あび卯月☆ぶろぐ

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ミャンマーってどんな国?

2008-05-11 19:25:04 | 歴史・人物
サイクロン被害以後、テレビや新聞でミャンマーのことが報じられている。
その多くが軍事政権を批判するものであるが、軍事政権批判は結構なこととしてもその裏にある複雑な国内事情が報じられることは少ない。
ミャンマーはかつてビルマと呼ばれていて、ミャンマーはあまり馴染みがないが、ビルマなら日本では映画にもなった『ビルマの竪琴』(註1)でお馴染みの国名だ。
それが、1989年6月に当時の政権が国名をビルマ連邦からミャンマー連邦に変更した。
その理由も含めて以下、ミャンマーの歴史と内情を概説したい。

ミャンマーはかつて上座部仏教を信仰するビルマ人が住む単一民族国家だった。
ところが、19世紀に英国の植民地にされてからビルマ人の悲劇が始まる。
ビルマを征服した英国は単一民族、単一宗教国家だったビルマを他民族他宗教国家へ改造することを始める。
まず、大量の支那人とインド人を入植させ商売と金融をやらせた。
さらに、周辺の山岳民族であるモンやカチンをキリスト教に改宗させたのち、警察と軍隊に就かせた。
国の主だったビルマ人はというと支那、インド人より下層の農奴の身分に落とされ国の実権をすべて奪われ、植民地以前、五、六歳で仏門に入っていたビルマ人の識字率は70%ほどあったが、植民地化後は数%にまで低下した。
極めつけに国王とその家族をインドの果てのラトナギリに島流しにして国民の求心力を奪った。
王女ファヤは英国兵士の愛人にされて貧困のうちに死に、その娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立ている」とインドのヒンドスタン・タイムズ紙は伝えている(2001年)。
戦後、英国が奪った玉座が国連を通じて返還させられたが、玉座にはめ込まれていたルビーやダイヤの宝石はすべてくりぬかれていた。
おとなしいビルマ人がこの王家の悲劇を語るとき、本当に怒りで唇を震わせるという。(高山正之『世界は腹黒い』345頁)

ズタズタにされたビルマに光を当てたのがアウンサンスーチー(註2)の父親であるアウンサンだ。
アウンサンはビルマ独立運動の闘士で1940年に英国から逮捕状が出されると、中国に亡命する。
その時、中国共産党と接触しようとしていが、それを知った日本軍がアウンサンを日本に連れて来て「ビルマ独立構想」を持ちかけた。
日本軍としては援蒋ルートを遮断するためになんとしてもビルマに親日政権を樹立させたかったのだ。
同意したアウンサンは一度ビルマに帰国して二十九人の仲間を連れて再び来日。
アウンサンを含めたビルマ人三十人は日本軍から軍事訓練を受けた。
このビルマの青年たちがのちに「三十人の志士」と呼ばれる人たちで、現ミャンマー国軍は元をたどればこの三十人から始まっている。
だから、今でも「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」「愛馬行進曲」「歩兵の本領」などはミャンマー国軍の軍歌として歌われている。

1941年、日米戦が勃発し、三十人の志士と日本軍はビルマに進撃し英国を追い出すことに成功した。
そして、1943年日本の後押しでビルマ国内で独立運動をしていたバー・モウを元首とするビルマが建国され、アウンサンはビルマ国軍の将軍(国軍相)となった。
ところが、日本がインパール作戦で失敗を期し、さらに敗戦の色が濃くなるとアウンサンらは寝返って英国につく。
それには日本軍政への反感もあったとされている。

戦後、再び英国軍がミャンマーに進入したが、その後の交渉でなんとか独立にこぎつけることができた。
しかし、アウンサンはその独立の直前に暗殺されている(註3)。
結局、初代首相にはアウンサンの後を次いでウー・ヌが就任した。
その後内乱もあったが、やれやれ、やっと英国人が出て行ってくれた。
ビルマ人は独立するとすぐに英国の匂いのするものは全て排斥した。
ヤンゴンの外語大から英語を外し日本語を入れ、道路は左側通行から右側通行に変えた。
それほど、ビルマ人は英国のことを嫌っている。

