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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

ヘンドの宗教性

2001年04月01日 | 信仰・宗教
石川藤晴氏著『旧聞百話-新宮村で聞いた話-』の中に、次のような話が紹介されている。
「遍途祈祷:難病にかかり治療費の工面がつかぬ家に、極く稀にではあるが、へんど祈祷をした。の人が一日遍途になり、二人一組で手分けして近在を廻り、事情を話して喜捨を頼み、喜捨を受けた家には数本の線香を納めた。」
興味深い事例なので、私は先日、宇摩郡新宮村に行ったときに、この習俗について何人かの古老に話を聞いてみた。しかし、残念ながら結局確認できなかった。かなり昔の習俗だったのだろうか。
この事例は、近所の者が遍路となって、近在を廻ることに注目しておきたい。通常、遍路であれば、札所に参詣・巡拝するものである。新宮村の近くには三角寺などの札所があり、そこに祈願に行くことも可能である。そうするのではなく、近在の家々を門付けするように廻ることで祈願を成就しようとすることに、遍路のもう一つの本質が見えるような気がする。札所を廻ることによる修行ではなく、家々を廻ることによる修行である。
四国では、かつて、遍路の格好をしていても、札所を巡拝することを目的とせず、家々を廻り、一種物乞い的な行為を主とする者がいた。これを四国の人は「ヘンド」と呼んでおり、物乞いの別称でもあった。「ヘンド」は「お遍路さん」と比べて願かけをして巡拝しているとは見なされず、宗教性は薄いと認識されがちである。
ところが、新宮村の事例では、近所の者が「お遍路さん」ではなく「ヘンド」と称して祈願するのである。「ヘンド」が単なる物乞いではなく、宗教性を付帯していることを示唆してくれるのである。私は、この事例は、乞食(こつじき)の原初性をも垣間見ることができるのではないかと期待している。何とか追跡調査をしてみたいと考えている。

2001年04月01日

迷信が崩れる時

2001年04月01日 | 口頭伝承
明治44年7月24日付けの伊豫日日新聞に、愛媛県下最大級の洞穴である羅漢穴(現東宇和郡野村町小屋大久保)に関する記事が掲載されている。この羅漢穴は慶応2(1866)年刊行の半井悟庵著『愛媛面影』にも紹介されており、江戸時代から著名な洞穴であった。居並ぶ鍾乳石が五百羅漢のように見えるため、この名がついたといわれるが、新聞記事によると、かつては、小屋の里人はこの洞穴には近づかなかったようである。記事の内容は次の通りである。「羅漢穴の奇談:里人は、古来此洞孔に入れば神の祟りありと言つて入孔を喜ばず、若し入れば忽ち暴風起り農作物に被害を与へるものと迷信して、毎年四月より十月までの期間に、此洞孔に案内したものは五円の罰金に処するとの規約を結び、質朴なる里人は堅く守つてきた」
ところが、大野ヶ原にて行われた軍事演習の際に、兵士が面白がって羅漢穴に入ってしまったらしく、里人は、主作物である玉蜀黍は暴風でできなくなると怖れて困ってしまった。しかし、結局、作物は無事収穫できて、被害(祟り)はなかったという。そして、それ以降は、何時行っても、里人は羅漢穴を案内してくれるようになったということである。
この事例は、明治時代に流入した近代合理主義的な思想が四国の山奥にも入り込み、一つの迷信を崩した例と言えるだろう。その迷信を崩したのが兵士という「国家」を前提とした存在であったことが面白い。合理主義的思想を持ち込んだのが「国家」であり、その「国家」性を背負う者が「ムラ」に入り込んだ時に、その土地独特の迷信なり、習俗なりを崩壊させた、もしくは崩壊させる契機となったのである。

2001年04月01日