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とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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定刻発車

2005年06月07日 07時32分00秒 | 書評
去る4月に起きたJR宝塚線の列車事故以来、日本の鉄道の定時運行が「いかに悪いか」調の記事やコメントがテレビや新聞、雑誌に多く掲載されている。
本書は奇しくも事故の起こる直前に新潮社から出版された日本の鉄道の定時運行をレポートし、その歴史を追いかけたノンフィクション作品である。

日本の鉄道では定時運行の定義は「一分以上遅れないこと」。対して欧米では「十五分以上遅れないこと」が定刻運行の定義だという。
この時間に対する価値観が、日本の鉄道文化の特徴であり、強いては鉄道だけでなく日本人の生活すべての尺度なのだという意味合いが本書には著されている。
確かに日本の鉄道は正確過ぎるぐらい正確らしい。
列車が時間通りに駅を発車し、時間通りに次の駅に到着する。
これが水や空気のように当たり前の世界になっているのは、なにも鉄道が初めてではないという。
遠く鎌倉時代まで遡れる時間厳守の文化的要素が日本にはあり、江戸時代にはすでに時間通りに寺が市民に時刻を知らせるために鐘をつきようなシステムが確
立されていたり、それらが鉄道文化へと引き継がれたことを本書は論理的に検証しているのだ。

だからいくら鉄道憎しの人たちが「無理な定刻運行が事故を招いた」と叫んでも。本書を読めばそれは単なる通り一遍な批判に過ぎないことを理解することが
できる。

初めてタイのアユタヤを列車で訪れた帰りにアユタヤ駅からバンコクに帰ろうと切符を求めた。
手渡された切符には午後12時15分発の刻印が押してあった。
そのときすでに時刻は12時30分。
私はてっきりタイ名物の運賃のゴマカシにあってしまったのだと思った。
駅員に英語で詰め寄ると、ホームで待てというジェスチャーをする。
駅員が指さしたホームには多くの客が列車を待っている様子が見て取れた。列車はまだ到着していないのだ。
暑さにバテながらミネラルウォーターをチビリチビリ飲むこと1時間、午後1時30分にバンコク行きの快速列車はやってきた。
「この切符が、この列車か?」
と切符と列車を指さし駅員にジェスチャーで訊くと、「そうだ」とうなづいた。
停車した4両編成の気動車に大勢の乗客は粛々と乗り込んでいく。
「遅いじゃないか」と駅員に詰め寄る客は一人もいない。
カルチャーショックを受けつつ私は窓から吹き込む涼風に身を任せバンコクへ帰ったのだった。

5分遅れるとホームに人が溢れ、10分も遅れると駅員に詰め寄る客が現れる。
それが日本の鉄道風景だ。

本書は日本の鉄道の驚異的なメカニズムを知ることのできる実に面白い一冊だった。しかも著者が女性であることにも驚きを感じた。
なんせ鉄道オタクはほとんど男。
もっとも著者はオタクでもなんでもなく、経済関係のノンフィクションライター。
経済活動のメカニズムと鉄道運行のメカニズムは似ているらしい。

~定刻発車 日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?~ 三戸祐子著 新潮文庫

サマワのいちばん暑い日

2005年05月28日 16時33分36秒 | 書評
アップル社製品の話題を中心に最新ニュースとインターネットサービスを提供しているリンククラブという会社がある。
この会社の6月のニュースレターに昨年イラクで武装ゲリラに拘束された自称ジャーナリスト安田某の特集が組まれている。
さすが何度も問い合わせメールを送っても返事を寄越してこない不良会社リンククラブ。左巻きの迷惑ドアホ素人カメラマン安田某とは似たもの同士で懇意というわけか。