英国人は去ったが支那人、インド人は居座りつづけ経済の実権を握ったままだった。
なんとか、出て行って欲しい。
同じく華僑(支那人)の経済支配に悩んでいたヴィエトナムは華僑を強制的に追い出す方策をとったが、それにより中越戦争に巻き込まれた。
ビルマはそういう教訓から鎖国政策をとった。
つまり、ビルマ経済を停滞させ、商売のうまみを消すことで彼ら華僑とインド人が去ってくれるこのを待つという方法だ。
軍事政権のトップ、ネ・ウィン(註4)がとった鎖国政策により国民は貧困にあえいだが、それも華僑やインド人を追い出し国を自分たちの手に取り戻すためと必死に耐えた。
ネ・ウィンはさらにデノミと徳政令を何度もやった。
貿易を止められた上に徳政令とあっては金融と経済を握っていた華僑たちのうまみはすっかり消えて、しぶしぶビルマを去っていった。

中国はこの間、何度もビルマを手中に収める為、共産党ゲリラを侵入させている。
70年代には首都ラングーン(註5)の北近くペグーにまで進出したが、今の政権を担当するタンシュエがこれを掃討した。
タイの華僑もモン、カチンなどの山岳民族をけしかけ、ビルマ政府と対立させ、武器弾薬を売ってはチーク材を手に入れていた。
だから「中国」と云うだけでビルマ人は顔を顰めるほどだった。
ちなみに、戦後すぐの頃は中国国民党軍の残党ゲリラにも悩まされてる。
こういう事情があったからこそビルマが軍事政権にならざるをえなかったとみることができる。

さて、華僑とインド人は去った。
残るは警察と軍隊を握る山岳民族である。
ビルマ人は彼らに「山に帰れ」とも言えず、共存を訴えた。
その証としてビルマ人の国を意味する「ビルマ」という国号を「ミャンマー」に変えた。
「植民地支配の残した負の遺産をだれのせいにするでもなし、国名も変え、貧しさに耐えつつ平和的に解決した例を他に知らない」とは前述の高山正之さんの弁だ。(註6)
朝日新聞や週刊金曜日は軍事政権が勝手に決めたものだとして、いまだ括弧附きで「ビルマ」と表記しているが、それなら、他の軍事政権の主張も否定して欲しい。

そういうビルマ人の努力をぶち壊そうとしているのが、アウンサンスーチーである。
スーチーは建国の父とも謳われるアウンサン将軍の娘であるが、戦後英国が引き取って育ててきた。
1988年スーチーは母の病気の見舞いにビルマに帰国していた。
ちょうどそのころ、ネ・ウィン政権に民主化を求める動きが活発化しており、アウンサンの娘ということもあってスーチーは民主化運動の「希望の星」に祭り上げられた。
そういう運動もあって同年にネ・ウィンは辞任し新たな軍事政権が誕生した。
1990年に総選挙が行われ、スーチーが大勝したが、憲法の規定で配偶者に外国人を持つ者は政権に就けないという規定がある。
スーチーの夫は英国人でこれでは政権に就けない。
現政権はスーチーに夫の帰化を説得したが、夫はそれを拒否し、結果的に選挙を無視して軍事政権が引き続き政権を担当することになった。
この頃、確かにビルマ人の間ではスーチーは「民主化希望の星」と映っていた。

だが、スーチーがアメリカから資金的、物質的な援助を受け、政治的な支持まで仰いでいることが国民に広く知れわたるようになり、希望は失望に変わる。
ビルマ人は植民地時代の苦い経験から外国勢力との結託を心の底から嫌うのだ。
以前、アメリカからスーチー宛に違法に運ばれてきた通信機器が国境で差し押さえられたことがあったが、国外では殆んど報じられることはなかった。
スーチーは植民地時代の支配者階級であった山岳民族らと糾合し、政権奪取を狙っている。後ろには英国もついている。
だから、スーチーは英国人のような狡猾さを持っている。
「政治集会やデモの場合、どこの国もそうだが、ここも届け出制にしている。しかし、彼女は故意にそれを無視する。政府がたまりかねて規制すると『民主主義を弾圧した』と騒ぎ立てる」(山口洋一前ミャンマー大使)
ちなみに、デモを行っているのはいわゆる一般市民ではなく、その多くは無頼漢や与太者、失業者などで、NLD(スーチーの政党)から金銭の提供を受け、動員されている人々であるらしい(同、山口氏)。

