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ミャンマー、この親日なる国

2008-08-12 21:06:00 | 歴史・人物
以前、ミャンマーについての記事を書いたが、そこではこの国の親日っぷりについて断片的にしか書けなかった。
そこで、今回はミャンマーが如何に親日的な国であるかについて述べたいと思う。

×××

かつて、ミャンマー大使を務めたこともある山口洋一氏はかねてより「世界に特筆すべき親日国が二つある。トルコとミャンマーだ」という話を聞いていたという。
氏は実際にミャンマーに赴任してそのことを肌を持って感じることになる。
まづ、大使館公邸に到着したとき、正門に配備されていた守衛の出迎えの挨拶が旧帝国陸軍式の敬礼だったことに驚く。
そして、夕方ともなれば国営テレビから軍艦マーチや海ゆかばが流れる。
前にも書いたが「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」「愛馬行進曲」「歩兵の本領」などはミャンマー国軍の軍歌として歌われている。
これらはビルマ語に歌詞を変えられ、多くの国民から愛唱されている。

また、街を行く車は圧倒的に日本から輸入された中古車が多く、「坂田酒店」とか「ひとめぼれ・寿屋」などと書かれていて、
大型バスのドアのところには「ワンマン・入り口」、行き先表示のところには「高浜海水浴場」とあったりする。
ペンキで塗り潰せばいいものを、ペンキ代もないのだろうかと思っていたら、なんとわざとそのままにしていることがわかった。
日本製なら間違いなく品質がよいという高級イメージが定着しているので、正真正銘日本製だよと自慢の種になる日本語表記は誰も抹消せずに大切に残すのだという。

ヤンゴン外語大で教えられている様々な言語のなかで英語についで日本語が学習されている。
また、日常生活では勿論のこと地方を旅している時も自分(山口氏)が日本人だとわかるとたちまち態度を改めて特別の好意を示してくれる云々。

では、日本とミャンマーの関わりはいつ頃から始まったのであろうか。
十六世紀から十七世紀にかけて、豊臣秀吉の朱印船貿易に伴って東南アジアの各地に多くの日本人町が作られたことはよく知られている。
もっとも有名なのはシャム(現在のタイ)の山田長政だろうか。
この日本人町がビルマにもあったことを十七世紀のポルトガル人不況僧、セバスチャン・マンリーケが『東南アジア旅行記』の第一巻『アラカンへの旅』に記している。
マンリーケは1630年、アラカン王国(現在のミャンマーのラカイン州にあたる)を訪問したとき、当時の国王チリッダンマの護衛を勤める日本人のキリシタン武士の一団に出会っている。
この日本人一団の規模については「家族を含む多数の日本人」とあり、アラカンの首都ムラウーには日本人町、ポルトガル人町、英仏蘭雑居の三つの町があると記している。
さらに、マンリーケは日本人は東洋のすべての民族の中で、性質として名誉を最も重んずる民族で、これらの日本人は「国王から信頼されていた」「日本人は美的感覚においても繊細であり、その表現においても優れている」と感嘆している。
つまり、日本とミャンマーの交流は少なくとも十七世紀初めに溯ると考えられる。

ビルマ人が日本に熱い視線を注ぐようになったのは日露戦争以後だ。
当時イギリスの植民地として辛酸を舐めていたビルマ人にとって白人の大国ロシアにアジアの新興国日本が勝利したという事実は青天の霹靂だった。
これはビルマ人に限らない。
当時、アジアの人々は地球上で白人が最も優れており、彼らの植民地支配には抵抗のしようがなく、まして白人国家を敵に回して戦争に挑むなど夢想だにしなかった。
以後、日本留学を志すビルマ人が現れ、その一人、ウ・オッタマ(註)は『中国と日本』という著作を出版している。
『中国と日本』は日本の近代化の過程や仏教事情を含む実情を紹介しつつ、中国との対比において日本がいかに優れた先進的な国であるかを解き明かしている。
植民地統治下のビルマでこういう本が出版されたのは不思議だが1938年に本書が出版される以前からもオッタマの原稿はビルマ人の間で熱心に回し読みされた。
出版以後はより多くのビルマ人が貪り読むことになり、ビルマ人の日本に対する関心や憧憬が一層高まることになる。

