「人間らしさの構造」上智大学教授 渡辺 昇一教授
「まず自分の『内なる声』に耳を傾けることである。自分の心の一番奥から、かすかに、聞こえるか聞こえないかの低い声でささやきかけるものは、どんぐりの発芽力とおなじもので、善きものだとして受け取らなければならない。
ところが、人間の内なる声は、動物の本能のように強くない。かなり微弱なものであると言ってもよさそうである。本当に自分は何を欲しているのか、何を嫌っているのかについて、静かに内なる声に耳を傾けることは、けっしてやさしいことではない。文化のパターン、社会の慣習、個人的習慣などによって、この弱くてデリケートな内なる声は簡単に押さえ込まれてしまうからである。
この内なる声は、意識的に作り出すものではなく、むしろ虚心になって、心の奥の奥、底の底のほうから聞こえてくるものであって、それに耳を澄ますものである。この意味ではまったく受身的な行為である。こうして虚心に、謙虚に、まったく受身的になるということは、簡単なようなことでそれは稀なことなのだ。」
(「生きがいのマネジメント」飯田史彦」「現実と心理の本質」から)
私が小学校2年生までの不登校(当時はそういう言葉は存在しなかったが)の時代に、マタギの家に出入りしその家族とともにあった時、そして奥山の生活が続いた時には、確かに私の内側には動物的な本能に近い直観力?が潜んでいて、危険からいつも守ってくれた気がしている。それが町場に強制連行されてから、弱まったのではないかと思うような飢餓感があったのである。
自分の内側に耳を澄ませること。それを忠実に日々行なっている人が私の身近に居た。釧路のパーカッション奏者「奈良 裕之さん」だ。かれは毎朝、毎夕、必ず一人で2時間近くも、瞑想の時間を持っている。私だったら眠ってしまうかもしれないが。それはまた、内なる声という自分を感じる時なのではないだろうか。
各自が神様(ゼロ)とつながっていれば(自分なりの信仰心をもっていれば)よいのだから、その問題で他者と争う必要はない…。(新妻香織)
この表現を聞いたとき、私は今新たに宗教的な何かの行為を格別しなくても、内なる声に耳を傾けながら生きることをこれまでもして来たように、これからも行なっていけばよいのだと実感していました。
「まず自分の『内なる声』に耳を傾けることである。自分の心の一番奥から、かすかに、聞こえるか聞こえないかの低い声でささやきかけるものは、どんぐりの発芽力とおなじもので、善きものだとして受け取らなければならない。
ところが、人間の内なる声は、動物の本能のように強くない。かなり微弱なものであると言ってもよさそうである。本当に自分は何を欲しているのか、何を嫌っているのかについて、静かに内なる声に耳を傾けることは、けっしてやさしいことではない。文化のパターン、社会の慣習、個人的習慣などによって、この弱くてデリケートな内なる声は簡単に押さえ込まれてしまうからである。
この内なる声は、意識的に作り出すものではなく、むしろ虚心になって、心の奥の奥、底の底のほうから聞こえてくるものであって、それに耳を澄ますものである。この意味ではまったく受身的な行為である。こうして虚心に、謙虚に、まったく受身的になるということは、簡単なようなことでそれは稀なことなのだ。」
(「生きがいのマネジメント」飯田史彦」「現実と心理の本質」から)
私が小学校2年生までの不登校(当時はそういう言葉は存在しなかったが)の時代に、マタギの家に出入りしその家族とともにあった時、そして奥山の生活が続いた時には、確かに私の内側には動物的な本能に近い直観力?が潜んでいて、危険からいつも守ってくれた気がしている。それが町場に強制連行されてから、弱まったのではないかと思うような飢餓感があったのである。
自分の内側に耳を澄ませること。それを忠実に日々行なっている人が私の身近に居た。釧路のパーカッション奏者「奈良 裕之さん」だ。かれは毎朝、毎夕、必ず一人で2時間近くも、瞑想の時間を持っている。私だったら眠ってしまうかもしれないが。それはまた、内なる声という自分を感じる時なのではないだろうか。
各自が神様(ゼロ)とつながっていれば(自分なりの信仰心をもっていれば)よいのだから、その問題で他者と争う必要はない…。(新妻香織)
この表現を聞いたとき、私は今新たに宗教的な何かの行為を格別しなくても、内なる声に耳を傾けながら生きることをこれまでもして来たように、これからも行なっていけばよいのだと実感していました。