世紀の『筑前国続風土記』によれば、当時は道がつながることの方がまれであったとか(ウィキペディア「海の中道」2019/4/13参照)。砂州では天の橋立が有名ですが、博多湾岸の海の中道はさぞかし神秘的ではなかったかと思います。また同じくウィキペディア「海の中道」参照で「神功皇后伝説では、遠征前に盛大な神楽が行われ、海底から現れた異形の磯良(いそら)神から玉を借り受けたのは、この地の吹上の崎というところだとされる」(筑前國續風土記 巻之十九 糟屋郡 裏 奈多濱)のだそうです。わざわざこの辺りで言及せねばならない岬とは。

なおクジフル=(加羅の)亀旨峰(クジボン)説もあるようですが、牽強付会でしょう。峰はホウで漢語じゃないのという話ですし、フルにどう転訛したかも分かりません。日本の他に類似の地名もありません。魏志倭人伝の昔から、明らかに韓国と日本は違うと指摘されています(勿論中国とも違うでしょう)。

個人的には日本書紀は魏志和人伝を見て日向という言い伝えを宮崎県と解したのかなという気がします。方角を読み替えず距離を短縮すればそう読めはしますので。西都原古墳群は立派だと思いますが、話は逆で大和の勢力がそこに及んだという証拠のように見えます。

後、海幸彦の話は末盧國(まつろこく/まつらこく)=松浦(半島)が怪しいという気がします。海幸彦って山幸彦の兄弟で従えられるんですよね。海人族=渡来人という話もほぼ眉唾で(渡来人がいたことは全く否定しませんが、海民というより普通に王族・貴族・国民・村民が亡命してきたのでは?半島の漁民が日本の縄文時代以来の漁民を押しのけることが有り得るでしょうか?)、末盧國は海流の関係で半島から来るというより、日本から半島に向かうのに都合がいい地ですから、話は真逆で末盧國(対馬や壱岐)の漁民が半島に出かけて交易などしていたと思います。それが各種史書・金石文に残る古代日本の朝鮮進出に繋がったでしょうし、それなりに力を持ったということではあるんでしょう。ただ、日本で水軍が主になった歴史はありません。古代においても伊都国や奴国がしきっていたはずです(伊都国や奴国が山岳信仰=背振信仰で「山の民」だったのかもしれません。元々弥生人とは北九州縄文人が水田耕作を受け入れるなどして時間をかけ成立したようです)。少なくとも伊都国や奴国の直ぐ西の松浦半島一帯に元来の海の民が住んでいたことは間違いありません。誤解があるのは弥生人が渡来人だという話ですが、山幸彦は外国人では全くありません。海幸彦も然りで外国人どころか兄弟です。どちらも縄文人/弥生人でしょうが、末盧國の住人は漁民然としており、風俗が違うように見えた可能性も高いように思われます。

以上ですが、筆者は神武天皇以降を歴史と捉えており、歴史は検証可能で、神話とは区別されるべきと思っています。歴史上の神の話・霊の話も尊重はしますが、さすがに歴史的事実と受け取る訳にはいきません。筆者は別に宗教を否定している訳では全くありませんし、日本神話も尊重されるべきという考え方ですが、現実世界で(科学的・学問的に測定される)Factとして扱うのはないんじゃないかという話です。寧ろ逆に根拠ないとか言われている日本古代の歴代天皇を欠史八代含めて全て実在(ただし年代の修正の必要はあり)とするのが筆者の立場です(神武東征のくだりの詳細を歴史的事実と認定するのは厳しいとは思うのですが(日向を拠点に熊野から大和を攻めるのような話をどうしても認められません)、神武天皇も伝説的な始祖として実在したと考えますし、そのルーツをさぐる上で重要な話だと思っています)。
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高千穂の解 (管理人)
2019-05-06 10:37:06
いろいろ探したのですが、普通に高(タカ)+千(チ)+穂(ホ)でしょうね。千は千代(チヨ)とか千尋(チヒロ)とか百千(モモチ)とかで非常に(長い)とか数が多いといった意味がある日本古来の言葉だと思います。穂が山を示す例はあまり見つかりませんが(穂高ぐらいでしょうか)、穂山という珍しい苗字が鹿児島(鹿屋市)・北海道(虻田郡ニセコ町)・福岡(田川市)・宮城(加美郡色麻町)にあるようです。北海道が宮城由来で宮城なら多賀城かもしれません。

