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実録小説・シマハタの光と陰・第9章・小町天使たち

2019-07-18 13:18:17 | 日記

  昭和40年に入るや、否や、林田博士は秋田市の中学・高校に足をたびたび運んだ。冬の秋田は大体雪で、寒いが、林田は熱気にあふれていた。


  中学や高校の卒業予定者である3年生に、東京郊外にあるシマハタ療育園の事をまず説明をして、建物と園児や職員たちの生活の様子の白黒写真も見せ、

「我々は愛をもって、園児たちの看護に当たっていますが、何分、職員の数が足りません。夜勤続きで、体調を崩し、やめていかれる職員も多いわけです。若い皆さまが愛と勇気をふるって、シマハタに来ていただけると、私としても非常にうれしいわけですが...」と深刻そうに話した。

   生徒たちの反応はさまざまだった。博士の話がわからない人もいたが、うなずいた人、同情や共感を示した人、考え込んだ人など。当然、家に帰り、家族に生徒たちは話した。

  また、秋田県も広いので、林田博士も行けない所も多いが、NHKなどのローカル放送のお知らせの番組にシマハタのことを投稿し、

  「やさしく、力もある若者を求む。シマハタの体が不自由な子たちの看護をする勇気のある者を」

 と知らせた。その放送を聞いた若者たちの中にも関心を示した人もいて、シマハタに手紙で問い合わせる若者も出た。

 

戦後の日本の工業化により、農村は衰退し、特に若者女子の就職難は深刻であった。また、秋田はもともと雪害との戦いからの助け合いの伝統もあり、そこにシマハタのお知らせを聞き、15人の若者がその春から職員を志したのである。中学卒の農家の娘が多かった。

 

  秋田県の地方新聞は「小町天使」と大々的に報じ、

  「看護は任せて!」

  という言葉が紙面に載った。遅れて、朝日などの全国紙でも報じられた。




若い新人職員が多く入り、シマハタは明るいムードになった。それまでの職員たちと共に、障碍児たちの世話に精力的に取り組んだ。折しも5月には坂本九が「涙くん、さよなら」という新曲を出したので、職員たちの間でもしきりに歌われるようになった。障碍児には音感の優れた子たちもいたが、真似して「なみだくん、さよなら。...」と歌う事もしばしばだった。




  その年の大晦日のNHKの「紅白歌合戦」の審査員の一部にシマハタの職員たちも選ばれ、その名が日本全国を駆け巡った。

  忙しい間をかいくぐって、職員の代表たちは渋谷のNHK放送局に着き、楽屋に通された。着替えなどのあと、周りに目をやると、あこがれの歌手たちが目の前にいた。職員たちは興奮しながら、喜んだ。歌手の一人に、坂本九がいた。坂本九の方から職員たちに近付き、

  「あのう、私は坂本九です。あなたがたは、シマハタの職員さんですね。テレビで見て、よく知っています。立派なお仕事をされていますね。尊敬しています」

  と声を掛けた。

  職員の一人が代表するように

  「私たちは子供たちと一緒に九ちゃんの歌をテレビやラジオで聞いています。明るくて良い歌ばかりですね。みんな、九ちゃんが大好きです。『幸せなら手をたたこう』とか、『涙くん、さよなら』とか...」

  坂本九は

  「ありがとうございます。そう言われると、照れちゃうな。でも、大変うれしい。これからもがんばって下さい...」。

   坂本九は福祉にくわしく、チャリティ活動も熱心に行なっている。大変な子供好きでもあり、方々の障碍児関係や養護施設も、折を見て、訪問し、力一杯歌い、子供や職員たちを楽しませてくれているわけである。福祉関係にもファンは多い。九ちゃんを間近に見て、職員たちは絶頂感を憶えた。

  テレビを見ていた多くの茶の間の人たちも、きらびやかな歌手たちと共に、審査員である職員たちにも注目した。各家庭は

  「体が不自由な子たちのお世話をあの人たちはしているの。何てやさしいのでしょう」

  「えらいよね。しかも、あの若さで」

  と共感したり、驚き、「障碍児」みたいな言葉を初めて耳にした人たちも多い。電波の力は強く、それに乗って福祉の事も日本中に広まっていった。


   こうして、昭和40年は暮れていった。外国ではポンドショックがあったり、秋にはベトナム戦争も起きたが、シマハタは小町天使たちを得て、光輝いた一年であった。