「サマワのいちばん暑い日」は、この安田某とはまったく正反対。現代の沢田教一か一ノ瀬泰造かといわれる報道カメラマンの不肖・宮嶋茂樹氏の最新刊である。

この週刊文春の名物カメラマン宮嶋茂樹氏。人気カメラマンの割に東京拘置所に収監されていた麻原彰晃の隠し撮り写真ぐらいしか代表作がないのがたまに傷だ。だが、この人のジャーナリストとしての功績は本業の写真そのものyりも、なんといっても自衛隊の素顔を多くの人々に伝え広めたことである。
遡れば宮嶋氏の愉快でシリアスなレポートは湾岸戦争直後、ペルシャ湾の掃海任務についた海上自衛隊の掃海活動のレポートに始まった。
そして戦後初めての日本軍(自衛隊)の海外派遣となったカンボジアのPKO活動を同行レポートした「ああ、堂々の自衛隊」で私たちに強烈なインパクトを与えてくれた。
週刊文春と契約しているとはいえフリーのカメラマンである宮嶋氏はその限られた予算から、カンボジアの自衛隊タケオ基地前にニッパヤシで掘っ立て小屋を建て、小さな日の丸を掲げて文藝春秋社タケオ支局を開設し、自衛隊に密着取材。50ccの原チャリに跨がって取材するところなど、お笑いを通り越して感動的でさえある。
大手メディアとは異なった、この独特の取材姿勢で、海外派遣された自衛隊員の規律正しく、しかも親しみ深い表情をユーモア一杯の生き生きとした文体で私たちに伝えてくれたのだ。

その後、このユーモア溢れるレポートはボスニア紛争、南極観測隊、北朝鮮、アフガニスタンなどと続いていったが、もちろんその主軸となる自衛隊の海外活動もデカン高原、モザンビーク、東チモールと続いてきた。
「イージス艦4隻の広報効果に匹敵する」
と本書でご本人も述べられているように、不肖宮嶋の戦場レポート・自衛隊レポートは読むものを飽きさせないばかりか、時にそのふざけた文体からは想像もつかない言い知れぬ感動さえ与えてくれるのだ。

本書は、昨年春、自衛隊のイラク派遣部隊を追って命がけでサマワに入り、三ヶ月にわたり現地を取材したレポートだ。
新聞やテレビでは決して伝えられることのないサマワにおける自衛隊の素顔を今回も清々しい目で伝えてくれている。
ただ今回、いつもと違っていたのは二人の同業者との接触を描いていることだった。
終盤数ページにわたって描かれた二人の同業者とはイラクで殺害されたフリージャーナリスト橋田信介氏とその甥である小川功太郎氏であった。
宮嶋氏が「上官」と仰いでいたベトナム戦争からの戦場カメラマン橋田信介氏とのその死に遭遇する4時間前の会話と死後の行動を通じ、さらにエセNGOやそれに寄生するジャーナリスト、無能な外務省役人の姿をしっかりと描写することにより、ジャーナリストの人としてのあり方、紛争地域で取材する者の信条をいつにもまして熱く語られていたのだった。
以前このブログで紹介した産経新聞取材班「武士道の国からきた自衛隊」(扶桑社)と併読すると、面白さが数倍に膨らむだろう。

~サマワのいちばん暑い日 ....イラクのど田舎でアホ!と叫ぶ~宮嶋茂樹著(祥伝社刊)

彼方なる歌に耳を澄ませよ

2005年05月21日 22時31分01秒 | 書評
20年以上も前に米国テレビでミニシリーズが人気を集めた時期があった。その先駆けとなったのが「ルーツ」だった。
「ルーツ」は黒人作家のアレックス・ヘイリーがアフリカで拘束され奴隷としてアメリカ大陸に売られて来た自らの祖先を取材した家族の歴史をたどる衝撃的なドラマだった。
このドラマが放送されると全米でルーツ探しのブームが巻き起こった。
拉致、奴隷という特殊な事情を持ったアフリカ系アメリカ人だけでなく。ヨーロッパやアジア大陸からやってきた多くの人たちが自分たちのルーツを探るべく、移民局や図書館、新聞社の資料を集めることに奔走したのだ。

