夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

星野道夫・永遠のまなざし

2007-03-04 22:50:25 | 私の本棚
 星野道夫・永遠のまなざし

 山と渓谷社刊 小阪 洋右・大山 卓悠著

 星野道夫さんが亡くなり、それは彼が大好きだったグリズリーに食い殺されての死だった。彼の著作「最後の楽園」の中に彼は「もし熊が存在しないのなら、ぼくはこの土地に来ないだろう。例えそれが点のように離れていても、一頭の熊は、その広大な原野の風景をひきしめる。」と書いている。
 彼はロシア・カムチャッカ半島の南端のグラッシー・ケープ(草の茂った岬)という所で、テントに寝ていて朝方4時グリズリーに襲われた。そばには小屋があり、小屋の中にはTBSクルーと、ロシア人が寝ていて無事だった。星野さんはその小屋のそばのテントで寝ていて襲われたのだ。アラスカのグリズリー(ヒグマ)の生態を学び、熟知していたはずの彼が何故、熊に襲われて死んだのか?その疑問をこの著者二人は調査し、解説している。
 結論から言えば、ロシアの経済危機が生んだ商売上の野生を破壊した行為。つまり、ヒグマに餌付けして、観光に利用しようとした人物がいて、それに味を占めたヒグマが襲ったことになる。
 彼は死んだが、彼の生きかたや人となりを、二人の友人はこの書物で明らかにしていく。
 「もしもアラスカ中に熊が一頭もいなかったら、ぼくは安心して山を登ることができる。何の心配もなく野営できる。でもそうなったら、アラスカは何てつまらないところになるだろう。(略)」と彼は書いている。
 44歳という若さで急逝した冒険家であり、写真家、そしてエッセイストである彼は、アラスカを愛し、アメリカインディアンを、イヌイット(エスキモー)を愛した。そしてその伝説を求めた旅でもあったのではないか。
 ユダヤ人のマルティンブーマーが「「運命と自由とは互いに誓約を交し合っている。運命に出会うのは、ただ自由を実現できる人間だけである」と。
 星野とは違って、しがらみから抜け出せないでいる私には、自由を獲得することができないまっまに現在を生きているのだとそう思った。
 

「星野道夫・永遠のまなざし」

2007-03-04 08:44:52 | 私の本棚
 昨日は弘前市内に最近できた東京書店」というとてつもなく広い売り場面積と書籍を販売している書店に半日近く、はらぺこの熊のように店内をうろついていた。
 そして、探していたのは「星野道夫」という10年前にカムチャッカ半島の先端でグリズリーという熊に殺されて亡くなった44歳の写真家・エッセイスト(「ガイアシンフォニー」・地球交響曲にも出演した)の書籍を読みたくなったのが動機だった。
 私と同じ1952年に千葉県市川市で生まれ、慶応大学を卒業、妻と子(3人)を残して、他界した。
 何度か彼の描いたエッセーを読んだことがあるが、その言葉はどれも自然の中の孤独を生きているからこそ生まれてくる透明な風や川の音がしていた。そして写真の中の彼は、本当に優しい表情で焚き火を囲み、本を読んでいた。テレビでもNHKの彼の追悼番組だったかを見たが、本当に彼はアラスカの大地を愛し、そこで暮らす動物達を美しく被写体として捉えていたし、優しい語り口にはなんのてらいも感じられなかった。
 地球環境が日増しに悪化している中で、もう一度私達は文化を見直す必要が来ているのかも知れないと思った。それはまず心の豊かさにとって必要な気がした。あの5歳のころ歩いた田舎道の真っ暗な中に感じられる恐怖感、そして木の枝葉がこすれる音や、ふくろうがはばたく時の羽根の音など、静けさがなければ感じられない世界なのだ。
 安全を確保するためには、五感を組織しなければならないのがあたり前の世界を、私達はどこかに置き忘れてきたのではなかったのか。
 なんでも金でそろえられると感じている社会は、どこかおかしさで埋め尽くされているのではないだろうか。しばらくは彼の世界を旅しながら、豊かな自然のドラマを感じてみたいと思った。
 

