Eさん、ご結婚おめでとうございます。そしてご両家のご両親様をはじめご親族の皆様方に心よりお祝いを申し上げます。
さて、このようなおめでたいお席で、私如きがEさんの日頃の仕事振りについて褒め称えたところで、お聞きになられる皆様は、お決まりの世辞がまた始まったと思われることでしょう。たまには、こういう場での祝辞に、本音を語る祝辞があってもよいのではないかと、きょうはそう思っています。
Eさんは私の職場の正職員で「生活支援員」として、4年前に採用されました。
Eさんの第一印象としては、見るからに品が良さそうで、こういう知的制約者の職場には不向きではないかと思いました。きっと「きつい、きたない、給料が安い」を代表とする3Kの職場に彼女は勤まらないのではないかという不安を少なからず持ったからです。
皆さんはご存知かどうか分かりませんが、知的制約者の通う私どもの職場は、20人の定員施設と15名のパンの製造工場とお店、そして関連事業として、障害児の放課後をお預かりうする事業で20名のお子様をお預かりしていますが、その半数は最重度、あるいは重度の方々で、身辺自立はもとより、全部誰かのお世話にならないと過ごせないばかりか、言葉も話すことができない方々が大半です。よだれやおしっこもたらします。ご飯もこぼします。中には自分の体を傷つけるような行動をとる方や、物事にこだわってパニックを起こす方もあります。ウンチやおしっこをしても、自分から訴えることができず、皆職員の手に委ねなければ生きていけない方が多いのです。
そういう職場に、掃き溜めに鶴のようなEさんが、職員として我慢して働けるとは思えませんでした。そういう意味では今までの6年間で何人もの職員が去って行きました。それくらい根気と体力と健康、福祉への理解、そして何よりも障害者福祉への情熱がなければ勤まらないからです。
Eさんは社会福祉事業大学という福祉の名門大学を卒業され、国家資格である社会福祉士でもありますし、私どもの初代理事長の後輩でもあります。
私は彼女が職場の中でどの程度の力を発揮するのかを、この目で見極めようと思っていましたし、またどのように育てたら良いのか戸惑っていました。
彼女は内向的で、指示されたことはきちんとできるようでしたが、自分から何かを企画したり、提案したり、進んで行なうといったタイプではありませんでした。
彼女の仕事は児童の短期入所事業で、いわゆる「学童保育」という放課後に障害児童を学校から迎えて楽しく過ごさせるための仕事で、夕方には家庭まで送るという仕事でした。そういう彼女でしたが、子どもは大好きなようで、子ども達からも大変に好かれて「EさんEさん」と慕われていたようです。Eさんは華奢な体を子ども達の前で存分に使って、大変だろうなという場面も辛抱して堪えてくれているのが次第に分かりました。
私としては、彼女に社会福祉士の資格を活かして5年後には、相談員としての専門機能が発揮できるように希望していましたので、社会福祉士会や発達相談研究会、そして自閉症研究会への入会を勧めました。しかし、彼女はまじめにそれらに参加しても、中々職場で活かされているのが目には見えませんでした。結果、いまだに相談事業は私どもの施設には根付いていません。
私は職員と毎年暮れに個別面接を行なって、希望の確認や本人の課題を話し合う機会を持っています。
その場面で彼女は涙を流しながら、「私は施設長が期待するような人間でなく、荷が重過ぎるので、社会福祉士の看板を下ろしたい。ついては臨時職員として働いた方がどれくらい楽か分からないので、正職員から降格してくれませんか」と訴えられました。
私はその時「社会福祉士としてのあなたを必要としたのであって、臨時職員としてのあなたを採用したわけではない。あなたを採用するために、何人もの希望者が不合格になったこともよく考えなさい。専門性を投げるような職員ならばこの職場には不要である。せっかく苦労して手にした専門の資格を、どのような形で困っている方々のために使えばよいのかをよく考えるように」と言い渡したことがありました。
それから2年が経ちました。彼女は少しずつですが以前のような内向性が影をひそめ、一皮むけて積極的に動くいきいきとした姿がそこにありました。
そんな矢先に突然前触れもなく、彼女から今回の結婚退職の話が切り出されたのでした。
「あの、施設長、私このたび結婚することになりました。」「うん?結婚??おめでとう。初耳だなあ。で、どこの人?」「横浜です」「横浜って、あの下北の横浜町?」「いいえ、神奈川県の方です」「あらー、そっちの横浜…」こうして、彼女の退職が決まりました。せっかく成長して着た彼女。さあこれからという時に、正直大変残念でなりません。こういう場面を、世の父親達はずっと繰り返し耐えて来たのだろうかとそう思いました。「とんびに油揚げをさらわれるとはこのことかもしれません。
4年間の彼女の仕事が多くの制約者の家族の心にも大切な存在だったという思いが募り、感謝の気持ちと彼女の退職を惜しまれる声がたくさん彼女にも届いていたようです。
彼女が送別会の場で「4年間のあうんの生活は大学を卒業したような気持ちです」と言われました。そしてこれからご結婚されるあなたは、ご主人とともに人生の夫婦生活を初めとする「家族福祉」をテーマにした、長い年月をかけての「人生大学院へ」ご入学となるのだと思います。どうかこれからも末永く温かなご家庭をご主人と手を携えて築かれ、お幸せになられますことを、心よりお祈り申し上げ、粗辞ではございますが、お祝いの言葉とさせていただきます。
本日はご結婚誠におめでとうございました。