「彼方なる歌に耳を澄ませよ」はカナダの作家、アリステア・マクラウドの唯一の長編小説で18世紀にスコットランドのハイランドからカナダのケープ・ブレトン島へ移り住んできた赤毛の男の一族の物語だ。
主人公はオンタリオ州で歯科医を営んでいる。
毎週彼は長兄を見舞うためトロントを訪問することにしている。孤独な生活を送る兄のもとを訪ねるのは年老い、自らの人生の傷を癒すためにアルコールの力に頼らなければならい兄をいたわるためではない。
なぜ主人公が毎週末数百キロの距離をドライブし、兄を訪ねるのか、読者は読み進むうちに彼らの家族の100数十年に渡る歴史から、そのわけを学び取るのだ。

この小説は三代にわたる一つの移民家族の歴史を追うことにより、父母と子との愛情、祖父母と孫との愛情を描き、現代では薄れていると言われている家族の絆を詩的な表現で描写している。
強引な盛り上がりは決してなく、静々と押し寄せては引いていくさざ波のような語り口は、やがて迎える物語のクライマックスで読者を深い感動の世界に引き込んでいくのだ。
それは誰もが体験する節目節目の喜びと、それとは反対の人生における避けることのできない苦難や、悲劇、そして時間がもたらしてくれる心の安寧を丁寧に描いているからで、人々はそれを共感を持って受け入れることができるのだ。
まさに本書の魅力はそこにある。

また筆者は短編の名手と言われているだけあって、長い物語の中で語られる小さなエピソードが胸を突いてくる。
例えば母方の祖父の話はとりわけ印象的なエピソードだった。
その祖父は最初の出産で妻を亡くした。その出産で生まれた一人娘が主人公の母だ。
祖父は妻を失って以後、再婚もせず男手一つで主人公の母を育てるのだった。
厳格な性格だった祖父は、しっかりとした教育で、誰の力も借りずに母を育てる。
母も祖父の影響を受け、真面目で美しい娘へと成長する。
しかし子育てのすべてを一人でこなしてきた祖父であったが悲しいかな男親であるがために、母が少女から大人の女性に変わるときに経験する女性のさまざまな生理的な変化をきっちりと話してやることができなかった。
そこで厳格な祖父は友人の家を訪問し、ためらいながらも、しかしはっきりと友人の妻に「女性のことを娘に教えてやってくれないか」と頼むのだ。
このシーンは忘れることのできない場面の一つだった。
その友人の妻が主人公の父方の母で、幼いうちに両親を亡くす主人公は母方の祖父と、父方の祖父母の暖かい愛情で育てられることになるのだった。

人の生というものはいったいなんなのだろう。
本書は時間と空間と、そして運命というものを、移民の一族を通じて語った、ルーツとはまた違う静かな大作だった。
~彼方なる歌に耳を澄ませよ~原題 No Great Mischief (新潮社刊)

大仏破壊

2005年05月13日 21時43分10秒 | 書評
どういうわけか、私たちが世の中の出来事の背景にあるものを知る機会は、まことに少ない。これは報道というものがいつも新聞の見出しよろしく「実際に起こったこと」しか伝えないことに原因があるのではないかと私は思っている。
しかしその「実際に起こったこと」へ至る経過というものが、実は起こってしまった事実よりも重要である場合が多いのだ。

「大仏破壊」は、その実際に起こってしまったことを、そのプロセスから追いかけた非常に興味深いノンフィクションである。
なぜなら、本書で実際に起こってしまったこととは「アフガニスタンのバーミアン大仏の破壊」であり、それに続く「9.11同時多発テロ」であるからだ。

本書を読むまで、あの世界遺産であるバーミアンの2体の大仏像破壊事件が9.11のプレリュードであったという事実に恥ずかしながら私も他の大勢の人たちと同様に少しも気付くことはなかった。
単に大仏破壊は偶像崇拝を嫌悪するイスラム過激思想のなせる技であり、9.11はアメリカを中心とする国際社会に対する単なるテロ行為だと思っていたのだ。つまり二つの事件に強い結びつきのあることなど、まったく連想することはなかったのだ。
しかも当時、アフガニスタンの大部分を統治していたタリバンとアルカイダとの関係などは、9.11以降になって初めて一般大衆が目にする多くのメディアで取り上げられるに至ったわけだ。
だから当然、これらの背景にあったアルカイダが導くタリバンの狂信化についてはまったくといっていいほど報じられることはなかった。

