トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

原は刈り原、向こうは草山

2021-12-06 | 今日は真面目に
 昼頃から降雨予報のこの日、集草くらいなら出来るかもと出かけ、先日刈り払ったままの二カ所の集草を終えた。意外と量が多く嵩張ったのだが、造林鎌で掻き寄せ掻き寄せフォークを突き刺して運べば楽だった。こういう作業ではガーデンレーキや熊手などは役に立たない。
 造林鎌で集草しながら転がして移動させる手も有るのだが、まとまった分をフォークで運ぶ方がいともたやすい。それでも二カ所を片付ければ汗が滲み上着を外す羽目になる。積み上げた刈り草は背の高さに達して、春になれば半分ほどの高さに減るだろうがそうなったら食草園の敷き草として施す。今のままでやっても差し支えは無いのだが、まとめた方が腐食が早かろうという想いでそうしている。
 トンボ池横         エノキ林

 刈り草を片付ければすっきりするけれど、これは春の野草の芽出しのためであって、地表に陽光が届けば萌芽も成長も早まるはずである。低草地として維持されていた部分は既にレンゲは萌芽しているし在来種タンポポも大きなロゼットを広げているのだ。
 刈り草の中にはカマキリに代表させられるように越冬卵嚢などが有るけれど、この範囲の目減りは仕方が無いと思っている。野草に群れる生物のために刈り払いはせずに来たのだが、ここで刈り払ってみれば地表には春の植物の芽吹きも無いほどの日照無しの結果が見えている。レンゲの種子も9月に播種したものの、陽光の届く低草池では発芽していても生い茂らせた範囲では発芽すら出来ない地表の照度だったのが良くわかる。

 そういう意味では「生物優先か植物優先か⁉」と悩みがちだけれど時と場合によりけれで、今回は春の萌芽を優先した。植物が無ければ生物の生息環境が得られないのは自明であって「三方一両損」はまあ、無いのだろう。「自然保護」「環境保護」と簡単に言うものの手間暇かけた年月の上に成り立った環境でもあるから自転車操業・水商売は続くのだ。
 行為を止めれば「自然に返る」とも言われるが、それが日本の自然なのかどうか小生には「曰く不可解」の範疇で荒廃に見える。かくして追いつ追われつの鬼ごっこは終われず「キャーロが鳴くから帰ろ!」なんて事にはならず足腰が泣くから帰るのだった・・・。