今日の話は僕の青春時代の40年前前後。当時の東京では、多くの福祉団体や身障団体ができて、僕も複数の会に入った。それらの会ではよく会合をしていた。いわゆる話し合いである。大体は役員がテーマを決めたが、中には会員の要望でテーマが決まる事もあった。ところが、どの会の話し合いも構成員たちの話は抽象的。会仲間も判らないような独り言を皆言うわけである。何かの決定をする時も、一部の人が何か言うと、ほぼ全員一致的に賛成し、決められてしまうわけである。例えば、ハイキングの決定みたいな事ならば、害はないだろう。でも、大事なこともそうだった。思い出すと、僕が所属していた福祉会で、多磨全生園に関わる事も以上の要領。会員たちは考えずに関わる事を決めたわけである。そして、交流合宿もして、元患者たちと意思疎通もできず、大体がすぐ引き上げた。僕は意思疎通が可能だった元患者の伊藤まつさんという人とは後も付き合えたが、他は正直言って関心も持てなかったので、同様に早く止めている。僕も付和雷同的に行く事に賛成したが、問題意識はなかったし、よく考えての賛成でもない。結果的には行って良かったものの、行った過程について後年まで釈然としない思いが残った。
また、同時に参加していた身障会でも、以上のシステム。僕が退いた後、会合話し合いの結果、自分の介護者は自分で探し、介護料だけ区に請求するという制度が決められ、使えない身障者が多く出て、問題化もしたわけである。これは害毒になった例である。
各会は早くに潰れたが、何故か、会合に多く参加した人たちに思考ができなくなる例が目立ち、ケンカばかりしたり、放浪みたいになった例さえもある。又、短絡思考も目立ち、「養護学校は隔離的だから、潰さないといけない」とか言って、そのような運動に熱を一時入れた例もある。
以上の歪みの根本は今の僕には察しが付いている。「会合」なるものは数時間しかできない。数時間で何が考えられると言うのか。どんなに小さい物事でもまともに考え、しっかりと判断できるには最低でも1週間は必要である。普通は1ヶ月。事柄によっては1年から数年かかる場合もある。「じっくりと考える」事こそ、人間の脳の特徴であり、人間らしさだからだ。数時間で自分の答えを出す事を迫まれるような事ばかりしていると、思考力や判断力も衰え、どうにもならなくなるわけである。どんなに頭の良い人でもそうなると。
また、会合の場で意見を素早く求められる事は拷問でもある。それで僕もイヤな想いを色々してきたし、意見がどうしても言えなくて役員から怒られ、傷付いた人もいた。気の毒だった。僕も学校関係の場で母校の光明の様子を聞かれて、即答できず、先輩たちが良く指摘していた「光明養護は社会性がない」という事をオウム返し的に言い、誤解と偏見を作った事もあった。実際、僕も自分の学年の事しか知らないし、本来ならば返答不可能の質問であったわけだが。
そうではなく、会員たちが課題を個人的に考え、レポートにして発表するという方式が良かったと今は思う。その場合、人は思いも一人一人違うから、会としてのまとまりはできないが、それで正解だったと。どんな社会活動も個人レベルで行なうものだし。会合する時間があれば、その間は遊びに行った方が良かった。
僕も話し合いの時は話したい事が話せなかった。脳性まひ特有の言語障碍のせいだと昔は思い、その分、文章で補おうとそれを発達させた。今思うと理由は違ったようだが、結果的に文も書けるようになり、良かったわけである。
会合の場では短絡的な事しか皆話せない。だから、構成員たちは仲間を大体「短絡的な発想の人」と誤解し合うなど、交友もまともにできなかったわけでもある。影響は大きかった。
「考える事は十分時間を掛けるべき」と言って締めくくりとする。
また、同時に参加していた身障会でも、以上のシステム。僕が退いた後、会合話し合いの結果、自分の介護者は自分で探し、介護料だけ区に請求するという制度が決められ、使えない身障者が多く出て、問題化もしたわけである。これは害毒になった例である。
各会は早くに潰れたが、何故か、会合に多く参加した人たちに思考ができなくなる例が目立ち、ケンカばかりしたり、放浪みたいになった例さえもある。又、短絡思考も目立ち、「養護学校は隔離的だから、潰さないといけない」とか言って、そのような運動に熱を一時入れた例もある。
以上の歪みの根本は今の僕には察しが付いている。「会合」なるものは数時間しかできない。数時間で何が考えられると言うのか。どんなに小さい物事でもまともに考え、しっかりと判断できるには最低でも1週間は必要である。普通は1ヶ月。事柄によっては1年から数年かかる場合もある。「じっくりと考える」事こそ、人間の脳の特徴であり、人間らしさだからだ。数時間で自分の答えを出す事を迫まれるような事ばかりしていると、思考力や判断力も衰え、どうにもならなくなるわけである。どんなに頭の良い人でもそうなると。
また、会合の場で意見を素早く求められる事は拷問でもある。それで僕もイヤな想いを色々してきたし、意見がどうしても言えなくて役員から怒られ、傷付いた人もいた。気の毒だった。僕も学校関係の場で母校の光明の様子を聞かれて、即答できず、先輩たちが良く指摘していた「光明養護は社会性がない」という事をオウム返し的に言い、誤解と偏見を作った事もあった。実際、僕も自分の学年の事しか知らないし、本来ならば返答不可能の質問であったわけだが。
そうではなく、会員たちが課題を個人的に考え、レポートにして発表するという方式が良かったと今は思う。その場合、人は思いも一人一人違うから、会としてのまとまりはできないが、それで正解だったと。どんな社会活動も個人レベルで行なうものだし。会合する時間があれば、その間は遊びに行った方が良かった。
僕も話し合いの時は話したい事が話せなかった。脳性まひ特有の言語障碍のせいだと昔は思い、その分、文章で補おうとそれを発達させた。今思うと理由は違ったようだが、結果的に文も書けるようになり、良かったわけである。
会合の場では短絡的な事しか皆話せない。だから、構成員たちは仲間を大体「短絡的な発想の人」と誤解し合うなど、交友もまともにできなかったわけでもある。影響は大きかった。
「考える事は十分時間を掛けるべき」と言って締めくくりとする。