それからの歴史的経緯は先の記事に書いた通り。
日本軍から軍事訓練を受けたビルマ人「三十人の志士」は大東亜戦争勃発に伴い、日本軍と共にイギリス軍をビルマから駆逐することに成功。
ビルマの独立を果たすことになる。
この時、ビルマの国家元首となったバー・モウはこの時の感慨を次のように記している。

「百年にわたる外国支配が彼らの目の前でいきなり崩壊していたった。
ビルマ人の精神状態はただただ有頂天の狂乱状態だった。
ビルマ人はまったく興奮していた。
全世界の爆発の中で、ビルマ人たちは、彼らの内部のすべても爆発しているように感じた。
この気分はビルマ軍の出現で最高頂に達した。
最初の軍隊が日本軍の師団と行進して来るのを見た時、人々の思いは、かつて偉大なビルマ帝国を築いた王や征服者や、東のタイ、北西のアッサム、マニブール、北東の雲南に進入し、いつまでも忘れない歴史を残したビルマ軍のはなはだしい過去の時代に引き戻された。(略)
ビルマ軍は彼らにとって、過去の郷愁と未来への夢の象徴であった。それ故、人々は熱狂的にそれを歓迎した。」
(バー・モウ著、横堀洋一訳『ビルマの夜明け』)


百年もの間、イギリスの植民地支配に喘いでいたビルマ人の心情を察することができる。
しかし、独立後のビルマでは日本軍政が敷かれ、その反撥もあってビルマ軍は日本軍に叛旗を翻すことになる。
たしかに日本軍はビルマで随分酷いこともやった。
左翼がよく言うような虐殺をやったわけではないが、占領政策に要する各種施設や物資の徴発で掠奪まがいのことをやったのも事実だ。
また、日本軍憲兵の暴虐な振る舞いはビルマ人を怖れさせた。
たとえば、ビンタ一つにとってもビルマでは首から上の部分に手を下すことは想像を絶する侮辱と受け止められていてこの国の人たちは絶対にしない。
いまでも年配のミャンマー人は「日本の兵隊さんのやったことでビルマの人たちに嫌がられたのは『ぴんた』と立小便でした」と振り返る。
また、日本軍進駐のせいで、イギリス軍から空爆を受けラングーンやマンダレーは廃墟のようになってしまった。
このとき、コウバウン王朝の宮殿も跡形も無くなるほど破壊された。

それほど、日本軍はビルマ人に迷惑をかけたにも拘わらず、ビルマ人の親日は揺るがなかった。
例えば、敗戦末期の日本軍にビルマ人がどれほど厚い手を差し伸べたか、日本兵が残した数多くの文献や手記に記されている。
乞食同然のぼろぼろの姿で敗走する日本兵にビルマ人は食べ物を与え、傷つき、マラリアや赤痢に苦しむ者は手厚く看護された。
ビルマ人のこうした好意によって命をとりとめた兵士の数は計り知れない。
そして、ビルマ人の間ではいまでも
「日本軍が来てイギリスを追っ払ってくれた御蔭で独立を得ることが出来た」
と素朴な受け止め方が広くなされている。
だからミャンマーのテレビドラマでは日本軍兵士が勇敢で優しい善玉として出てくる。
日本軍が常に悪玉として描かれる中国や朝鮮のテレビドラマとはまったく逆の構図がここにある。

×××

会田雄次『アーロン収容所』を読んでもビルマ人の親日を知ることができる。
本書は戦後、イギリス軍の捕虜となり、ビルマにある捕虜収容所に収監されることになった会田氏の回想記である。
会田氏は「私たち捕虜に対するビルマ人の好意は不思議なほどであった」と書く。
厳重な警備の目を盗み、作業場や町角で、ビルマ人が黙ってタバコを落としてくれる。
脱いでいたシャツのポケットをみればセレ(ビルマの煙草)やモウ(ビルマのお菓子)が入っている。
これらはたいていビルマの娘たちの贈り物だった。
会田氏たちがある家の清掃をしているとき、四つくらいの可愛い幼女が「見よ東海の空あけて」と愛国行進曲を歌いながら踊りを見せてくれたこともあった。
兵隊たちが拍手すると女の子は嬉しそうに日本風にお辞儀した。
捕虜の身である日本兵を慰めようとしたもので会田氏は目頭が熱くなったという。

