トシコロのありのままの暮らし


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コーイチ君の思い出

2020-04-30 09:25:37 | 日記
 同級生コーイチ君の思い出・文芸誌投稿文

 元々は近所の公立小学に通っていたが、障碍が重くなり、小学5年(1966年)から光明養護学校の僕のクラスに転校し、中学2年の時にさらに城南養護学校に転校された人である。筋ジストロフィー症という難病を持っていた。今は延命薬もあるが、当時は20歳くらいしか生きられず、本人もよく知っていた。ところが、気持ちが明るく、親切で、勉強熱心だった。皆から好かれた。何故、明るいのか、僕も判らなかった。先生たち含め、誰も判らなかったわけである。僕も「彼は短命の運命で、かわいそう」とも思っていた。
 中学2年で一応分かれたが、僕とは気が合い、チェスやチェッカーをよくしたり、中学1年の時は漫才もした。その事が忘れられず、卒業後、少しして文通もした。体は大変弱り、外出もできない状態だったが、野球が好きで、プロ野球の優勝予想をして、見事当たった事もあった。僕も当時入っていた世田谷の身障会でひざ立ち歩き野球をした様子や、福祉親睦会で群馬の身障施設のキャンプに行った様子を手紙で書いた所、コーイチ君は大変喜んだ。
 コーイチ君の弟も同じ難病。1979年夏に弟が他界。後を追うように、79年11月4日に旅立った。何故、早く死ななければならなかったか、また、何故、明るかったか、当時の僕は判らなかった。
 今は大体判る気がします。まず、早いか、遅いかだけで、人は必ず死にます。死なない人はいませんね。ならば、我々も彼と五十歩百歩。変わりがなく、彼が可哀そうならば、全ての人々もかわいそうになってしまうわけである。むしろ、死という区切りをよく知っていたからこそ、後悔しないように勉強に、遊びにと頑張り、また、僕などの手が不自由な人には代筆してくれるなど、今で言う所のボランティア活動もされた。祝福された、素晴らしい人生を歩んだわけである。
 今はコロナ・ウィルスが流行り、死について誰もが意識するようになったが、子供の時から死を意識して、濃い人生を作った人もいるわけである。
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 実際は「幸一」という名前だが、世間向けには以上のようにカタカナで書いた方が印象的になると見て、あえてそうしました。