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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―②

2008年04月16日 | 年中行事
2 八朔習俗の研究史
八朔習俗の研究については、正月や盆、他の節供に比べると極めて少ないが、その中でも主要な先学の成果をここで紹介しておきたい。まず八朔習俗の全体像を考察したのは和歌森太郎である。和歌森は「八朔考」(昭和十七年、のち『日本民俗論』千代田書房、一九四七年所収)にて、現代の八朔習俗を中世の諸文献上の八朔にまで遡らせて比較し、それが農村に基盤を持つ武家の主従間の贈答に源を発すると述べている。和歌森は「八朔考」にて、八朔行事は様々であるが、大きく三つの型に分類している。
①虫送り・作頼み
信州天龍峡では当日、村人が「稲虫退散」の旗を持ち大太鼓を叩き乍ら村内をねり歩き、田の畔で「オンカラ虫ヲ送レ」と繰り返しはやしつつ、旗で稲穂を撫でて行き、終って旗を川に投じて帰る。虫送りの日となっている。斯く、旧暦八月一日に稲作の害をはらうという気分は、現行八朔行事にひろく見られる型である。歳時習俗語彙にも、この月には稲作の労働一わたり終って静かに秋収を念ずる季節ゆえ、是に因みある伝承が多い。殊に西日本に多いと示されている。伯耆の農村での八朔の鳥追いも亦同じ意味の行事であろう。九州に多い作の神頼み、作頼みの俗も同じ気分に根ざした八朔の行事らしい。
②馬節供
八朔を馬供節と称したりして、馬や人その他鶴亀などの形のしんこ細工を作り近隣知親に贈る風も多い。初児の祝い事として宅内に飾り立てる。恰も雛や端午の節供の如き催しをなすところが四国、中国地方に多い。
③八朔贈答
八朔といえばただ節日、休息日として何か贈答を交換する。そして頼み、「憑み」の節供となす風である。主従、婚家実家間に殊によく行われ、中元と歳暮と相並ぶ如く、正月の贈答と並んで八朔贈答は重きをおかれるようで、それが行われる間柄の協同扶助の精神を強調するに與つている。
以上の三つの型について和歌森は中世の文献をもとに歴史的秩序付けを試みている。
 なお、八朔に関する研究史は、既に田中宣一『年中行事の研究』(二六頁、桜楓社、一九九二年)にて詳細に紹介されているが、平山敏次郎「八朔習俗」(昭和二四年、のち『歳時習俗考』法政大学出版局、昭和五九年所収)についても紹介し、田中宣一は「行事の沈下・上昇が論じられ、年中行事のみならず、民俗文化の性格を考える上でも大きな問題を提供」していると指摘している。
その田中宣一『年中行事の研究』五五頁では、「八月一日 この日は八朔で、新暦では九月一日に祝われることが多い。八朔には秋の刈入れを前にしての穂掛儀礼などが行なわれ、稲作農業上重要な日であったらしい。かつて農民から身を起こした武士達によってその際行われていた贈答の風が、室町時代に宮中や貴族の行事として取り入れられて定着し、それが再び民間に影響をおよぼしたものであろうと言われている(註 平山敏次郎「八朔習俗」)。そのため、近代の八朔行事の内容には、もともとから農村に伝承されていたと思われるものと、いったん宮廷行事の影響を受けたのちに民間へ下降していったかと思われるものが混在し、各地で多彩なものとなっている。」と述べている。
ただ、八朔の起源が農村の稲作儀礼に由来するといわれるが、いかにして公家や武家社会に導入され、年中行事までなっていったかについては、具体的な説明がなされることはなかった、その点は二木謙一が「足利政権と室町文化―室町幕府八朔をめぐって―」(『国史学』九八号、一九七六年、のち『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、一九八五年所収)にて明らかにしている。すなわち、武家や公家社会への伝播や、後世の八朔を考える時、室町武家、とりわけ足利政権の果たした役割は大きいことを強調している。二木氏は「収穫を前にした予祝儀礼、あるいはユイ(結い)という農村の協同労働組織におけるタノミ(頼み)としての贈答の風が、やがて鎌倉末期から南北朝期における農村出身の地方武士の広域な流動の中に、目上、長上に対するタノミとして八朔憑の贈遺がなされるようになったのであろう。鎌倉幕府ではこれがいまだ儀礼として成立し得なかったが、足利政権の成立とともに儀礼化がなされたのであった。そしてこのことこそが足利武家のはたした大きな役割だったといえよう。この室町幕府による儀礼化があったからこそ、公家社会にも入り、後世、江戸幕府八朔につながるものが育てられた」と述べている。