本書には印象に残る部分が数多く存在する。
国連のアフガニスタン担当の中核に日本人職員の姿があったことにも強烈な印象として残っているし、ともすればその狂気性ばかりに注目があつまるイスラム教に対しても、大多数のイスラム教徒が我々と同じように世界の平和と安寧を願って日々自分たちの教義を学んでいることにも強い印象を受けた。
問題のタリバン政府の中にもそういう知性を備えていた人たちがいたことも意外だった。
しかしなによりも、女性を迫害し、テレビや映画を禁止し、偶像崇拝に関するあらゆるものを禁止、破壊したタリバンという集団が、そういう狂信者集団に変化していく過程が克明に描かれていることに、最も驚きを感じるのであった。

ソ連との紛争に国民と国土が疲弊し、その後の内戦を鎮圧したオマル率いるタリバンが、初めは国内のみならず世界中の人々から歓迎をもって受け入れられた存在であったことは、終焉時のタリバンの姿とは似ても似つかないものだったのだ。
事実、イスラムに対する素朴な信仰がアフガニスタンを終わりなき内戦から一時的にせよ救ったのだった。
しかし、その素朴さがあだとなるとは誰も思わなかった。
素朴さゆえの「無知」な部分に、高い教養と豊富な資産、そして人の心を魅了して止まないカリスマとしての悪魔ビンラディンがアフガニスタンに亡命し、オマルという純真無垢な、まるで子供のような存在を次第に狂気へ導いていく様は、ノンフィクションであるだけに恐怖さえ覚えた。

大宅壮一ノンフィクション大賞受賞作。現代の世界情勢に関心ある者の必読の書である。

~「大仏破壊」高木徹著 文藝春秋社刊~

プルートウ

2005年05月03日 18時25分29秒 | 書評
コラボレーションという言葉がビジネスシーンで流行語になっている。Aという企業とBという企業が自分の得意分野を出し合ってCという新しいビジネスを起業するようなときに使用する言葉だ。
「プルートウ」はコミックの世界でのコラボレーションビジネスといえる。
原作は手塚治虫で、脚色作画は浦沢直樹という、昭和と平成の漫画界の巨匠による鉄腕アトムのリメイクだ。

この浦沢直樹版の鉄腕アトム「プルートウ」は、単なる手塚漫画のリメイクに終ることなく浦沢直樹の世界に完全に焼き直されているところが大きな魅力になっている。
半世紀前の原作では不自然に見えてしまう科学技術を、新しいセオリーを基にしてリアリティあるものに変化させているのは、ほんの手始め。
アトムではなくロボット刑事ゲジヒトを主人公にしていることから、物語は鉄腕アトムの世界というよりも、浦沢直樹が自らの作品カテゴリーに新しい風を送り込んで強烈なインパクトを残した「モンスター」の毒々しさを醸し出している。
このことから手塚治虫原作の匂いが消え去り、手塚治虫を知らない世代にはもちろんのこと、手塚世代にとってもまったく新しいコミックとして受け入れることができるのだ。

かと言って、手塚治虫のエッセンスが失われているわけではない。
手塚漫画の登場人物たちが物語の中に、あるいは背景にいることを時々臭わせ、ファンをドキドキさせてくれる。
たとえば「高額医療費を請求する日本人のもぐりの医者」などが登場する。

作画も手塚治虫のタッチにまったくこだわらず、すべてを新しいキャラクターとして描いているところが読者にとって衝撃的ですらある。
そのもっともショックの大きいものは、やはり一巻のおしまいに登場するアトムの姿だろう。

凡人がリメイクすると、きっと「巨匠」手塚治虫の創り出したアトム像を打ち砕くことはできなかったに違いない。また恐ろしくてできなかったに違いない。
しかし、浦沢直樹はあえて大きな冒険をし、そして成功しているのだ。
浦沢直樹が描き出したアトムの姿が、読者の想像からはまったく意表をついたものでありながら、アトムの個性は、そして現代における姿は、こうでなければならないだろうという確固とした答になっていたからだ。