スーチーの活動は功を奏し欧米はスーチー問題を口実にミャンマーに経済制裁を課した。
そこに漬け込んだのが中国で、経済援助を申し出た。
英国も同様だろうが、裏にはミャンマーの豊富な天然資源(特に天然ガス)を手中に収めたいという意図があるのだろう。
結局、ビルマ人は“英国人"スーチーに屈するより中国を選択した。
そして、あれだけ苦労して追い出した中国人(註7)がわんさかと戻って来た。
ここにミャンマーのジレンマがある。

そんなスーチーに反撥するビルマ人も当然居て、1996年にはスーチーが乗った自動車が暴徒に包囲される事件が起こった。
このとき、警官が暴徒を排除し事なきを得たが、怯えた彼女は政府に自分の保護を要請した。
スーチーが軟禁されている理由は閉じ込めると当時に守る意味も含まれているのだ。
そもそも、北朝鮮のような軍事政権だったら軟禁どころかとっくに殺しているはずである。

日本のマスコミはミャンマーの軍事政権をやたらに非難するが、北朝鮮や中国の軍事政権と同等に見るべきでない。
例えば、ミャンマーでは年間に五、六人の死刑判決が下されるが現政権が誕生してから死刑が執行された例はない。
山口洋一前ミャンマー大使によると政府高官の暮らし振りも概ね質素で、汚職や腐敗も無いとは言えないが軍事政権としては稀なくらい少ないという。
また、刑務所の視察をした時も政府が取り繕っていることを勘定にいれても刑務所とは思えないくらいんんびりした雰囲気であったと述べている。
昨年起こったデモでは不幸にも日本人ジャーナリストの長井健司さんが治安部隊の兵士に発砲され死亡したが、「ミャンマーの軍事政権が一般市民、まして外国人のジャーナリストに向けて、無差別に発砲を命じることなどありえず、恐らく不幸な偶然が重なった結果」であるとも。

随分、軍事政権を擁護するようなことを書いたが、もとより私は現ミャンマー軍事政権を支持する立場ではない。
やはり、腐っても(?)軍事政権。
経済困窮や言論の自由が保障されていないなど、様々な問題を抱えている。
今日、十一日附けの讀賣新聞にも新憲法案の是非を問う国民投票で賛成が義務になっているとか、タイからの救援物資が軍幹部名義に書き換えられていたとか国民の「軍政には反対です」という声を伝えている。
しかしながら、植民地化や独裁といった複雑な歴史を背負ったビルマにすぐに民主主義が根付くとは考えにくい。
それゆえ、段階的に民主化に移行してゆく必要がある。
事実、現政権は七段階のロードマップに従って民主化を進めているところである。
日本政府はマスコミの非難に屈せず、ミャンマー支援を続けるべきだと考える。
ミャンマーが中国や英国のものになるよりはずっとマシだから。

***********
脚註

註1:竹山道雄が原作。但し、ビルマの僧は戒律により楽器演奏が禁止されているので、僧が竪琴を演奏するという設定はありえない。
註2:日本では「アウン・サン・スー・チー」と表記するが、ビルマには苗字がないため、繋げて「アウンサンスーチー」と表記するのが正しい。
註3:暗殺したのは政敵で元首相のウ・ソーだとされているが、アウンサン嫌いの英国がけしかけてウ・ソーに殺させたという説がビルマでは広く信じられている。真相は不明。
註4:ネ・ウィンは三十人の志士の一人。このとき高杉晋という日本名を名乗った。戦後にビルマ共産党や少数民族が反政府武力闘争を開始した際、これらを掃討し、1962年に軍事クーデターを起こし、政権を掌握した。口癖は「アウンサンは建国の父だが、自分は健軍の父だ」だった。2002年九十一歳で死去。
註5:現ヤンゴン。また首都は2006年にネピドーに移された。
註6:高山正之『スーチー女史は善人か』42頁
註7:私は支那人を歴史を通じて支那に存在した国の人々の意で、中国人を中華人民共和国人の意で使用している。よって、戦前と戦後で支那人と中国人と使い分けている。

