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とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

不自然・走れ!T校バスケット部

2008年10月01日 06時21分01秒 | 書評
「読み出したら止まりません」
本書の帯に書いてあったキャッチを読んで「何がそんなに魅力的なのだろうか」と思って買ってみた。
そして読んだ。

私も読み出したら止められなかった。
しかし私の場合はこの小説がエキサイティングで面白いからではなく、登場する主人公の高校生が良いヤツばかりなので「こりゃ、あまりに不自然だ。さっさと読了して次の本を読もう」ということで、止めることができなかった。
つまり、あまり面白い物語ではなかったのだ。

主人公の高校生やその父兄、先生たち。
この人たちはまるでおとぎの国の人びとのように善良で「苦」というものを一切感じさせない人工的な雰囲気が漂っている。
まるでスタートレック・ヴォイジャーのエピソード「ドクターの家庭」に登場した理想の家族のような人びとなのだ。
と、言っても「そんな番組、ワシャ知らん」という読者も多かろう。

念のため説明するとスタートレック・ヴォイジャーというテレビ番組に登場するドクター(船医)はホログラムで、彼は自分が理想とする家族を自らプログラムして作り上げるのだが、あまりに理想的すぎて『こんなのあり得ない』と主任エンジニアのトレス中尉に批判されてしまうのだ。

理想的な家族は、不自然でつまらないのだ。

この物語の登場人物はパラダイスの住人のように理想的なのだが、その分不自然だ。
葛藤も少なく、物語そのものに意外性が無い。
読み進んで行くうちに、
「次はこういうふうに展開するんだろな」
と思ったら、その通りに展開するのだ。

まるで水戸黄門である。

水戸黄門はその定型スタイルが人気の秘密と言われており、決まった時間に風車の弥七が現れ、決まった時間に由美かおるが入浴し、決まった時間に黄門様が「助さん格さん、こらしめてやりなさい」と命令し、決まった時間に「ひかえおろー」っと印籠が掲げられるのだ。
決して助さんも格さんも、もちろん黄門様もケガをしたり死んだりすることはない。
要は視聴者が望んでいる通りに物語が進むのだ。

この小説の物語もまさにそれ。
読者が考えている通りに物事が進み、勝つべきものが勝ち、負けるべきものが負けるのだ。

ということで、この小説。
面白くないことはないが、心の底から楽しめるのはきっと単純素朴な人に違いない。

~「走れ!T校バスケット部」松崎洋著 彩雲出版~

現代の企業・報道問題に通じる鈴木商店焼打事件「鼠」

2008年09月27日 16時32分33秒 | 書評
どういうわけか、一般に学校では日本史の時間に経済史を教えることはない。
たとえば、住友(泉屋さん)や三井(越後屋さん)のように時代劇に登場してくるような企業についてはちょこっと数行だけ記述していることが無くもないが、他の企業については教えられることはない。
これは日教組が「企業の歴史を教えることは資本家を讃えることに繋がる。教育は広告ではない」などと思っているからかも知れず、ただ単に多くの歴史家が人びとの生活に最も密接に関わっている企業の栄枯盛衰に着目していないだけなのかもわからない。

したがって私のように経済史をちっとも勉強してこなかったアホたれは、神戸製鋼、テイジン、IHI、豊年製油、三菱レイヨン、双日、サッポロビールなど、現在でも知られるこれら多くの大企業が鈴木商店という今ではほとんど知るものがいなくなった1個の商社を頂点として繋がっていたことなど、城山三郎著「鼠」を読むまではまったく知らなかった。

そして大正時代に三井を凌駕するほどの大企業に成長した鈴木商店が米買い占めの嫌疑をかけられ、無数の暴徒により焼打された事件があったことなども知らなかった。

城山三郎の「鼠」は鈴木商店という忽然と現れて、また忽然と姿を消した企業の栄枯盛衰を描いている。

急成長した会社は何かしらの問題点を抱えており、ある時はその問題点が覆い隠されてその企業は時代の寵児として讃えられるが、ある一線を越えると、その企業は問題点をさらけ出され、或いは噂を振り撒かれ世間から強烈に叩かれることにもなる。
近年のライブドアもそうであったが、鈴木商店は明治から大正期における時代の寵児であり、その姿はまさにライブドアを彷彿させる強烈な個性なのだった。