通説の高千穂(宮崎県)で気になるのは具体的に(高さを示す)山が見当たらないことです。高千穂峡(キョウ)はありますが。山脈は入り組んでいますし、あのあたりだと目立つのは阿蘇山で火山・独立峰でしょう。実際宗教的に阿蘇神社・阿蘇信仰は目立つ存在です。下流に平野もありません。神武東征を(現実に元となる事象がある)歴史と捉えるなら、これはマイナスです。西都原古墳群は意外と距離がありますし、年代も降ります。

鹿児島の方は山がありますが、火山の印象です。霧島神宮が目立つ存在ですが、南側(大隅)で名前も違います。隼人の本拠地が神武東征の出発点というのも変な話です。肥前・肥後が火の国というのは九州をよく知っている感じはありますが、北九州ー大和視点ではないでしょうか。鹿児島が火の国でないというのは、如何にもよく知らなかった印象で隼人の存在と完全に符合します。弥生遺跡で知られる佐賀平野の肥は意識されたかもしれません。

どちらでもないとすれば、やはり当時の先進地倭国があった北九州が怪しいとなり、北九州なら神話の舞台の山は倭国の位置から背振山地しかないってことになります。結構(松浦半島より)高い山脈で航路上の目印になりそうで、壱岐・対馬を含め海上貿易に関わるであろう祭祀遺跡は多いんですよね。修験道も古くからあったようです。背振山地の宗教的意味としては物見(ものみ)台があった可能性を考えます。何を見るかと言えば、国(平野)を見ます。国見(クニミ)という地名・人名がありますね。神功皇后が国々を眺めたという伝説から国見岩が北九州にありますが、その当否はさておき、早良国と奴国を見渡せる位置に国見岩が地図上で存在しており、気になっています。弥生時代とは戦乱の時代なのであって、国見が生死を分けたかもしれません(今も自衛隊のレーダー基地があります)。物部(モノノベ)は軍事氏族でモノミ(物見櫓は矢倉が原義で見張る場所であり弓で拠点を守る軍事施設なのでしょう。高いほど遠くを見渡せその意味でも価値があるかもしれません。山の場合は烽火(ノロシ)が使えます。敵にもバレたということがバレますが)にも関わりそうです。神功皇后(熊襲征伐・三韓征伐・「反乱」鎮圧)の伝説があるように国見と軍事は密接に結びつくんだろうと思います。

ただどう考えてもただボーッとしているのは暇そうです。防人(サキモリ)の歌が万葉集に載せられています。暇が文化の発達を促すのかもしれず、国見台の兵士はご来光を眺めて気を紛らわせたかもしれません。一々山に登る過程で修験道の発達も促されたかもしれません。生死を分ける国見のような大事を全く末端に委任する訳にもいかなかったろうと推測できます。食料集めで必死だったはずの縄文人と山岳信仰は意外と結びつかず、考古学的遺物にそれは認められないような気がします。修験道は国内が落ち着いたから文化を保存しようとする動きだったのかもしれません。神人(じにん)は僧兵と並んで武器も持っていて結構戦える存在でした。琉球の城(グスク)(具足とも)には御嶽(うたき)があって、原義は御岳(オンタケ)(タケは武に通じます)ではないでしょうか。おもろさうしと祝詞(ノリト)という文化の関連も指摘されます。祝詞(のりと)の語源は「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)と言われ、宣言・宣告という感じで軍事的なような気もします。西洋ですが灯台と宗教というのもありますね。

脊振山は江戸後期までは廣瀧山と呼ばれ、廣瀧山の麓に武家の廣瀧家を中心として村を築き、住んでいたようです。廣瀧家は織田家の正式な家紋と同一で、五つ木瓜なのだとか。タキは滝でもあって神道の修行でも使われますが、三母音に変化しやすい九州方言との関連でタケにも通じるような気がします。背丈のタケでもあります。伊勢には瀧原宮(たきはらのみや)・多気郡(たきぐん)があって、外宮(豊受大神宮)の境内別宮に多賀宮(たかのみや)があります。多賀は元は高で多賀城は後に濁った可能性がありそうです。多賀宮(たかのみや)は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)にあり、別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされ、多賀宮がもっとも古く、外宮の4別宮のうち、『止由気宮儀式帳』(804年)と『延喜式神名帳』に記載されているのは多賀宮のみなのだとか(ウィキペディア「多賀宮」(2019/5/6)参照 筑摩、神宮の展開51-54頁『別宮の内実』)。ヒノキとかワケとか古代日本のキーワードが芋づる式に出てきますね。伊勢って北畠で南朝方でやたら戦っているイメージもあります。

