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七夕について再び

2019-07-13 11:08:26 | 日記
先ほど、ラジオのNHK第二放送の「漢詩を読む(佐藤正光講師)」の再放送を聞いた。七夕に因んだ中国古典詩が紹介されていた。それゆえ、再び七夕の事を書きたくなった。


  まず、七夕の本来の時期は立秋前後であり、東アジア古来の暦では、秋の初めである。梁の簡文帝(503年~551年)が作った「七夕」という詩の冒頭には「秋期」とストレートに書いてある。それを現代日本では、現行暦に当てはめて、この季節に変えてしまったのである。だから、梅雨で星の見えない七夕になっているわけである。これもおかしいと僕はいつも思っているし、日本でも仙台市では、8月7日にしている。その方が本来の七夕の季節感に近くなるわけである。旧正月も祝うくらいだから、中国や韓国・北朝鮮、ベトナムでは、旧暦で今も七夕が祝われていると察している。


  「七夕」の歴史は非常に古い。紀元前9世紀から7世紀に作られたという詩経にはすでに出てくるそうだから、実際はそれ以前に民間伝説・おとぎ話として、伝承されていたと思われる。その原話を考えた人はどんな人だろうか。歴史に埋もれた事である。

  産業が発達した漢代では、織女は文字通り、「機を織る」から、女性の機織りや針仕事の上達を天に祈る行事として発達したわけである。

  ところが、以上の「漢詩を読む」のテキストによると、唐代になり、愛の面が強調され、現代に通じるような男女の愛を祈るものに変化したそうである。唐では非常に文化も発達したからだと察せられる。唐代の中期には、皇帝の玄宗が楊貴妃を溺愛し、揚一族が政治を支配して利権を吸い取ったため、安禄山の乱が起き、楊貴妃は殺されたが、その様子を読んだ白居易の「長恨歌」にも七夕になぞらえた書き方も出てくる。もっとも、玄宗皇帝の件は唐代中期だから、何もその件で七夕が愛中心になったわけでもないだろう。本当に庶民層まで恋愛文化が花開いたから、七夕の意味もそのように変化したのではないか。また、異性を好きになる事は誰でも簡単にできるかもしれないが、恋愛関係まで作り、それを継続・発展させるには、双方が常に多様な話題を投げ掛けないと不可能である。ワン・パターンの話では、不可能なのである。それ故に、唐代の人たちはかなりの教養も持っていた事も察せられる。その土台は明らかに平和である。経済面の安定もあったが、それも平和抜きには語れない。平和の大切さも想う。

  七夕から平和の尊さも見えてきた。今は日本では参議院選挙だが、平和を愛好する候補者や政党に一票を投じたいものである。平和を願い、締めくくる。

 (参考文献.「漢詩を読む」テキスト・NHK出版)