もちろんアトムだけでなく、お茶の水博士、ゲジヒトをはじめとするあらゆるキャラクターについて同様のことがいえるのだ。

まだまだ半年で二巻が発行されただけで、物語は序盤を終ったに過ぎない。
しかし、手塚治虫と浦沢直樹という異なる時代の二人の作家が手を組んで、まったく新しい物語が生まれていることは確かなようだ。

もし手塚治虫が存命であったら、この新しいコミックを読んでなんと感想を漏らしただろう。
作者も読者も、ほんとうはそれを一番知りたいのかも知れない。

~プルートウ1、2 浦沢直樹x手塚治虫(小学館)~

パリは燃えているか?

2005年04月22日 21時29分58秒 | 書評
とりがら書評

1944年8月。
ドイツ占領下のフランスの首都パリは、まもなく到着してくるであろう連合国軍を今か今かと待ち受けていた。
解放の希望を抱くフランス国民と、決戦に臨まなければならないというドイツ軍のそれぞれの人間模様と生き様、そして死に様を、詳細な取材から収集した膨大な証言や資料をもとに描き出したノンフィクションの傑作である。

パリを制するものはフランスを制す。
ヨーロッパの珠玉パリという街を死守するためにアドルフ・ヒトラーは自軍に対し、「あらゆる手段を用いてパリを保持せよ」と指示をだした。
しかし、もし万一ドイツ軍が劣勢となり、パリからの撤退を余儀なくされたとき、パリの街を焼き払いポーランドの首都ワルシャワのように廃虚と化すまで徹底的に叩き潰すことをも同時に指示したのだった。

「パリは燃えているか?」
これは連合国軍のパリ入場が伝えられたときにヒトラーが側近に発した質問の言葉である。

実のところ、私は本書がノンフィクションであることも、パリ解放を詳細に取材した著名なドキュメンタリーであることもまったく知らなかった。
無知というものは恐ろしいもので「パリ」だから、ヨーロッパを舞台にした軟弱な恋愛小説かなんかかと勝手に思い込んでいたのだ。
早川書房から今回、ノンフィクション・マスターピースシリーズとして復刊したものが書店で平積みされているのを見つけたのをきっかけに購読することになった。

本書を読んで一番心に残ったのは、現代の世界情勢の中でのアメリカという国の地位が、この第二次世界大戦を通じて確固としたものになっていく様が、部分的にせよ明確に描かれていることだった。
多くのパリ市民が、入場してくる白い星印をつけたアメリカ軍の装甲車や戦車に群がり米兵に感謝をささげたのだ。史上これほどまで喜びを持って歓迎された軍隊はこのときのアメリカ軍以外にないであろうというくらい熱烈に迎え入れられたのだ。
そして、読者である私自身もここではアメリカ軍がフランスを解放する正義の軍であることを素直に受け入れることができるのだった。
しかしパリ解放の殊勲者としてのアメリカの姿は、そのまま半世紀後のバグダッド解放の殊勲者として受け入れることのできない複雑さを私たちにもたらしている。
パリ解放という美酒がアメリカという国を心地よく酔わせたものの、あまりに飲み過ぎたため、かなり悪酔いをしてしまったのではないか、とも思えてくのだった。
現在の世界情勢は、そのパリでの酔い心地が今もなお二日酔い以上のものとして残っているのではないかとの疑問を与えてくれている。

本書はパリ解放を描いているのだが、その後の歴史について、読者のイマジネーションを限りなく刺激してくる時空的にも途方もない広がりを与えてくれる、素晴らしいノンフィクションなのだ。

「パリは燃えているか? 上巻・下巻」ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピール著 志摩隆訳(早川書房)

あのブランドの失敗に学べ!