さて織田家ですが、越前の神官の家系で剣神社が関係あるようです。ウィキペディア「劔神社」(2019/5/6)参照で「社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。」ということですが、神功皇后は忍熊王の「反乱」をさっさと鎮圧しているので不審です。破れた忍熊王を祀るのも常識的に考えればおかしく、神功皇后側が祟りを恐れて祀ったというのが、菅原道真=天神様もそうですが、古代日本のよくあるパターンだと思います。織田家が尾張に移るにあたって、草薙の剣の熱田神宮との関係もあったかもしれませんが、ともかく同じ家紋の謎は越前剣神社と神宮皇后・忍熊王との関係で捉えられるように見え、廣瀧山は背振山で福岡市方面も佐賀市方面も見えるようですが、福岡市の方は早良区に繋がり、早良親王は祟りで知られます。福岡あたりが言うまでもなく神功皇后が九州において活躍した地であり、佐賀市方面も見える意味は熊襲討伐に関係するかもしれません。偶然にしては出来すぎている話のように思います。なお北陸が出てくるのは忍熊王関連の可能性もありますが、応神5世の継体天皇の出身地に関係するような印象もあります。傍系過ぎるというのも大変な話です。草薙の剣は天武天皇・持統天皇がよく言われますが、狗奴国/台与と関係する可能性も考えた方がいいかもしれません。

そういう訳で高千穂とは高い山が連なり、交易祭祀に関連して航路上の目印にもなり、国見・物見に関連する重要な山地である背振山地としたいと考えます。造化の三神の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)って高見結びとも読めますね(日本書紀では高皇産霊尊)。
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彦火火出見(ひこほほでみ)考 (管理人)
2019-05-06 11:55:32
神武天皇の諱(イミナ・忌み名・実名のこと)の彦火火出見(ひこほほでみ)ですが、これは通常意味が分かりません。漢字は後に宛てられたものであり、正確に宛てられたかどうか検証する余地はあると言えます。伝承された音から和語中心に意味を考えるべきでしょう。意味が通常分からないということは、日本書紀が歴史を創作したという説こそ怪しいということになると思います。お話を創るのに意味が分からないお話にする必要はありません。創作も誤りもあるでしょうが、安易に認定するべきではなく、安易な説が学界などで断定されているような印象があって残念に思っています。確かな証拠を積み上げてこその学問かと。

まずヒコは男性につける名前ですが、元は日子ではないかと言われます。対するのはヒメで日女ではないでしょうか。共に位が高いと考えられます。卑弥呼はヒミコでメでないようですが、九州方言でeとiの交代もあるらしく、沖縄なんかでその実例もあって、ミとメは学問的にも一緒に出来るような気はします。御子とすると女性の方がヒコより偉い感じです。女性が祭祀のリーダーであるケースもままあって、卑弥呼に関して言えば日御子の可能性もあるかもしれませんが。巫女は後世的かもしれません。ともあれヒコは彦でいいと思います(彦山がありますが、元は日子山で国見・物見に関係するような気もします)。

問題は次の火火(ホホ)でしょう。火は火国でも分かるように本来ヒだと思います。火を当てたのは神武東征との絡みで日向という伝承と魏志倭人伝の読み方で日向を南九州に比定したことに由来するような気がします。炎/焔(ホノオ/ホムラ)がホに宛てたもうひとつの理由だと思いますが、このホも含めて穂が原義だと思います。これは稲穂の形が分かる人は割合納得いく説明ではないでしょうか。穂の尾がろうそくの火や焚き火の形に似、穂群が焼畑とか火事の火に似るという訳です。また高千穂のホも穂と表現されています。弥生時代・古墳時代通じて古来稲作が日本文化の要でした。

穂穂と重ねる理由ですがホホは頬しか見当たりません。ただし頬の古語はツラのようです。微笑み(ホホエミ)は日本の重要な文化で声を立てて笑いません。裏をとっていませんが、微笑むと頬が盛り上がることから微笑み由来で頬(ホホ)というようになったと考えられるでしょうか。笑いと同じ漢字ですが、笑みは別の語であって、声をたてずににっこりすることを意味し、大笑みなど声をたてるバリエーションはありません。ですからホホを微とするのも笑いと混同した当て字でしかなく、ホホを微とする他の用語も思い当たりません。そう考えるとホホエミとはエミそのものではないかと思いますが、言葉が違うのですからあえて意味の違いを見出すなら、大笑みがホホエミではないでしょうか。「ホホ」が盛り上がるほどの笑みをホホエミという言葉で表しているという訳ですが、ホが穂だとすると、ホホで稲穂が一杯に広がる田んぼの盛り上がる様子を表しているかもしれません。少なくとも大きく笑むと「ホホ」は盛り上がります。そのまま彦微笑(ヒコホホエミ)の可能性もなくはないかもしれませんが、音が違うので他も考えてみます。

