トシコロのありのままの暮らし


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今の島田療育園

2019-07-20 14:50:33 | 日記
「S園の正体」の大事な補足ですが、インターネットで検索すれば判る通り、地域に根を下ろした貢献施設になっています。養護学校も併用されたとか。「お仕置き」みたいな事もありません。


  今は悪い面はなく、おかしく思う人もいないので、悪く思わないで下さい。

  「お仕置き」になるまで、職員たちも追い詰められていたわけです。低賃金は勿論、法整備がなされなかったから。また、施設は年齢別に細かく分けなければならないのに、大きくなった障碍児の受け皿がないから、一括していつまでも療育しなければならなかった。


  つまり、一番の問題は法整備の遅れであり、政治の怠慢です。弁護士などの法律関係者の怠慢でもある。

  「麻薬」は、明治以来、伝統医学を捨て去った日本の医療の問題にもなってきますね。医学だけでなく、心の面も伝統的なものを捨て去ったようで、そのひずみの現れの一つがそこの「麻薬」でもあったらしいです。


S園の正体

2019-07-20 13:49:30 | 日記
  島田療育園である。1961年(昭和36年)設立。初代園長は、小林提樹医学博士。小説では「林田」としてある。


  ねむの木学園よりも少し早くに作られたそうだ。一応は日本初の障碍児施設になっているが、あるいはそれよりも非常に早くに作られ、歴史に埋もれたままになっている所もあるかもしれない。歴史は常に変わるものだから。

  インターネットで調べると、島田療育園の評価は両極端である。「日本の障碍児を福祉のない時代に救った」というものもあれば、「園児へのお仕置き、殴り、絶食などが常に繰り返された。大人園生への子供扱いも当たり前だった」というものもある。

  当然、時代によっても違ってくるわけである。今までの拙小説にも輪郭を描いたが、設立当初は園長以下、一生懸命障碍児の世話をしていた。それが新聞やテレビ、ラジオにも載った。好評価する人たちは創立期の事を中心に見る例が多い。

  それに対し、次第に低賃金に耐え切れず、職員ストが多発もして雰囲気は荒れた。また、園児たちは、身障にしろ、知的障碍にしろ、成長するにつれ、自我も芽生えて強くなり、職員などの言う事も聞かなくなり、いつまでも子供に見られていたため、園当局も、職員たちも対応ができなくなり、感情的な性格の職員ほど、「お仕置き」して、虐待にもなっていったわけである。丁度、親は我が子が成人になっても、小さい時の感覚のまま接するが、そのような事が島田療育園でもあったわけである。小林博士はプロテスタントの信徒だったし、職員たちもキリスト信仰を持つ者が多かった。キリスト教の「愛」は親子愛とは異質で、はるかに大きなものだが、日本人クリスチャンにはその辺が受け入れられず、親の愛を隣人に施して中途半端になり、挫折する例も多いわけである。その辺のこともすでに小説に書いた。「みんな可愛い」という林田博士のセリフも。それも狂った理由の一つだと見ている。

  1980年ごろ、ある身障ミニコミ誌が島田を取材し、「お仕置き」などの事にスタッフが心痛め、そのミニコミを読んでいた当時の八代英太参議院議員も知り、そこを視察した後、国会で「そこは障碍児の自立がなされていない。国としても指導する必要があるのではないか」と、時の厚生大臣に代表質問するなど、大騒ぎにもなった事もありました。そのミニコミは当時としては、非常によくやったと思います。但し、書き方が悪口ばかり。それも立場上当然ですが、それからかなりの時がたった今は僕がそのような書き方をしても始まらないわけです。良いものは良い、悪いものは悪いと両方書くわけです。


  僕も少しだけそこを訪問しましたが、それに目を奪われ、同時に行ったハンセン氏病の多摩全生園の事も何も見えない状態でした。当時の全生園には「お仕置き」はなかったから、「島田よりもマシだ」と思ってしまったわけです。伊藤まつさんというおばあさん患者が僕を可愛く感じてくれて、それで全生園にも行き続けましたが、まつさんなる人がいなければ、全生園もすぐ止めていたわけです。それだけ当時の島田療育園は根が深い問題がありました。

  また、小林博士は西洋医学ばかりで、漢方医学を知らなかった。それゆえ、脳性まひの身体硬直には対応できず、一時的にそれを緩和させる医療用麻薬を常に脳性まひ児に服用させてもいたわけです。当然、体に悪いですね。それも付け加えておきます。


実録小説・第12章の説明

2019-07-20 11:20:59 | 日記
お読みになっての通りです。1965年は前進した年であったことは前から僕もよく知っていましたし、暮れの紅白歌合戦に出た事も昔としては有名な事でした。「秋田から多くの若者が職員になった」のは事実です。インターネットで色々調べて、参考にもして、でも、徹底的に考えて書いたわけです。当時の新聞に出ていた名称を変えて、「小町天使」にしました。今は変わらないし、名称の丸写しではつまらないと思って。


  紅白歌合戦の控室の坂本九とのやり取りは、僕の創作です。記録にはない。でも、そこで職員たちは多くの芸能人と会ったのは事実だし、坂本九はものすごい子供好きで、福祉にも熱心な方であったため、そのような事もあり得たと見て、花を添える目的で、書きました。当時の大スターを出すのも、小説としては面白くなるわけですし。


  そこは1965年が絶頂だったようですね。太陽も南中すれば、次第に夕陽になっていく。でも、誰もが光と思う部分に、「陰」となる要素は含ませて書いてあります。今は説明をあえてしませんが。歴史を見ても、どんな帝国にも、絶頂期前にすでに衰退の要素が出ているわけです。日本の各幕府、中国の各帝国、ローマ帝国などの歴史を見ても言えますね。光と陰は本当は一体だと思います。人生もそうです。今は陰の人たちも、本当は光の要素があるから希望を持つべきだし、今は栄えている人たちも陰の要素もあるから、注意すべきです。


  もう一つ。先の事ですが、1977、8年に僕はそこを訪問していますが、あえてその見聞は最低限にしか書かない事にしました。人が見る事はどれも一面的だから、その時期だけ見聞を盛り込むと、偏った書き方になり、失敗してしまうのが見えているからです。人間の見聞はあてになりませんよ。そうではなく、イマジネーションが大事。小説も、随筆もそれでまともに書けるわけですね。