2005年04月06日 22時34分05秒 | 書評
とりがら書評

本書には誰でも知っている有名企業の失敗例が数多く紹介されている。中小企業に勤める私からすれば「ザマーミロ」などというお下劣な言葉がついつい口をついて出てきそうになってしまうのだが、よくよく読み進んでいくと、ちっともバカにできない事例やエピソードが一杯なのだ。

ブランドのカテゴリーからかけ離れた商品を発売したらその商品はいったいどうなるのか、といった内容から、企業の勝手な想像や予想で発売した商品が顧客の期待していた商品イメージとかけ離れていた場合、どのような仕打ちを受けるのかなど、具体的に実名を上げて分析しているので面白い。

ハーレーダビッドソンの香水や新味として登場したコカコーラの新商品ニューコークなど、見出しをみただけでなんじゃこりゃ、という商品もあれば、私たち日本人にも身近なソニーやゼロックス、マクドナルドなどの失敗例にも感心するとともにビックリする。

とりわけ印象的だったのは、新商品は現場から誕生するというポイントで、本社の企画部やマーケティング部門がいくら市場を分析して商品を発売しても、ヒットするかどうかはわからないということだ。
例えばマクドナルドのフィレオフィッシュやエッグマフィンが店舗から生まれたというのも驚きであったし、デルが自分の顧客の性格を知らずにiMacのコンセプトを真似て失敗したことなどは、実に興味深かった。
またブランドに寄りかかって消えていったポラロイドやローバーのような老舗や、デジタル化の潮流に乗り遅れたコダックやゼロックスの苦戦する姿は、多くの日本企業が抱える問題点と同じだろう。

一月ほど前、このブログにソニーが普通の大企業になってしまった、という内容のコラムを書いた。ソニーが銀行や証券業に進出したことはエレクトロニクスに旗手であったブランドの意味を曖昧にさせてしまうのではないか、という趣旨だった。
本書はまさにそういうブランドに対する間違いや誤解から生じた失敗例で溢れているのだ。
ソニーの失敗例は本書では「ベータマックスビデオ」と「映画 ゴジラ(米国版)」が取り上げられている。

ビジネス書として読むことはもちろん「なるほど書」の類いとしても読むことのできる一冊だ。

~あのブランドに学べ! 世界で笑われた有名企業60の恥事例~ 
マット・ヘイグ著(ダイヤモンド社)

米英における太平洋戦争 上巻

2005年03月28日 20時45分39秒 | 書評
とりがら書評

本書は、英サセックス大学教授の故クリストファー・ソーンがその研究成果をまとめた学術論文である。
永らく気になっていた本書だが、価格とその長さに躊躇してなかなか手を出せずにいた。しかし、そのまま放っておくと永遠に読む機会を逸してしまいそうなので、思い切って買い求めたのだ。

本書には書簡や速記録などの膨大な物理的資料と、当事者からのインタビューといった信頼できる調査資料に裏付けされた、太平洋戦争時の連合国の真の姿を浮き彫りにしている。
まえがきに「一部の読者に反対のみならず、怒りの念さえかきたてるものがあるだろうと思われる」という著者による記述が見られるが、本書を読むと、なぜ栄光に包まれていたはずの連合国側の人々が本書の内容に不快を感じてしまうのか、すぐに理解することができるのだ。

ついつい私たち日本人は太平洋戦争、または大東亜戦争というものを自分たちのポジションから眺めてしまいがちである。
しかし、ひとたび勝った連合国側の位置から見てみると、こんなにもドロドロした外交の綱引きが交わされていたことに驚かされる。しかも、本書を読むまで、当然疑問にもっても不思議のなかった事実にさえ、目を向けていなかった自分に気付き、がく然とするのだ。