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9 コメント

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ありがたうございます (粗忽亭主人)
2008-05-14 17:16:16
ミャンマーの事情について、くはしい解説、ありがたうございます。
要望しておきながら反應がおそくなりました失禮をおゆるしください。出張があったため、アクセスできなかったゆゑですので、御恕くださいませ。
チベットのときと同樣、たいへんわかりやすくまとまってをり、おほいに勉強になりました。
ミャンマー問題もおほもとをたどれば「腹紳士」イギリスが原因なのですね。世界中の、特に非ヨーロッパでの國際紛爭の根源には、多くの場合イギリスの存在があることは知ってゐましたが、「國内問題」であるミャンマー問題のかげにもイギリスがあるのですね。
なにゆゑミャンマーが長く實質的に鎖國状態なのかも、よくわかりました。また、新憲法案で國會議員資格に外國の影響下にある人は國會議員になれないとの規定があるのかも。アウンサンスーチーさんの排除だけが目的とも單純に言ひ切れないのですね。
たしかにこの國情、歴史では、一氣に民主化するのは不可能でせう。といふより、一氣に民主化してしまふとより深い混亂が生じるだらうといふ印象を受けます。
さうはいふものの、今般のサイクロンへの對應などを見ると、軍事政權が、その政權維持を自己目的化しつつある感も禁じえません。當面はさうせざるを得ないのかもしれませんが、ミャンマーが「軍事獨裁國家」から「普通の國」へ、時間をかけてでも軟著陸できることをいのるばかりです。
それにしてもかういった事情は、日本國内ではまったくといっていいほど知られてゐませんね。かつてチベットの事情が知られてゐなかったことよりも、はるかに知られてゐないやうに思ひます。かういふことをきちんと傳へないマスコミは、大本營發表のたれながしのみをしてゐたころと本質的にはかはってゐない、否、強制がない分だけ劣化してゐると言ってもいいかもしれません。
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ミャンマー報道 (あび卯月)
2008-05-14 21:05:06
>チベットのときと同樣、たいへんわかりやすくまとまってをり、おほいに勉強になりました。

勿体無い御言葉ありがたうございます。
正直、今回の記事はあまり上手くまとめることが出来ず、わかりにくい内容になつてしまひ主人さんに申し訳ないといふ思ひだつたのですが、さう仰つてくださつていささか安堵いたしました。
今後はもつとわかりやすい記事を心掛けます。
(反応が遅かつた云々は全く気にされないで下さい)

>ミャンマー問題もおほもとをたどれば「腹紳士」イギリスが原因なのですね。

全くイギリスといふ国は世界中に紛争の種を撒き散らしてゐますね。
最大のものはパレスチナ問題でせうが、ミャンマーもさうだとは私も知つた時は驚きました。

>たしかにこの國情、歴史では、一氣に民主化するのは不可能でせう。といふより、一氣に民主化してしまふとより深い混亂が生じるだらうといふ印象を受けます。

全く仰るとおりで、ミャンマーの民主化を論じる際にはこの視点を缺かせません。
一朝一夕に民主化を実現しようとしても、必ずや混乱が起きると思はれます。
民主化にはそれなりのプロセスが必要で、それは欧米や日本の歴史をみても明らかです。
文中にも出て来た前ミャンマー大使山口氏の言によるとその点を多くのビルマ人も承知してゐて、軍事政権に不満はあるものの、急速な民主化は望んでをらず、軍事政権が進める漸進的民主化の方向に消極的支持を示しているさうです。
蛇足ですが、支那の民主化問題もさうで、あの国はミャンマーよりもずつと広大で民族も多いのでより難しいでせうね。

日本のマスコミ報道についてかういふ話があります。
ある新聞社のベテラン記者がミャンマー情勢について「スーチー女史邸の周辺は大勢の人が詰め掛け政府と揉め事を起こしてゐるが、それ以外のヤンゴン市内は極めて平穏で一般市民が動揺するでもなく、学生が呼応するでもなく、況や地方農村部はおしなべて平穏である」という内容の記事を書いて本社に送つたところ、デスクから「お前の原稿は緊迫感がない!」と叱られたさうです。
記者は「事実を捻じ曲げて書くのは新聞記者の良心が許さない」として註文を突つぱねたとのことですが、結局日本の新聞社が求めているものは、善玉のスーチーに対して悪玉の軍事政権という図式の記事であり、軍事政権により国民は混乱、疲弊、貧困の内にあるというものでそれ以外の記事を書くと嫌がるといふことのやうです。
これは、主人さんが仰るやうに政府がさう指示していない分、戦前の大本営発表よりタチが悪いかもしれません。