頬だけだと唐突でそもそもツラのようです。ですが穂穂を田んぼと捉えることも出来るかもしれませんが田で良いはずです。高千穂を背振山地ではないかと筆者はしましたが、数ある穂(山)が山脈なら穂穂で山脈を表すのも有り得る話です。つまり穂穂を高千穂と考えれば、高千穂を出たまで繋がります。

見は国見・物見もありますが、この場合は偵察、つまりは(北九州)倭国のエージェント(スパイ)ではないでしょうか。広い(北九州から見て)東国に移民するにせよ、様子が分からないと話になりません。神武天皇は四子とされ、じゃあおまえ行ってこいで送り出された感じが名前に表れているような気もします。

神武東征は勇ましい話ですが、日向が熊野から大和を落とすのような軍事的合理性からそのまま信じる訳にはいかない話になっています(ウズ彦だって本来は鳴門しかないはずで、熊野から攻める話が出来るいずれかの時点で素直な経路として話が混ざったのではないでしょうか)。当時の大国北九州倭国にしても別に攻めるとかそういう話ではなく、別に述べますが、ちょっと送り出したのような話にも考えられなくもありません。まぁいかつい人の分かってるな?ぐらいの圧力はあったかもしれませんが。
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玉依姫(母) (管理人)
2019-05-06 12:21:48
母の玉依姫ですが、玉(タマ)は普通に考えれば勾玉なんでしょう。三種の神器のひとつですが、弥生前期末から中期初頭の吉武高木遺跡で三種の神器を含む豪華な副葬品が見つかっています(http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/yoshitaketakagi/know/index.html やよいの風公園)。

勾玉のマガは曲がるでその形状に由来し、勾玉は胎児を表すという通説でいいんでしょう。禍々しいは関係ないと思いますが、一応メモしておきます。

ヨリは普通に依りで、依り代(憑り代)は神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで神体などを指し、この場合の依り代が(匂)玉ということになるはずです。後に鏡だけがご神体のような扱いになっていますが、やや廃れた感じの勾玉が依り代だった時期があって不思議はありません。元より神道においてご神体は必ずしも特定のものに決まっておらず、モノであることも場所であることもあります。

姫は姫ですから重複を避けますが、女性が宗教を司る文化は神武天皇の母から見られることは強調されていいかもしれません。

またその父は海神豊玉彦とされます。移民するにあたっての助力がありそうな感じですが、やはり重視されているのが玉だと分かります。翡翠は越(コシ)の糸魚川で産し、広く流通していたことで知られますが、九州が入手するなら、海を通じて出雲を経てということになるはずです。

この説が正しいとすれば、当時の倭国(北九州)文化の一端が見られたということになりそうです。
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媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)(皇后) (管理人)
2019-05-06 14:25:03
皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)ですが、神武天皇には日向国の妃がいたものの大和に遷ってから皇后を迎えています。皇后は伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神(事代主神)だとされており、2代天皇の綏靖天皇(神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと))を産んでいます。

さてヒメタタライスズヒメの意味ですが、ヒメは姫/日女でよいはずです。頭にヒメが来るのは神武天皇(ヒコホホデミ)と同じで当時の九州の名づけ方なのかもしれません。最後にもヒメがついてますから本来の名前がタタライスズヒメで当時違和感があったので頭にヒメをつけたとも考えられます。

問題はタタラです。通常はタタラ製鉄で出雲/中国山地に結び付けられます(技術的には全国に広がっているようです)。しかし鞴(ふいご)が「たたら」というそうですから、必ずしも鉄ではないような気もします。鞴(ふいご:吹子) | 和鋼博物館(http://www.wakou-museum.gr.jp/spot5/)を参照すると、「踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。」「踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。」・・・たたらを踏む(空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむ)という言葉の由来のようであり、なるほどと思いますが、注目すべきは銅の溶解に使われたということでしょう。これは時代が降っていますが、史書に必ずしも技術の詳細は記されておらず、有り得ない話ではないと筆者は思います。つまりこの場合のタタラは製鉄ではなく製銅に関係する可能性があります。