このノンフィクション小説では鈴木商店の番頭・金子直吉にスポットが当てられているが、私にとって最も印象的だったのはマスコミ、この時代は特に新聞のとった感心することの出来ない報道姿勢というのが強烈に記憶に残った。

根拠の乏しい噂や憶測、そして大衆が迎合するであろう作り話など、今の報道機関も度々やっては問題になる様々な行為が生々しい。
鈴木商店を「政府の高官と癒着して大もうけしている悪徳会社」と印象づけようとする大阪朝日新聞のいい加減な報道ぶりは、やがて鈴木商店の本店が群衆の焼き打ちに遭う形で終結するが、そういう結末を迎えても政府の介入を赦すまで反省することもなかった。

これもまた近年のライブドア報道と同じだった。

これも現在のマスコミと同じで自分たちの誤報や捏造記事を容易に認めようとしない体質は1世紀近くも前にすでにでき上がっていたことにがく然とする。

タイトルの「鼠」には様々な意味が込められていたのだった。

~「鼠 鈴木商店焼打ち事件」城山三郎著 文春文庫~

Y助教授のネタ本「アイデアのつくり方」

2008年09月21日 08時21分32秒 | 書評
「既存にあるAというものとBというものを足すとCという新しいものになります」

「ふ~~ん、なるほど」
ということを大学時代に教えてくれたのは写真論を担当していたY助教授。
確かに世の中、なにもかも新しいものではなくて既存の技術を組み合わせて新しいものを作っていることに気がついたのがこの時だ。

社会人になってからも、書籍やテレビなどを通じて、
「新幹線は1960年代当時での既存の技術ばかりを寄せ集めて作り上げた」
とか、
「iPodは既存のMP3の技術とHDと誰かが作った音楽整理ソフトを組み合わせて誕生した」
なんていう話を聞くと「Y助教授の話はますます正しい」となっていった。

どうやら、このY助教授のネタ本はジェームズ・W・ヤング著の「アイデアのつくり方」であったらしい。

先日、ある雑誌を読んでいたら東京にある某プロダクションの企画マンの話が載っていて、
「うちの会社では新入社員に必ずヤングの「アイデアのつくり方」がわたされるんです。それで企画の基礎を学べって」
そのプロダクションは洒落たFMラジオ番組や映画などを製作しているところなので、
「その「アイデアのつくり方」を読んでみたい」
と私は早速大阪市内の書店でそれを探し買い求めたのだった。

この本のことを知らなかった私は結局のところ「無知」なわけであった。
この本は広告宣伝、企画といったものを生業にする者にとってはバイブルのような書籍なのだった。
知らなかったことを大いに恥じ入らねばならない。

その内容の最大の焦点は20年以上も以前にY助教授が教えてくれた冒頭の言葉なのだった。

本書そのものは非常に古く、最初に日本で出版されたのが1961年のことなのだからY助教授もよくご存知だったわけだ。
先生は私の在学時代もT社やH社といった百貨店の広告に携わっていらっしゃったし、その道何十年だったので、本書を読んでの言葉か、それとも自分で考え抜いた言葉かはわからない。
今となっては確かめる術もないのだが(すでに故人)、たとえY助教授のネタ本でなかったとしても、なかなかためになる一冊だった。

~「アイデアのつくり方」ジェームズ・W・ヤング著 今井茂樹著 竹内均解説 阪急コミュニケーションズ~

大阪人の旅はこんなんではない「大阪人、地球に迷う」

2008年09月20日 20時00分34秒 | 書評
旅のエッセイといえば、シリアス系では沢木耕太郎の「深夜特急」がもちろんベスト。
おふざけ系ではタマキングこと宮田珠巳の「東南アジア四次元日記」がベスト。

いづれも私の勝手な評価だが、わかぎゑふ著「大阪人、地球に迷う」は「シリアス系」にも「おふざけ系」にも分類されない、しいて言えば「つまらない系」のベストに列したい旅のエッセイだった。

だいたい「大阪人」と本のタイトルにあるような「大阪人ならではの旅エッセイ」という印象はまったくなかった。
正直、この本のタイトルに含まれる「大阪人」ないし「大阪」は、この本を売るがための「大阪ブランド」の悪用ではないのかと思えるのだ。