ミャンマーは言わずと知れた親日国で、私としても「軍事獨裁國家」から「普通の國」への脱皮を望むばかりです。
サイクロン災害に関する軍事政権の対応もまことに残念なものばかりで、民主化には民間からの民主化運動は必要だと思ひます。
が、スーチーはあの通り、外国勢力と結託している以上、あまり期待はできませんし、このジレンマに一番苦悩してゐるのは他ならぬビルマ人でせうね。
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Unknown (ややビルマ通)
2009-01-31 17:38:57
高山氏のビルマに関するものには異論があります。

>ミャンマーはかつて上座部仏教を信仰するビルマ人が住む単一民族国家だった。

ビルマ人が上座部仏教を受け入れたのは、南部の先住民族モン族の影響と言われています。
最初にあの地域で国を作ったのはピュー族でビルマ語とピュー語の併記された碑文もあり、異なる民族と想定されます。
また最後の王朝コンバウン朝以前にシャン民族の打ちたてたインワ王朝もありました。
単一民族国家という歴史ははじめからありません。

>周辺の山岳民族であるモンやカチンをキリスト教に改宗させたのち、
モンは上記のように仏教徒です。カチンは半々くらいですが、彼らをキリスト教に最初に改宗させたのは英国より前に来ていたポルトガルやフランスです。彼らの子孫はバインジーと呼ばれ、まだミャンマーにいます。

>王女ファヤは英国兵士の愛人にされて
ヒンドスタン・タイムズの英文にはこれにあたるものが出てきません。

>その証としてビルマ人の国を意味する「ビルマ」という国号を「ミャンマー」に変えた。
ビルマ人という言葉もミャンマー人という言葉もビルマ民族を指すことに違いはありません。

>道路は左側通行から右側通行に変えた。
日本も左側通行であることを考えると、これは英国だけを嫌った証左にはならないと思います。

すべてが嘘とは申しませんが、彼の文書にはビルマ史を理解していないくだりがたびたび、出てきており、信用できない方と考えております。


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>Unknown (ややビルマ通)さんへ (あび卯月)
2009-02-01 22:33:41
書き込みありがとうございます。
御指摘の内容、大変勉強になりました。
私も高山さんの記述は色々怪しいところがあるなと思うことがしばしばあるのですが、ミャンマーについての記述については不勉強なもので存じませんでした。
ミャンマーについては自分なりにも勉強してまた書き直したいと思います。

こういう御指摘はまことにありがたいです。
また、気になった点がございまいしたら宜しくお願い致します。
返信する
ミャンマー山岳民族の実態は? (カチンの平和)
2009-08-15 14:27:54
mixiから流れてここにたどり着きました。1年以上前のブログへのコメントで間が抜けていますが、一言書かせていただきます。
軍事政権への評価は私も賛同します。
ただ、ここに書かれているのは全てヤンゴンから見た目であり、残念ながら真の実態を捉えているとは思えません。
私はインド・ミャンマー国境のミャンマー人コミュニティーの中で暮らしています。息子もミャンマー山岳民族との子供です。ミャンマー情報源は全て口コミ。それによって民衆は動いています。そしてそれが驚くほど正確。ニュースになる前にきちんと兆候があります。そして、民衆は我々が思うほど政治的関心はありません。とにかく『自由にしてほしい』『搾取をやめてほしい』 それだけです。それがミャンマーを逃れてインド側で暮らしているカチン族3万人の思いです。
返信する
>カチンの平和さんへ (あび卯月)
2009-08-15 23:48:03
書きこみありがとうございます。

>1年以上前のブログへのコメントで間が抜けていますが、

いえいえ、とんでもありません。
古い記事へのコメントも大歓迎です。

しかも、実際にミャンマー人コミュニティーで暮らしておられる方からの大変貴重な御意見をいただいて、本当に嬉しいです。

御指摘のように、私の記事ではヤンゴンからの視点、言い換えればビルマ族からの視点で書いたものであり、カチンをはじめとしたミャンマーの少数民族の方々からの視点ではまったく別の捉え方があるのだろうと思います。
事実、『自由にしてほしい』『搾取をやめてほしい』という言葉があるとのことで、それについても全く共感いたします。