福祉の周辺 その1 措置から支援費制度へ

2007-03-04 07:04:19 | 福祉について
 平成15(2003)年、障害者福祉も「措置=行政処分」から「支援費制度=契約制度」に変化した。つまり、措置は行政側から言えば、社会福祉事業の執行者であり、入所や退所等を管理・決定する執行機関の権限なのだ。
 あの施設に入所したいと希望しても、決めるのはあくまでも措置権者側にあった。この時代は社会福祉事業を行なっている事業者側も、親方日の丸という言葉がまさに相応しく、安かろう悪かろうがまかり通った。福祉の基準は日本国憲法の第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。…」に現されるように、「最低限度」という水準は「生活保護」の基準に照らせば、良く分かる基準かもしれない。公平なようでいて実は非常に窮屈な環境なのだ。選ぶことができないとかを初め、サービスの利用者にその苦情や不満を抑圧してきた歴史でもある。よく言われる「入所者人質論」という意識だろう。保護者側が苦情や抗議をすれば、そのしっぺ返しとして、サービス利用者にその余波が起きることを恐れるのだ。まして重度障害者の場合、少し苦情をいえば「退所」をちらつかせられることもしばしばあったことでもある。
 そして2003年、それまで私達の社会福祉法人は、理事者が最低6名でOKだったにもかかわらず、13名も配置していた。この支援費制度で社会福祉は大きく変わったといえるだろう。「措置」から「契約制度」に変わり、施設サービスは「処遇」ではなく「支援」という購入対価に変わった。無料だった福祉サービスが「応能負担=サービス利用者の収入に合わせた利用料制度」に変わった。事業者側はサービス利用者に、利用に関する重要事項を事前説明して、承諾していただいた後で契約に至るのだ。そして、施設運営は
その設置者である「社会福祉法人・理事会」にその理事の人数以上の「評議員」を配置することを規定した。つまり理事者の暴走をチェックする機関である。理事会が衆議院だとすれば評議員会は参議院のようなものだ。このことで、私達は13名の理事者が居るために、14名以上の評議員を置かなければならなくなった。たった20名の最小施設なのだから、何故そんな人数配置をしたかといえば、施設を1億円で建設したので、補助金+最初に準備したお金を除くその借金(約3000万円+利子)を20年がかりで返還しなければならないからだ。
 理事者一人に年間12万円を承諾していただき、13人分をその償還財源としたのだった。年間に社会福祉医療事業団(現独立行政法人福祉医療機構)平均的には200万円を返すのは並大抵のことではなかった。私達のような考え方の社会福祉法人は稀で、殆どは名義貸しの状態である。社会福祉法人の役員をしているという「名誉職」が殆どだろう。財産家がいてその人が理事長になり、一手に借金を返していく。その見返りは身内のものが園長、事務長、生活指導員などの職員になってその給与を償還金にしていくのだ。私が知っている施設では園長の奥さんが出勤していないのにもかかわらず、出勤簿に印鑑が毎日押されて、県の指導監査の時だけ出勤して白衣を着ているという姿があった。業者も正規の価格の上乗せをして、その一部をキックバックをするという方法で、償還金に当てられるのだ。最も大きなキックバックは、建設費だろう。3割以上がキックバックされるように価格設定され、それこそ談合で入札が行なわれていくのだ。私達の法人はその誘惑を廃して、新しい社会福祉法人を目指したのだった。私達の望むのは、より良い材質の建築材をふんだんに使った温かな配慮の行き渡った施設であり、それが出来上がったことが誇りなのだ。
 しかし、今思えば私達のような小市民が、こうした社会福祉法人を建設・運営すること自体が現状の仕組みの中では、まさに無謀なことだったのかも知れない。