つまりそれほどショーモナイ旅エッセイだった。

ただ全部が全部ショーモナイということもないのが救いではある。
確かに冒頭の30ページぐらいは読むに堪えるのがかなり難しい、たとえば桂朝太郎の同じ手品を5回以上見ているような退屈さを感じるのだが、たまに「冒険レストラン」なんていう、かなり笑えるエッセイも収録されていて、途中で読むことを諦めるとちょっとは後悔するのではないか、と思える部分がないこともない。

ただし、「大阪人が旅をしたら」なんていうような、表紙のタイトルを見て購入した私のような読者の心を裏切るには思いっきり十分な内容だから注意が必要だ。
最後の最後まで「大阪人の日本人の中でも、かなり変わったアグレッシブな行動力がもたらす旅への影響」を期待していたので、読み終わった時に「あ~、マンガでも読んどくんやった」というような後悔に包まれてしまったのだ。

著者は大阪に本拠を置く劇団の座長であるだから、せめてその座長としての視線を通してもっと旅を厳しく可笑しく語って頂きたかった。
「ブロードウェイ」について書かれている記述でさえ、正直、私のシカゴレポートの方が面白いと思えるような内容なのだ。
せっかくブロードウェイに行っているのに劇団座長としての視線がゼロなのであった。

ともかく「大阪人による大阪人ならではの世界の旅」を期待してこの本を購入すると大失敗をすることをお伝えしたい。

~「大阪人、地球に迷う」わかぎゑふ著 集英社文庫~

ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記

2008年09月15日 11時44分39秒 | 書評
大阪本町にあるとあるドトールコーヒーで私は買ったばかりのコーヒーを誤ってひっくり返してしまったことがある。
衣服にはつかなかったが床を汚してしまった。
一瞬、どうしようかと思ったところへ店のスタッフが飛んで来て、

「大丈夫ですか?ケガはなさりませんでしたか?お洋服は汚れてませんか?」

と気づかってくれた。
コーヒーを買いなおさなければ、と思ったところに、

「新しいのをお持ちしますから」

と気持ちよく新しいカップにコーヒーを入れ直して持ってきてくれた。
正直ビックリした。
たった1杯180円のコーヒーの店。それもセルフサービスの店でこれだけの気持ちよい対応を受けるとは予想さえしていなかった。
同様の経験はモスバーガーでもある。

成功している飲食店とはこういうものかと、その有り難く心地よい精神に感動したものだった。

ところで成功している会社の創業記を読むと、なんとなく勇気を与えられる。
ソニーやホンダの創業記しかり、アップルコンピューターの創業記しかり。
しかしそんな華やかな世界企業だけではなく。国内で成功を収めている企業の創業記にもとっても魅力あるものが少なくない。

「ドトールコーヒー『勝つか死ぬか』の創業記」はドトールコーヒーの創業者鳥羽博道会長が著した創業記だ。

1杯200円のドトールコーヒー。
私が利用し始めた頃は180円だったが、この安くて気軽に飲めるコーヒーを市場に浸透させる苦労話はちょっと古いがプロジェクトXだ。
業界他社からの「成功しない」の批判を浴びながら、1980年代以降急成長を遂げるそのスタイルは、時代を読み、なおかつ「成功するまで諦めない」という秘訣の実践を私たち読者に身をもって示してくれている。
そして喫茶店、あるいはcaféという空間が、単なるコーヒーを飲むだけの店ではなく、誰もが気分良く雰囲気を楽しめる場所でなければならい。
つまりビジネスというものは利益を追求することではなくお客さんに「喜んでいただけるものでなければならない」ということに基本があることを思い返させてくれるビジネス書だ。

~「ドトールコーヒー『勝つか死ぬか』の創業記」鳥羽博道著 日経ビジネス文庫~

サイゴンから来た妻と娘

2008年09月13日 13時41分08秒 | 書評
実のところ近藤紘一の著作に出会わなければ東南アジアへの関心の質も随分と違った形になっていただろうと思う。
とりわけベトナムへの興味の持ち方は全然違っていたの違いない。

ベトナムへはまだ一度しか訪問していない。
が、初めてホーチミンの空港を降りたってサイゴンの街をタクシーで走り抜けた時に感じた直感的な印象は他の東南アジア各国を最初に訪れた時の中でも最も爽やかで新鮮なものだった。