一句 「嫁ぎ行く天塩にかけし娘こそ新たな土地に根付け花咲け」
さて、このようなおめでたいお席で、私如きがEさんの日頃の仕事振りについて褒め称えたところで、お聞きになられる皆様は、お決まりの世辞がまた始まったと思われることでしょう。たまには、こういう場での祝辞に、本音を語る祝辞があってもよいのではないかと、きょうはそう思っています。
Eさんは私の職場の正職員で「生活支援員」として、4年前に採用されました。
Eさんの第一印象としては、見るからに品が良さそうで、こういう知的制約者の職場には不向きではないかと思いました。きっと「きつい、きたない、給料が安い」を代表とする3Kの職場に彼女は勤まらないのではないかという不安を少なからず持ったからです。
皆さんはご存知かどうか分かりませんが、知的制約者の通う私どもの職場は、20人の定員施設と15名のパンの製造工場とお店、そして関連事業として、障害児の放課後をお預かりうする事業で20名のお子様をお預かりしていますが、その半数は最重度、あるいは重度の方々で、身辺自立はもとより、全部誰かのお世話にならないと過ごせないばかりか、言葉も話すことができない方々が大半です。よだれやおしっこもたらします。ご飯もこぼします。中には自分の体を傷つけるような行動をとる方や、物事にこだわってパニックを起こす方もあります。ウンチやおしっこをしても、自分から訴えることができず、皆職員の手に委ねなければ生きていけない方が多いのです。
そういう職場に、掃き溜めに鶴のようなEさんが、職員として我慢して働けるとは思えませんでした。そういう意味では今までの6年間で何人もの職員が去って行きました。それくらい根気と体力と健康、福祉への理解、そして何よりも障害者福祉への情熱がなければ勤まらないからです。
Eさんは社会福祉事業大学という福祉の名門大学を卒業され、国家資格である社会福祉士でもありますし、私どもの初代理事長の後輩でもあります。
私は彼女が職場の中でどの程度の力を発揮するのかを、この目で見極めようと思っていましたし、またどのように育てたら良いのか戸惑っていました。
彼女は内向的で、指示されたことはきちんとできるようでしたが、自分から何かを企画したり、提案したり、進んで行なうといったタイプではありませんでした。
彼女の仕事は児童の短期入所事業で、いわゆる「学童保育」という放課後に障害児童を学校から迎えて楽しく過ごさせるための仕事で、夕方には家庭まで送るという仕事でした。そういう彼女でしたが、子どもは大好きなようで、子ども達からも大変に好かれて「EさんEさん」と慕われていたようです。Eさんは華奢な体を子ども達の前で存分に使って、大変だろうなという場面も辛抱して堪えてくれているのが次第に分かりました。
私としては、彼女に社会福祉士の資格を活かして5年後には、相談員としての専門機能が発揮できるように希望していましたので、社会福祉士会や発達相談研究会、そして自閉症研究会への入会を勧めました。しかし、彼女はまじめにそれらに参加しても、中々職場で活かされているのが目には見えませんでした。結果、いまだに相談事業は私どもの施設には根付いていません。
私は職員と毎年暮れに個別面接を行なって、希望の確認や本人の課題を話し合う機会を持っています。
その場面で彼女は涙を流しながら、「私は施設長が期待するような人間でなく、荷が重過ぎるので、社会福祉士の看板を下ろしたい。ついては臨時職員として働いた方がどれくらい楽か分からないので、正職員から降格してくれませんか」と訴えられました。
私はその時「社会福祉士としてのあなたを必要としたのであって、臨時職員としてのあなたを採用したわけではない。あなたを採用するために、何人もの希望者が不合格になったこともよく考えなさい。専門性を投げるような職員ならばこの職場には不要である。せっかく苦労して手にした専門の資格を、どのような形で困っている方々のために使えばよいのかをよく考えるように」と言い渡したことがありました。
それから2年が経ちました。彼女は少しずつですが以前のような内向性が影をひそめ、一皮むけて積極的に動くいきいきとした姿がそこにありました。
そんな矢先に突然前触れもなく、彼女から今回の結婚退職の話が切り出されたのでした。
「あの、施設長、私このたび結婚することになりました。」「うん?結婚??おめでとう。初耳だなあ。で、どこの人?」「横浜です」「横浜って、あの下北の横浜町?」「いいえ、神奈川県の方です」「あらー、そっちの横浜…」こうして、彼女の退職が決まりました。せっかく成長して着た彼女。さあこれからという時に、正直大変残念でなりません。こういう場面を、世の父親達はずっと繰り返し耐えて来たのだろうかとそう思いました。「とんびに油揚げをさらわれるとはこのことかもしれません。
4年間の彼女の仕事が多くの制約者の家族の心にも大切な存在だったという思いが募り、感謝の気持ちと彼女の退職を惜しまれる声がたくさん彼女にも届いていたようです。
彼女が送別会の場で「4年間のあうんの生活は大学を卒業したような気持ちです」と言われました。そしてこれからご結婚されるあなたは、ご主人とともに人生の夫婦生活を初めとする「家族福祉」をテーマにした、長い年月をかけての「人生大学院へ」ご入学となるのだと思います。どうかこれからも末永く温かなご家庭をご主人と手を携えて築かれ、お幸せになられますことを、心よりお祈り申し上げ、粗辞ではございますが、お祝いの言葉とさせていただきます。
本日はご結婚誠におめでとうございました。
一句 「嫁ぎ行く天塩にかけし娘こそ新たな土地に根付け花咲け」