イスズですが、重複を繰り返しませんが、スズを「銅鐸」と筆者は見ています(拙稿「「銅鐸」は鐸では全くなく、明らかに鈴 https://blog.goo.ne.jp/utak_001/e/2c788cfc5f98dc4601d6f013b2145d50」。イも持論ですが伊で漢字の原義通り「手で神杖を持った様を表わす象形文字で神の意志を伝える聖職者」とします。つまりイスズとは神鈴のことで要は畿内文化で濃厚な銅鐸そのものです。

これでタタラとイスズが結びついてき、その母が大和の有力者の出だという事情が見えてきます。しかしその父が出雲系とされる神という謎を解かねばなりません。「銅鐸」は出雲でも出土しますが本当に出雲系なのでしょうか。

日本書紀を歴史の反映と見做す筆者にしてみれば、皇別氏族が「神武東征」後の皇族から別れで、神別氏族が「神武東征」以前の(九州由来の)(皇統と連なるであろう)古い氏族ということになりますが、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わるのが神別氏族の物部氏で後に軍事氏族として活躍しています。つまり当時神武天皇以前に大和入りした集団がいて、ヒメタタライスズヒメの父系は出雲系だった可能性があるのかもしれません。出雲は山陰ですが古い文化を誇り、例えば仮に関門海峡を押さえていれば、大和に海から通じます。

ここで2代天皇綏靖天皇に移ると何故かヌナカワが名に含まれています。これは普通に考えれば翡翠で知られる糸魚川のヌナカワ姫に関係する言葉だということになります。現時点で確たる根拠は見つけられていませんが、ヌナカワとは玉の川を意味すると言われているようです。いずれにせよ、出雲ですらなくこの時期に北陸まで飛んでおり、記紀が創作呼ばわりされる原因になっているような気がします。

ここで先にコメントした神武天皇の母を振り返ってみると、勾玉系の巫女ということを踏まえないといけないことが分かります。要は父系を重視して勾玉系/九州祭祀系の子だとし、ヌナカワを名前につけたんでしょう。母父の出雲系を意識した可能性もあります。

なおミミもついていますが、やや気になるのは後の投馬国(吉備と見られる)のミミ、ミミナリでこの時から吉備系も何らかの形で移住し参加していたとも考えることは出来ます。

綏靖天皇妃は五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)で母方の叔母(その父が事代主)にあたるようです。ヨリがついていますから、神鈴(銅鐸)も依り代になったのかもしれません。だとしたらやはりこの時も大和系を尊重している様子でどうも武力で征服したというのとイメージが違ってきます。

ここでどうしても気になるのが事代主になってきます。出雲系だとして何故神なのでしょうか?やや飛躍しますが、本来的に国譲りとは神武天皇が入り婿的に大和に入った事象を指すのかもしれません。軍団もいたかもしれませんが、(少なくとも激しく)戦争せずに大和に入ったと考えると、大和系・地元有力者が当初優遇された様子が納得できると思います。神武東征をそのまま受け取り戦争で勝ち取ったなら、一々大きな配慮をしなくてもいい訳です(全く配慮しなければ統治も難しいかもしれませんが、自らの皇后に敗者を据えるなんて考えにくいところです)。在地の有力者が「国譲ってくれた」のが国譲りで出雲系だったのでしょう。そしてその場所は大和盆地の端でした。配偶者から「事代主」自体大和の首長層に迎えられたとも考えられます。弥生時代の拡散から北九州を源流として出雲も吉備も大和も全て大きな差がない民族だったと考えられ、それがこうした歴史を生んだと考えられます。要は先進地が技術をもたらし支配者として受け入れられたのかもしれません(史書からも言語学的にも考古学的にも倭国(北九州)の先が朝鮮・中国に繋がるとは全く考えていませんので悪しからず)。