たとえば本書を読むと、なぜ戦後、私たち日本人が戦っていた複数の相手から、米国のみが日本の占領軍となりえたのかという回答が本書の中には論じられている。
普通なら、英国やオランダ、オーストラリアに中華民国、そしてソ連が日本に進駐し、戦後統率するのが戦争への参加国の構成から見ると自然である。
しかし、現実には終戦時に日本を占領できる国力を保持していたのはわずか米国だけであったことを一般の歴史教育では学ぶことがない。
また、太平洋戦争が始まった時、すでに大英帝国はその領土をあまりに広げすぎていたため、かつてのモンゴル帝国のように、厳格な統一ができなくなりつつあったことや、大戦中すでに「英国はその広大な植民地からの富を搾取し続けなければ大国として維持していくことができない」というある米国の政府高官の冷静な分析があったことは、新鮮な驚きである。
「戦後フランスはもとの大国の地位を取り戻すためには20年以上の歳月が必要だろう」と言われていたことについては、戦後フランスが躍起になってインドシナの主権を主張し、紛争へとつながりディエンビエンフーの戦いでベトナム民兵に完敗してしまう歴史と照らし合わせると合点が行く。
さらに日本という非白人国家が、東南アジアで白人たちを追い回し、インドやミャンマーなどの独立運動家にまがりなりにも独立政府を設立させ、自信をつけさせていくことに対して、米国やイギリスがとりわけ戦慄していたことも興味深い。
ただ米国のみが「植民地の独立」についての考え方が他の連合国と異なっていたことも、私たちが考えることのなかった歴史の中の国際政治と言えるだろう。
この米国だけの違いが、戦後の国際社会における米国の地位を築き上げたといっても過言ではない。

自国の戦争責任を叫ぶ人が、未だに絶えることがない我が国だが、もっと広い視点でとらえなければ、先の大戦の意味を掴むことなどできないだろう。
別の角度から太平洋戦争を眺め、現代と変わらない空恐ろしい政治的駆け引きと、民族、人種の戦いと偏見が渦巻いていたことを知ることができる驚くべき本書は、近代史に興味を持つものの必読書である。

クリストファー・ソーン著「米英にとっての太平洋戦争 上巻」(草思社)

タイムマシンをつくろう!

2005年03月05日 20時20分20秒 | 書評
とりがら書評

とんでもない本を買ってしまった。
なぜなら、まったく何が何だか理解できないからだ。

たまたま入った古書店で本書を見つけた。以前、一般の書店の新刊コーナーで平積みされているのを目撃したことがあり、少し気になっていた書籍だった。
古書店で売られているわりに、表紙や中身に汚れもなく、ほんとんど新刊本に近い外観だった。いったいいくらで売られているのだろうと背表紙を開いて、値札をチェックしてみるとたった350円だった。
普通に買えば1400円程度する本書の、ほとんど新品に近い状態の古本を350円で買うことができる。
ということで、タイトルと販売価格につられて購入したのが本書を読むことになったきっかけだった。

大きな文字で、わかりやすい文書。そしてチンプンカンプンの内容。
書いている人も、ちゃんとした物理学者で、この手の本によくある「とんでも本」作者でもない。
しかし専門家が書いているだけに、分かりやすく書かれているように見えても、一般人で知能指数平気点の私には中身を理解することなど、まったくできなかったのだ。
ちょうど簡体字でない中国語書かれた桃太郎を読んでいるようなものだろう。
本書を読んで理解できたことは、なぜこの本が汚れることなく美しいまま古書店に並んでいたのかという理由ぐらいだろう。
きっと前の持ち主も私と同様、面白そうだからと買っては見たものの、内容がさっぱりわからず途中でやめて、古書店に売り飛ばしてしまったのだろうと想像される。
私自身は理解できないながらも最後まで読破したことが、きっと先の持ち主と異なるところだろう。

さて、本書の内容はSF的な要素を除外した、現在の物理学の常識を駆使してタイムマシンを作るにはどうすればよいのかということを、科学エッセイ風に仕上げている。
問題は、随所に出てくる科学用語だ。この科学用語の内容さえ理解していれば、本書を読むことはさして難しくない。
もし私が、アインシュタインの相対性理論や最新の素粒子理論を、小学生でもわかるように、かみ砕いて説明する能力を持っていれば、決して内容を理解するのは困難ではないのだ。
ところが、これらの高度な物理学理論はとても有名なので名前ぐらいは知っていても、その中身となれば、物理学を専門に勉強している人でもかみ砕いて説明できる人はごく僅かでないかと思われる。
本書も、所々に映画「バックトゥーザフューチャ」を引用したり、イラストに近い図を入れて私たち読者に語りかけてくれているのだが、なかなか理解するに至らない部分も多い。
ワームホールなどという一部のSFテレビ番組で待ちいられる時空トラベルの解説が出てくる箇所などは、その番組のいくつかのシーンを思い出しながら、自分のイマジネーションを総動員して理解しようと努力してみたが、「なるほど~、フムフム」というわけにはいかなかった。