 また、八朔の馬については、室町期以降における武家社会の太刀、馬贈答が民間へ伝播することによって生まれたと推測している。この点は武家、公家社会からの「下降」と考えている。(この点については田中久夫氏も讃岐の馬の贈答習俗は馬を贈答品として贈ることが最大の好意のあらわれであるという考え方が流布したときに、それを受け入れたものではないかと指摘している。)
 この二木氏の考察を出発点として、近年、中世史では八朔に関する論考が数点提出されている。本郷恵子氏が「八朔の経済効果」(『日本歴史』六三〇号)、山田邦明「鎌倉府の八朔」(『日本歴史』六三〇号、二〇〇〇年)である。二木氏は、公式儀礼としての江戸幕府の八朔儀礼は、徳川家康が室町幕府や公家社会の伝統を取り入れたものであると指摘したが、山田氏は室町時代には、関東の鎌倉府から古河公方や北条氏へと八朔儀礼が継承されていることを明らかにし、家康は単に室町幕府や公家社会から受け入れたのではなく、関東を支配する大名であったことから、その時に既に受け入れていた可能性を指摘している。
さて、年中行事の中での八朔の位置づけについては、田中久夫氏「八朔考―年中行事に占める位置について―」(『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』昭和五一年、のち『祖先祭祀の研究』弘文堂、一九七八年所収)に詳しい。田中久夫氏は、中世の文献史料と民俗事例を比較し、中世貴族の「憑」には農作を祈るという側面がない点が農村の「憑」とは内容が大きく異なっており、結局、中世の「憑」は農村の八月一日頃に行われていた「作神祭」の供物の贈答が、儀礼化、形式化したものであると結論づけている。そして、八朔の問題点として、近畿地方一帯では八朔習俗は少なく、憑の贈答も行われていないが、和歌森の言うように八朔の原型が苅穂、苅初めの祝日で、穂出し祈願であるとすれば近畿からそれが抜け出しているのは不思議だとし、しかも稲の苅初めは月でいえば旧暦の九月に入ってからと思われ、八月一日では時期的に少し早すぎ、穂掛は八朔行事の本来的なものとしては除外してもよいのではないかと指摘している。そして穂掛けではなく、鳥取の鳥追い等の事例をもとに、本来は穂出しを促進する行法ではなかったかと述べている。
また、田中久夫氏は八朔と盆行事との関係を考察し、八朔が「稲の祭り」としてかつて重要な位置を占めていたとうかがわれるが「仮に、盂蘭盆、先祖まつり、先祖の田廻りが日本で発生し、固有のものであるとするとき、私たちは、なぜ我々の祖先が旧暦の七月十五日という時期を選んだのか、これを考える必要があろう。稲作の作業過程にあっても、草取は旧暦七月の上旬に終り、今しばらくは水の心配をするだけであった。何も手のかかる仕事がない。このようなときに神祭りをおこなう必要があったのであろうか。むしろ稲の祭りからいえば、稲の穂が出るとき、そのときこそ、収穫のために田の神を祭祀し、出穂の祈願をする必要があった。「稲の穂がよく出るように」、「そのとき風が吹かないように」、これが農民の最大の願いであった。あとは祈ることのみが残されている。」とし、十五日程前にあたる盂蘭盆が中世以来、農民の間に定着していき、稲作の仕事も一段落ついたこともあり、八朔と状況があまりかわらぬという理由もあって、人々は盂蘭盆に次第に関心を集め、八朔の行事を行わぬようになり、また盆行事に稲の祭りが見られる理由もそこにあると指摘している。八朔の行事が中世以来だんだんと旧暦七月十五日の盂蘭盆会にひっぱられたものの、農作業にあっては重要な祭りの日であるという感覚は失われずに残り、この日に餅を搗くなどしている。
 以上のように、八朔行事に関しては、中世の武家・公家社会への浸透、定着にともなう民俗の上昇・下降という議論が、歴史学での研究が進展したこともあり、再度行う必要性があると思われる。また、田中久夫氏が指摘する八朔と盆との関係についても議論を深めていく必要があろうし、その他の年中行事との関係についても考察しなければいけない。八朔についての研究はまだまだ課題は多い。