愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「マスメディア時代」終焉-アナログ放送の停波-

2011年07月25日 | 日々雑記
昨日2011年7月24日でテレビのアナログ放送が停波した。停波後一日目。今日に限って朝からテレビを見ないことにした。自宅には地デジ対応のテレビが一台あるが、あえて見るべきではない、そんな日なのかなと思った。というのも、テレビのアナログ放送は昭和30年代に普及し、いわば日本の高度経済成長とともに歩んできた歴史があり、それが停波するということは、高度経済成長以降の一つの時代の終焉を意味している。そんな大きな時代の変わり目を、心静かに落ち着いて味わうためには、地デジ放送は今日に限っては見ない方がいいと考えたのである。実際、テレビがなくても生活の上で極端に支障があるわけではない。我が家の場合、これまでもチャンネル争いで負けた娘はワンセグで見るなり、ビデオに録画するなりしているし、また、テレビはつけたままでリビングの机の上ではノートパソコンを広げてネットを見ることも多い。主役は自在に自分の得たい情報を得る事のできるパソコン・ネットであり、つけっぱなしのテレビ番組で面白いシーンがあれば顔をテレビに向ける、という感じである。地デジになってデータ放送が見られるようになったが、ここでの情報はネットですぐに得られるし、しかもデータ放送よりはるかに詳しい。私個人の場合、普段見ているテレビ番組はニュース、スポーツであり、基本的にドラマはリアルタイムでは見ない。気が向いたらお笑い番組は見る。特にBS放送にいたっては地震、台風などの非常時を除けば、通常はほとんど見ない。BS-TBSの吉田類「酒場放浪記」、BSフジのプライムニュースくらいなものである。今日、アナログ停波後の一日目の感想だが、正直、テレビはなくても不自由はない。不自由を感じるのは、先日の「なでしこジャパン」の生中継など、リアルタイムでライブ中継されてしかもきれいな映像で見ることのできるコンテンツくらいではないか。あとは、パソコン、スマートフォン上で見るネットで十分のような気がする。テレビのようなマスメディアは、これからの時代、どれだけの需要があるのだろうかと、ふと思ってしまう。経済活動がまわるために広告費、制作費をとり、それで番組を制作し、流し、そして家庭ではつけっぱなしのテレビから流れてくるものを享受する。そんな流れは今後も続くとは思えない。テレビを囲む「団欒」ライフスタイルというのも、いわば高度経済成長期以降のものであり、そのスタイルは既に自明のものではない。テレビの天気予報でも全国の予報はマスを前提としたものであり、ネットでの天気情報の方が細かくて信頼ができる。これからマスメディア、マスコミの需要がゼロになることはないが、今年あたりを境に徐々にミニメディア、ミニコミ(用語が適当でないかもしれないが)もしくはローカルメディアに移行していき、しかもそれがテレビのような一方向の情報の流れではなく、ソーシャルメディアのような双方向、多方向の情報の流れになっていくのだろう。マスコミの主体は、情報を流す側(テレビ局等)だが、ソーシャルメディア時代になると、各自が情報を流すことになるので、それぞれが主体者になる。私が住んでいる愛媛県南予地方にはネット上で宇和島本舗、八幡浜本舗、大洲本舗、西予本舗があり、その地域のブログの更新情報が逐一確認できるようになっているが、ブログ等の情報発信者がこの地域だけで1000人~2000人を越え、それぞれがfacebookやtwitterで繋がれば、これこそ新時代の大きなメディアの形となり、社会のコミュニケーションの基盤となる。そのような状況はもう目の前に来ていると、日々の暮らしの中のいろんな場面で感じている。マスコミを経由しない情報によるコミュニケーションが増えてきているのは確実である。ともかく、昭和30年代以降続いてきた「テレビの時代」は昨日が一つの区切りとなって、新時代に入ったといえるのではないか。いずれテレビ自体もスマートテレビとなって、持ち歩きもできる大きなiPadのような存在になるのかもしれない。






この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 香川元太郎さんの最新刊『宇... | TOP | しまなみ海道太鼓 »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 日々雑記