読後の感想は、最新の物理学を利用してタイムマシンを考えるということは、どこか哲学めいて、ある種の宗教における伝説や挿話を聞いているような気分になってくる、ということだった。
机の引き出しから猫型ロボットが出てくる漫画の世界はわかりやすい。
しかし、現実の科学は途方もなく難しく、一見実現不可能な世界のようにさえ見えてしまう。
だからこそ、タイムトラベルは空想作家だけでなくプロの物理学者をも魅了するテーマなのだろう。

「タイムマシンを作ろう」ポール・デイビス著 草思社刊

バッテリー

2005年02月24日 20時55分50秒 | 書評
とりがら書評

久しぶりに爽やかな少年物語に出会えた。
本書の帯に「こんな傑作をよんでこなかったのかと猛烈に反省」という北上次郎の寸評が載っていた。
なとなく川上健一の「翼はいつもでも」を思い出し、これは面白いのではないか、と予感したのだ。
ここのところ、どういうわけか面白い本に出会うことが出来なかったので、少し欲求不満になっていた。仕方がないので、何度も読んだことのある書籍を本棚からとり出して通勤途中などに読んでいたが、どうもすっきりしない。
たまたま家の近くの書店で平積みにされているのに、ぱっと目に留まったのが本書だった。

小学校を卒業し、中学校へ上がる春休みに主人公の少年は父の転勤のため岡山の山間にあるとある街に引っ越してくる。
少年は少年野球のエースだった。
リトルリーグでは県大会の準決勝まで勝ち進んだ経験も持っていて、とても自分の力に自信を持っていた。
だから引っ越した先の中学校でも野球を続けようと思っていたのだ。

新しい土地の新しい友人、病弱な弟、少年に無関心だなと思わせる母、そして真面目そうな父、かつて高校野球の監督をしていた祖父。多くの人に囲まれて少年は成長して行くのだ。
とりわけ少年の前に現れた新しい友人とのライバル心や、秘かに持ち続けている弟に対する嫉妬など、心理描写が優れていて、読者は知らず知らずのうちに物語の中に引き込まれて行く。
しかし、このドラマはよくある突拍子もない単なる少年の成長物語にとどまらず、私たちがかつて主人公と同い年ぐらいだった頃、自分は果たしてどういう少年だったのかな、と考えさせる奥深さを備えているのだ。

あさのあつこ、という作者の作品は読んだのは今回が初めてだったが、どうしてこうまでも少年の気持ちが理解できるのか、不思議な感覚にとらわれた。
女性である作者が少年という幼いが男の心を捉えているその触覚に少しく恐ろしいものさえ感じたのだ。
女流作家には、ときどきこういった感性の秀でた人が出現するようだ。
漫画家の高橋留美子もそういう作者のひとりだという感想を持ったことがある。
20年ほど前に漫画雑誌に連載されていた「めぞん一刻」というコミックもそれで、これを初めて読んだとき、どうして男の微妙な心理が読めるんだ、と不思議に感じたものだった。

暗さがなく、キラキラと輝くストーリーは先に述べた川上健一の作品と共通するが、それとはまた一味違った爽快感と緊張感が溢れていた。
また、作者が岡山の出身ということもあり、作中に使われている岡山弁が物語にリアリティを与えて、厚みを醸し出していたことも忘れ難い。
本書は児童書のジャンルに入るらしいが、なんのなんの、私のようないい大人でも十分以上に楽しめる逸品だった。

本作は「バッテリー2」「バッテリー3」と続くようで、物語のその後を知るのが楽しみではある。がしかし、しばらく時間を置いて、一作目を読んだ気分を熟成させてから、読み始めたいと思った。

「バッテリー」あさのあつこ著(角川文庫)