また、ある苦力みたいなおじいさんは日本兵捕虜に会うといつも土下座をして手を合わせるのでこちらが恐縮してしまうという話も紹介されていた。

捕虜生活も一年くらいたつと次第に自由になってきて、ビルマ人から昼食に誘われることもあった。
ビルマの食事というのはとても辛いのでいらないと云ったが承知しない。
手で食べることにも抵抗があったが、郷にいらば郷に従え、それが礼儀だと手で食べるとワッと歓声が起こる。
何事かと思ったら「やっぱりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどという。日本人は自分たちを同じように取り扱ってくれる」ということらしい。
そして、しきりに「イギリスはいかん。イギリスはいかん」というようなことを云う。
また、「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。
武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」と話す者や
「帰らないでくれ」と涙を浮かべてる者もあったという。
如何に日本軍がイギリスを追っ払ったことがビルマ人にとって嬉しいことであったかが知れる話だ。
ミャンマー親日の由来はどうやらこの辺にありそうだ。

捕虜になる前、ビルマ国内で戦争をしていたときの話もある。
会田氏はシャン高原の山中でマラリヤに倒れ部隊から離れてしまう。
同行は二三人だけになってしまった。
日暮に小の前にでたので日本軍部隊がいると思ってオーイと連呼していると小銃をもったビルマ人が出てきた。
それぞれ、別の家にあげられ、そこで鶏を使った御馳走をしてもらい、あくる日には味のついたお粥(たいへんおいしかった、とある)が出た。
さらに、背嚢を背をってくれてはぐれた部隊まで一緒に連れて行ってくれた。
お礼にタオルを差し出したら、手を振って遠慮する。
それでも無理に渡すと、嬉しそうにタオルを頭に巻いて戻っていったという。

他にも本書ではインド兵(イギリス軍に属している)とビルマ人の仲の悪さなども紹介されていて大変興味深い。
インド人とビルマ人のいざこざは絶えずあり、ときには乱闘になる。
そういう時はきまって「こちらに味方してくれ」とビルマ、インド双方から要請されたなんて話も出ている。

×××

日本はそんなビルマ人(現ミャンマー人)の好意に十分に応えてきただろうか。
多くの日本軍兵士の命を助けてくれただけでもその恩は余りあるのだが、それを知る日本人は少ない。
以前、保守系雑誌『SAPIO』で「親日派特集」があったがミャンマーについての言及は無し。
「親日国地図」なるものも掲載されていたがミャンマーが完全に無視されていたのには複雑な気持ちになった。
左派はもっと悪い。
例えば朝日新聞はミャンマーを北朝鮮のような極悪なる軍事政権国家という風に書いてミャンマーに対するネガティブキャンペーンを行っている。
ミャンマーは北朝鮮のように隣国人を拉致したり、偽ドル札を造ったり、覚醒剤を売ったりしたことはないし、中国のように隣国を侵掠したこともない。
なのに、北朝鮮や中国を差し置いてミャンマーを悪く言うのはどういう料簡なのだろう。
また、ミャンマーの親日は日本から支援を得るためのパフォーマンスだと言う者もある。
確かに政府高官の中にはそうした意図の元に親日家をアピールする人物も居たかもしれないが、それをもってミャンマーが親日でないと誰がいえようか。

日本政府も2003年にアウンサンスーチーがミャンマー政府に拘束されて以降、新規の経済協力を見合わせる措置をとっている。
これも英米の対応と右にならえした恰好だが、スーチーが拘束されて都合が悪いのはイギリスなどで、日本がそれほど問題視する理由は無い。
というのも以前の記事でも書いた通り、スーチーの背後には英国が控えていて、ミャンマーを再び英国の影響下に置くことを目的としている。
ミャンマー軍事政権は多くの問題を抱えており、段階的に民主化を目指すべきであるが、それはスーチーに実権を握らせることとイコールではない。
いま、中国が着々とミャンマーを掌中に収めようとしている段階にある。
もしこれが成功したならば世界でも特筆すべき親日国を失うことになるだろう。
いまこそ日本はミャンマーに目を向けるべきだ。


*****

註:ウ・オッタマはイギリスの植民地支配に変革を求める民主主義運動において指導的な役割を務めた人物で、現在ヤンゴン市内には彼の名を冠した「ウ・オッタマ公園」がある。

参考:
ミャンマーってどんな国? - あび卯月☆ぶろぐ
http://blog.goo.ne.jp/tuneari/e/8f3798136aae100cbd1cb35881c45e1b