事代主は(古事記によれば)大国主の息子とされ、大国主は出雲で活躍した神です。もしかしたら事代主は出雲系ではなく大和系の可能性もあるかもしれませんが、あまり詳しく論じても仕方がない部分でしょう。大国主自体、スサノオの子孫で北九州系だろうと思います(弥生時代自体が北九州系です)。倭迹迹日百襲姫命との神婚譚で知られる大物主神は日本書紀の異伝では大国主神の別名とされますが、異伝ですし欠史八代に史実を見るのであれば、年代的にこの異伝を採用する訳にはいかないということになると思います。卑弥呼の共立に国譲りの要素があることからこの異伝の記載があったのでしょうが、倭迹迹日百襲姫命を歴史的人物と捉えるなら、欠史八代も歴史的事実の反映ですし、それ以前からの大和の勢力で間違いありません。「譲られた」のは吉備や北九州だという訳です。
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子孫(欠史八代) (管理人)
2019-05-06 16:04:33
神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)=綏靖天皇ですが、既に勾玉との関連は示唆しました。譲られた経緯や土着の外戚・皇后の力があったか、その治世で特別大和勢力からの反発は無かったようです。争いになったのは腹違いの兄の手研耳命(タギシミミノミコト)で、綏靖天皇同様にミミは入っていますがそれはさておき、東征以前の元の妃の子で長らく朝政の経験があったので弟を倒そうとしたようです。もう一人の同母兄の神八井耳命は何もできず、討伐で活躍した綏靖天皇が即位したということです。活躍の理由に母方の力もあったかもしれませんが、生まれつき武芸に秀でていたという素質面もあったかもしれません。「国譲り」の経緯はあったでしょうが、やはり戦乱の時代です(譲りと強請りが近い言葉なのは何故なのか)。

続いて3代安寧天皇は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと) で玉があって父のヌナカワを背負ったらしい名前になっています。皇后は渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。これも勾玉系で神武天皇の系譜の影響が微妙に拡大しているような気もします。ただ大和系と見られる先の皇后(皇太后)は尊んだと記されます。皇后は次代の懿徳天皇のところで、事代主神の孫だとあります。凄い近親婚ですが、この神の活躍が最初期の大和朝廷を支えていたのかもしれません。

第4代懿徳天皇は大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと) 。スキが農具・道具でトモは友の他に共や伴や鞆も想起されます。皇后は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)。さすがに事代主神の影響が感じられなくなっています。都は軽ですが、曲峡宮(まがりおのみや)と言い、曲がりの意がやや気になる次第です。

続く第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇も取り立てて触れるところがありません。孝昭天皇は名を観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)と言い、孝安天皇は日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと) と言います。

続く第7代孝霊天皇は大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと) は系譜上の重要人物で皇后との間に生まれた皇太子=大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、大倭根子日子国玖琉命)の他に卑弥呼と見られる倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)や吉備臣の祖とされる稚武彦命(わかたけひこのみこと)がいます。このあたりで吉備方面への進出が強まっていると見ることが出来、それが後の卑弥呼の活躍に繋がるのかもしれません。

第8代孝元天皇は大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)。第一皇子の大彦命の活躍が孫の代でありますが、これはハツクニシラススメラミコトに業績を集めた可能性が高く実際には系譜に見られる時代に活躍したと思われます。妃に河内青玉繋もいて北陸に関係あるようにも見えます。第二皇子が後の開化天皇ですが、大彦は活躍しすぎて手元にいなかったのかもしれません。必ずしも長子相続でもなかったんでしょう。第一皇女に事績が無い倭迹迹姫命がいて倭迹迹日百襲姫命との関連も気になるところです。武内宿禰が孝元天皇から分かれてもいます。卑弥呼の時代(祭祀をしていただけかもしれませんが)は世代で言えば、第8代孝元天皇の時代で有力者が広がる前段階を見て取ることが出来るように思います(吉備進出がここか)。

最後に第9代開化天皇は稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと) 。都が大和盆地の北である春日の率川宮で、大彦の北陸遠征(世代はここになります)との絡みが考えられなくもありません。妃に丹波竹野媛もいます。魏志倭人伝の卑弥呼は高齢だったので、(東海と見られる)狗奴国との戦争はつまり開化天皇の時代と見ることが出来そうです。都が何故か北にあるのはその辺かもしれません。戦争のリーダーは大彦だと考えることも出来ますが、勝ち切ることはなかったようです。そうだとすれば、この当りで吉備ー北九州と通じていたということになります。都を変えたのは手狭で新しいことをやらねばならなかったからかもしれません。事績が伝わらないのは活躍していたのが卑弥呼が代表していたとか、戦争のリーダーではなかったとかそういう事情があったと見ることも出来ます。また、6~9代は名前にヤマトが入っており、ヤマト国の意識が強かったようで、10代の崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) でその治世はやはり卑弥呼を外しているように見えます。倭迹迹日百襲姫命の事跡は系譜からも崇神天皇の活躍にあわせて移した(移った)ものではないでしょうか。
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御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)崇神天皇 (管理人)
2019-05-06 17:30:47
最後に簡単に同じハツクニシラススメラミコトである崇神天皇に触れておくと、第二皇子ですが母が物部氏の先祖の娘で帝王の資質があったようなことが書かれていますが、血統も必ずしも目立たず(第一皇子も別にいましたし、古事記によると葛城氏の皇子もいたようです)、皇后との関連で大彦の力を借りたかもしれませんが、崇神天皇自身に優れた資質もあったんだろうと思います。

