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日本の100名城!~甲信越1~

2011年08月02日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回からは、甲信越地方(24番~26番)です。

 

24番 躑躅ヶ崎館(武田氏館・武田神社)

 

 躑躅ヶ崎館

 

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、

山梨県甲府市古府中にあった戦国期の居館です。

甲斐国守護武田氏の居館で、

戦国大名武田氏の領国経営における中心地となりました。

 

現在、跡地には武田神社があり、

また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、

県内では甲州市の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡です。

 

戦国時代に築かれた甲州源氏武田氏の本拠地で、

居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。

信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、

後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原形となりました。

 

県中部、甲州盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置します。

東西を藤川と相川に囲まれ、

背に詰城である要害山城を配置した構造になっています。

 

[所在地]

山梨県甲府市古府中町2611

 

[交通アクセス]

鉄道:JR中央本線「甲府」駅北口より北へ一本道2.2㎞。

   バス約8分「武田神社」下車、徒歩すぐ。

 

25番 甲府城

 

 甲府城

 

甲府城は、山梨県甲府市にあった城で、別名、舞鶴城。

 

甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された

中世から近世にかけての平山城です。

甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、

躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町が造成されましたが、

武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、

甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。

豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、

江戸時代では将軍家に最も近い親藩の城となりました。

天守台はありますが天守が建てられていたかは不明です。

浅野長政父子の時代に天守があったとする説があります。

江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、

享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となりました。

 

明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも

甲府は政治的・経済的中心地として機能し、

甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、

内堀が埋め立てられて官業施設化されました。

さらに中央線の開通と甲府駅の開業により城跡は分断されましたが、

戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、

現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り

武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっています。

 

また、出土遺物のうち鯱瓦と飾瓦は県指定文化財になっています。

 

[所在地]

山梨県甲府市丸の内1−5−4

 

[交通アクセス]

鉄道:JR中央本線「甲府」駅南口から徒歩約5分。

 

26番 松代城

 

 松代城

 

松代城は、長野県長野市松代町にある城郭です。

元々は海津城と呼ばれていましたが貝津城とも言われました。

また茅津城とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もあります。

形式は輪郭式の平城です。

 

正確な築城時期は不明です。

戦国期には甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し、

北信豪族を庇護した越後国の上杉謙信との

北信・川中島地域をめぐる川中島合戦へと発展していきました。

千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、

「甲陽軍鑑」によれば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、

武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、

「軍鑑」によれば本城には小山田虎満、

二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたといいます。

 

文書上において海津城の築城は1559年から開始され、翌年には完成しています。

築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郷の国衆が担ったといわれます。

 

海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、

永禄4年9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると

城代の春日虎綱は海津城において篭城し信玄本体の到着を待ち、

9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたとのことです。

 

また、海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、

城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられています。

 

武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となりました。

長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集め彼らを住まわせたのがこの海津城

あるいは海津城下であったといいます。

本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却することを決断し、

海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれました。

以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、

1598年に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、

城主に田丸直昌が任じられました。

 

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つです。

千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、

甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有しました。

平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が

海津城と構造的に非常に似通っているようです。

 

[所在地]

長野県長野市松代町松代44

 

[交通アクセス]

鉄道:JR長野新幹線「長野」駅から川中島バス「松代」行きで約30分、

   「松代」駅下車、徒歩約5分。

   長野電鉄屋代線「屋代」駅から徒歩約5分。

 

毎日暑い日が続いていますが熱中症に気をつけてお出かけ下さい。

そんな時、目的を持って出かけられることは大いなる楽しみになります。

全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。



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