私は相対的に軍事政権を持ち上げるような書き方をしましたが、無論、国民の自由をいちじるしく制限している現軍事政権の姿勢には反対です。
これはビルマ族も同じ気持ちだろうと思います。
その上、少数民族に対する弾圧を行っているのであれば、これは決して許されることではありません。

このたびは貴重な情報をまことにありがとうございました。
重ねて御礼申し上げます。
今後とも、ミャンマーについての情報等ございましたら、御教示いただけると幸いに存じます。
返信する
スーチーは悪と言うよりアホ (TOMMY)
2010-02-28 09:59:15
スーチーの場合 いかがわしいと言うより トロ子だろ俗に言う。
発想自体は悪くない 。だけどアホ。
タダ ドイメーサロンの国民党やKNUが元気な時に 分離独立民主化と言う
ユーゴスラビア式解体を使った民主化をすればミャンマー国民もここまでボンビー化しないですんだ。

でもスーチーはKNUとも結ばず パフォーマンス連打による 一人で騒いでいただけ。
スーチーの盾になって何人の人が死んだか?

KNUメーソット国境付近は既に、外国からの無料支援物資(゜Д゜ )ウモォー>横流し経済>(゜Д゜ )ウモォー。>終戦したら援助とか無くなる、だからやらせでいいから戦争やっとこうぜ>
年に数回かるーく 山奥でドンパチ。

KNUも本気で独立しようと言う意思は全く感じられません。

そもそもノーベル平和賞ってなんでしょうね?
スーチー離婚しろよwww

徹底的にやる意思表示もせず 
それじゃあ何も生まれない

本来スペック潜在能力は燃料資源も手付かずのまま残されており 
マレーシアないし中東諸国と張り合える
素材国家。

軍政の内政音痴があるけど
タイのようにうまくやれないかなとも思う
返信する
補足 (TOMMY)
2010-03-01 03:04:01
キリスト教が多いのはカチンじゃなくてカレン。ちなみに カレンも一枚岩じゃなく
そこをつけ込まれて二つに割れてますね。

ちなみにKNU側の情報はメーソットの某日本人宿行けば情報は手に入ります。

軍政がここまで内政音痴じゃなければ叩かれないのだけどね。

国営でガチ資源開発やダム建設による水力発電できるのにそれをやらず

まあ発展途上国ってのはカンパニー経済
じゃないから非常に税金が取りにくいのですけどね。タイしかり。

まあそういう国はタイもそうですが 物価賃金が日本の10分の1なのに対し 電気代が3分の一で物価換算すると 
タイやミャンマーなんかは日本と比べ電気エンゲル係数(意味わかるよね)が高かったりします。そこに税金でもかけているのでないでしょうか?

ゲストハウス経営者が電気代きついわ
と言ってるのをよく聞いています。

日本だとまず人件費に苦慮するようですが・・・

カレンKNU関連は何冊か本も出ていますし
探せば色々な情報がメーソットで探せば見つかります。

地理的にあの辺が落ち着けば
ベトナム ホーチミン>プノンペン>
シェムリアップ>アランヤプラテート
>BKK>カンチャナブリORメーソット
    
>ヤンゴン>アラカン>インド
 BKK>チェンマイ>メーサイ>マンダレー>雲南

と言う物流ルートが確保される為
ミャンマーの持つ将来性は明るいです
 

と言う物流ルート


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>TOMMYさんへ (あび卯月)
2010-03-03 23:34:09
コメントありがとうございます。
スーチーは悪というよりアホという見方は面白いですね。
確かにそうなのかもしれません。
この見方は軍事政権にも当てはまりそうですね。
あの政権も悪というよりアホ。
一々やりかたが拙劣でこれだから余計に叩かれるんだと感じます。
国民も似たような気持ちでしょう。

また、ビルマをビルマ人が住む単一民族国家としたのは今更ながら理解不足だったと痛感しています。
正確にはビルマ人が多数派を占める多民族国家ですね。
つまり、ビルマの内紛の実相は植民地時代から多数民族と少数民族の争いと言えそうです。
そこをイギリスが巧く利用したといったところでしょうか。
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