実際の活躍の時期は卑弥呼死後の倭国大乱後でしょう。これを収めてリーダーになったと思われますが、中国の史書では台与の時期です。台与は崇神天皇の娘と見られ年齢からもこの見方に全く矛盾はありません。大きいはかりごとを好まれたと書かれていますから、卑弥呼を模して娘を立て表だった活動をしなかったのかもしれません(表向きのリーダーは日本人一般から見ても台与で、皇室の記録では崇神天皇をリーダーとして記録したという意味です。上層部はその辺の事情は分かっていたかもしれません。象徴と実権が分かれる事態は歴史でしばしば見られます)。

皇后は大彦の娘の御間城姫(みまきひめ)。この時期のマキは明らかに纒向遺跡のマキで、崇神天皇が御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) ですから、マキの一族の入り婿が崇神天皇なんだろうと思います(皇居は前代に移していました)。五十瓊殖はここでは検討しませんが、マキムクはマキ+ムクでしょうから、牧向が原義なのかもしれません。牧は牧場で馬を生産し軍事の象徴でもあります(埴輪はまだかもしれませんが、埴輪を作らなかったら馬がいないということもなさそうです。ただし牛馬なしと書かれているので台与以降の話かもしれませんし、九州時代の古い記録で牛馬なしと書いたまでで大和にはいたのかもしれません。これは安易な推測ではなく、魏志倭人伝の記録は九州色が強いことが指摘され、投馬国や邪馬台国の記述が乏しいことは見れば分かります。地誌は楽浪郡の倭国の記録をそのまま使ってズレがあるように思えます)。向くが地名に入る例としては活用が違いますが日向(ヒムカ)があります。

卑弥呼の墓は死後に築いたとされ、崇神天皇の祖父母の代ですから都が北に移っていたことは寧ろ関係なく、箸墓の位置・時期共に矛盾はありません。中国の史書に特に記された大きな墓が消えていたら何の墓が残るというのでしょうか?最初の大古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は高く、これは伝承通りと言えます。史書もただの姫であるはずの人物の墓を何故か記載します。

台与の墓の記載がないのは、記録が崇神天皇をリーダーとしていたことと関係あるでしょうが、筆者の考えではトヨウケビメとして外宮で祀られるぐらいですから、墓を築いたならば、記載がないのも不審です(ヤマトトモモソヒメは書いています)。そういう訳で筆者は父と一緒に葬られた可能性を考えています。豊鍬入姫命は若年でリーダーに祭り上げられただけあって次代の垂仁天皇でも活躍が見られます。父は表向きのリーダーにした娘と一緒に入るつもりで墓を拵えたとも考えられ、ならば墓の記載があるはずもないかもしれません。何時亡くなったか分かりませんが、その時には倭姫に代わっていて目立たなかったから記載もないと。

崇神天皇の墓は山邊道勾岡上陵で現在は行燈山古墳とされています。考古学的に見て時代にそう矛盾はありませんが、箸墓の次の大規模古墳にしては時代がやや新しい感じがあります。

箸墓の次の大規模古墳は考古学的に西殿塚古墳とされ、これが崇神天皇の墓ではないでしょうか。行燈山古墳は柳本古墳群のひとつで、西殿塚古墳は大和古墳群で、纒向遺跡に近いのは前者ですが、纒向遺跡には箸墓擁する纒向古墳群があって、何が何でも纒向に近ければ勝ちという訳ではありません。地図を見たらどちらも山邊道(山沿いの道か)にあると言え、大きさも10mほど行燈山古墳が大きいだけで、甲乙つけ難いとも言えそうです。決着は年代で決めるしかないという訳です。ウィキペディアで出典が確認できませんでしたが、西殿塚古墳を真陵とする人もいるとか。

出典を確認できませんでしたが、西殿塚古墳に被葬者が男女一対だと何かで読んだ記憶があります。しかしここでよく考えてみると男女一対だとして御間城姫と御間城入彦五十瓊殖天皇の可能性も高そうです。纒向古墳群ではないですが、さすがに皇后が天皇の墓に入ったのであって、天皇の墓は後世の例からも適地に造ったので良さそうです。