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11 コメント

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前に見たビルマの竪琴思い出した (いーじす)
2008-08-14 19:23:55
それはそうと、旧帝国陸軍式の挨拶ってどんなんなんですかね?
たしかに・・・ (あび卯月)
2008-08-14 23:41:21
云われてみれば、旧帝国陸軍式の敬礼ってどんなのでしょうね。
ミリタリー方面に弱いので寡聞にして存じません。

ちなみにウィキには以下のような記載がありました。

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陸軍礼式令(昭和15年1月25日軍令陸第3号)では、「挙手注目の敬礼は姿勢を正し右手{傷痍疾病に依り右手を使用し得ざる者は左手}を挙げ其の指を接して伸ばし食指と中指とを帽の庇の右(左)側(庇なき帽に在りては其の相当位置)に当て掌を稍〻外方に向け肘を肩の方向にて略〻其の高さに斉しくし頭を向けて受礼者の目若くは敬礼すべきものに注目す」(片仮名を平仮名に改め、小文字を{}で括る。)とされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E7%A4%BC
Unknown (MXILE)
2009-04-09 13:33:10
ミャンマーってそんなに親日だったんだ。

勉強になりました
Unknown (あび卯月)
2009-04-10 23:31:53
書き込みありがとうございます。
いま自分で読み返してみて、文章がところどころ変ですが、参考にしていただけたら幸いです。
ちょっと一言 (トシ東郷)
2009-05-25 02:19:37
大変良い記事だと思いますが、一ヶ所だけ誤記がありました。
〈当時イギリスの植民地として辛酸を舐めていたビルマ人にとって白人の大国ロシアがアジアの新興国日本に勝利したという事実は青天の霹靂だった。〉
これは〈白人の大国ロシアにアジアの新興国日本が勝利した〉の間違いでは?
僭越ながら、気になったものでコメントさせて頂きました。
>トシ東郷さんへ (あび卯月)
2009-05-25 14:32:42
御指摘まことにありがとうございます。

御指摘の箇所は全くもって誤りです。
意味(というより事実関係)が正反対になっていて、自分でもなんでこんな間違いを・・・と驚きました。
御蔭で助かりました。
早速、訂正させていただきました。

今後ともなにかおかしな点がございましたら御指摘いただけると幸いです。
興味深い (片山)
2010-02-11 16:57:32
ミャンマーが親日的というのは、知りませんでした。戦中の実際の出来事などは興味深いですね。捕虜の日本兵に対する優しさなど、日本人に近い感覚がありますね。東南アジア諸国こそ、官、民上げて友好関係を推進していくべきだと改めて思いました。
>片山さんへ (あび卯月)
2010-02-14 23:00:41
コメントありがとうございます。
日本はアジアというと韓国や中国にばかり目がいきがちですが、ミャンマーをはじめとした東南アジア諸国にもっと目を向けるべきだと思います。
ところで、いまミャンマーでは日本のアニメがブームだとか。
こういう文化面の交流も広げていきたいものです。
みんなでビルマに行こう (モトハシ)
2010-09-28 11:50:10
みんなでビルマに行こう。

大日本国帝国 万歳
Unknown (ha)
2013-04-10 14:34:25
ミャンマーへ旅行するにあたり、なんで親日なのだろう?と思い色々拝見していたところ、こちらにたどりつきました。親しみをもって接してくれたのをただの「親日」で終わらせたくなかったので背景を知ることができてよかったです。
アウンサンスーチーさんをテーマにした映画「The Lady」でもスーチーさんの軟禁解除に日本が一役買うシーンが出てきました。本当にそうだったのか、演出だったのかは分かりませんが、いずれにしても日本がそういう描かれ方、見られ方をしていることに感動、とともに、当の日本国民でありながら不知だったことをすこし残念に思いました。
海外を旅行して、日本に感謝をしてくれる人に会うことがままあります。えー日本そんなことしてたんだ、と初めて知ることが殆どで、自分が不勉強なのもいけないですが、そういうことをもうちょっと自覚できるようにしてくれるといいのになぁなどと思ってしまいます。ともあれ、世界の国々から好意を寄せられる「日本人」をつくってくれた先人のみなさまに感謝。誇りをもって、受け継がなければですね。
とても勉強になりました、ありがとうございます。

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