そうすると台与の墓ですが、やや小さいものの東殿塚古墳の可能性が高そうです。東殿塚古墳(全長139m・全長175mとも)は西殿塚古墳(234メートル)のすぐ東側に並列しており、東殿塚古墳が後の築造になります。そうだとすると連続的な築造だから記載が無かったと考えられ、時間的な矛盾は解消されることにもなります。大きさが崇神天皇の方が大きいというのは記紀の記載の通りだというまでなのでしょう。父娘関係がハッキリしているがゆえの推定と言えます。

注目されておらず、東殿塚古墳は荒れてもいるようですが、面白い古墳のようです。東殿塚古墳(https://74589594.at.webry.info/201010/article_3.html 大和の古墳探索)によれば、鰭付楕円筒埴輪には船の線刻絵画が描かれており被葬者の船運も含めた広い範囲の交流を物語っており注目されるとのこと。中国に使者を派遣し記載されたリーダーらしい墓とも言えそうです。ウィキペディア「東殿塚古墳」(2019/5/6)参照でも「船はゴンドラの形をしており7本の櫂を描いていることから14人で漕ぐ大型船であり、帆に風を受けて海上を疾走する船を描いた」「土器には、砕かれた土器や形を保っている供献土器がたくさんあり、山陰系・近江系・東海系などの他地域の土器が含まれており、最古式と推定されている。」・・・古墳は皇室のご先祖様のお墓でもあるんですが、歴史の対象でもあってある程度調べてもいいような気もしています。残っているか残っていないかの問題もありますが、遺体は研究対象にならないのは無論です(人骨の研究は古墳以外で)。罰が当るというなら、調べずに全然違うお墓を認定したままほったらかしにしている宮内庁を中心とした今の体制が罰が当ると筆者は思います。何も決めず何も触らないならまだしも既に全然違う墓を認定して話題になっており、頬かむりすることこそ如何にも不敬のような。

卑弥呼・崇神天皇・台与以前の墓は規模が小さく被葬者の推測は中々難しいのかもしれませんが、この辺を起点に順番に考えるといろいろ分かってくるのかもしれませんね。
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ヒメタタライスズヒメ(日本書紀)とヒメタタライスケヨリヒメ(古事記) (管理人)
2019-06-04 17:32:09
ヒメタタライスズヒメ(日本書紀)とヒメタタライスケヨリヒメ(古事記)の異同ですが、銅鐸破砕の記憶が記紀編纂時にあって、ボカシの可能性が考えられなくもないと思います。記紀はただ記録を引き写しただけで、もっと昔にボカしたかもしれませんが。

何度も主張していますから繰り返しはしませんが、筆者はイスズは神鈴で銅鐸(銅鈴)と見ています。古事記がイスケとしているのは不審で、イスケなるものに心あたりがありませんから、ちょっと言葉を変えてみせた可能性がありそうです。日本書紀にヨリ=依りが落ちているのも玉依りは勾玉祭祀と関連して問題ないとして、イスズ依り=銅鐸祭祀をやっていたことがバレると不味いのでヨリを落としてボカしたように見えます。

筆者は銅鐸破砕を必ずしも王朝交代・民族交代と見ていません。新しい宗教の到来と共に王朝交代などなくても前代の祭祀を破壊した歴史的事実は存在します。元より「銅鐸」はご先祖様が眠る墓ではないのですから、新しい宗教をやるのに邪魔になって破壊は特に不思議ではなさそうです。蘇我稲目と物部尾輿による崇仏争論で寺社の焼き討ちがあったとして、王朝(皇室)が交代したという訳ではありません。

いずれにせよ、いつ頃からか、神鈴は不味いということになって、五十鈴にしたり、銅鐸ってことにしたり、いろいろ細工した可能性はあると思います。まぁよく変わらなくなってからの当て字・勘違い・誤解かもしれませんが、その詳細についてもはや知る由もありません。ただイスズは神鈴で、銅鐸は銅鈴であり、畿内文化の最たるものだったろうと思いますし、記録がないから忘れていただけで、大きく断絶していた訳でもなさそうです。結局、考古学の成果を踏まえて大和朝廷の強さを考える時、それ以前の銅鐸祭祀の畿内文化と大和朝廷の断絶を見ては間違えると思います。神武東征でたどりついた神武天皇の一族は大和の勢力と何らかの形で共存して、何時のころからか本体になったんじゃないでしょうか。そもそもその大和の勢力も九州由来に過ぎず、時期の新しい古いがあるだけとも思いますが。
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