タイのバンコクやシンガポールは空港から市内への景色が日本とあまり変わらず驚きはすくない。
辛うじて南国独特の背の高い木々や、バンコクであれば黄金色に輝く仏教寺院の尖塔が目に付くことが日本と異なる部分だろうか。
また、初めてのミャンマーを訪れた時は夜だったので景色はほどんど見えなかった。
そういう意味では日が沈みきらない夕暮れのサイゴンの街並みは活気に溢れ、タクシーの窓から流れ込んでくる涼やかな風は、どことなく懐かしさを含んだ心地よさを私に感じさせてくれたのだ。

そしてまた、そう感じたことは近藤紘一の一連の著作で受けたていたベトナム・サイゴンのイメージと現実のベトナムと重なり合っていたからかもわからない。

初めて読んだ近藤紘一の著作は「サイゴンのいちばん長い日」というエッセイだった。

私が小学生の頃、テレビのニュースは連日ベトナム戦争について報道を繰り返していた。
頻繁に登場するニクソン大統領や、ソビエトの映像。
ヒッピーや全学連などの「大学生のおにいいちゃん、おねえちゃん」たち分けのわからない人たちの映像が盛んに流されていたように記憶する。
今では明らかに「文明の衝突」だったと認識できるあのベトナム戦争の生々しい「空気」を、イデオロギーではなく、人びとの生活を通して、大人になった私に教えてくれたのが「サイゴンのいちばん長い日」だった。

その生活臭溢れる、まさか新聞記者が書いたとは思えないエッセイは新聞記事や歴史書や、まして旅行作家が書き連ねたベトナム本とは一線を画していた。
やがと「サイゴンから来た妻と娘」に始まる一連のエッセイで、私のこの国に対する「戦争」「共産主義」「難民」などといったイメージが根底から書き換えていたのだ。

ここのところ仕事やプライベートなことで忙しく旅に出ることができなくている。
たったの一度しか訪れたことはないけれど、あのサイゴンの風を感じてみたくなって「サイゴンから来た妻と娘」を再読してみた。
ベトナムを感じてみたくて、
活気に満ちたあの空気を感じてみたくて、
そして著者の家族に対する愛情に触れてみたくて、再読した。

偶然にも私は著者の娘と同い年である。
彼女が、そして著者の妻であった人たちが今何をして、そしてすでに世を去って20年になる夫であり父である著者に今何を感じているのか。
とっても知りたくなるのだった。

~「サイゴンから来た妻と娘」近藤紘一著 文春文庫~

メチャ痛快の、よろずや平四郎活人劇

2008年09月01日 20時08分19秒 | 書評
汚職
通り魔殺人
食品の産地偽装
期限切れ食品の再使用
政治家秘書給与のごまかし
などなど

世の中、暗くジメ~とした話題で溢れている。

「こんな暗い雰囲気、吹き飛ばしたい!」
と叫ぶあなたにぴったりの時代小説が藤沢周平著「よろずや平四郎活人剣」(上下巻)だ。

十数年前に放送されていたNHK金曜時代劇「腕におぼえあり」の一部エピソードに転用されていた連作小説だが、主人公は青江又八郎ではない。
青江は「用心棒日月抄」の主人公。
こちらの主人公は神名平四郎という旗本の妾腹の子である。

しかしその爽やかで快活な主人公と各エピソードは「腕におぼえあり」をも凌駕する。

クセのある浪人仲間の他の二人と剣道場を構えようとするところは、
「脱サラして自分の会社を持ちたい」
「今はニートだけど、いつか自分の店を持つんだ」
という人には多いに共感を与えるだろう。
もちろん私も共感した。

そしてひとつひとつのエピソードにちりばめられた市井の人間模様がこれまた心憎い。
登場する人びとがこれまたいいのだ。
商人の放蕩息子を立ち直らせた身よりの無い娘。
その娘に初めは偏見を持っていた主も、やがて息子が射止めた娘を大いに気に入るようになる。
こういうところは上手い芝居を観ているような爽快感がある。
そして、嫁に文句も言えない旦那が、強くなるエピソードや、敵討ちのピソード。
どれもこれも感動物だ。

で、一番ドキドキわくわくするのは平四郎の元許嫁、早苗との関係だ。
主人公とその元許嫁の関係が、これまたドキドキわくわくの江戸時代青春小説の雰囲気を醸し出している。

ともかく読み終わったとで、「続きを読みたい!」と叫びたくなる傑作だ。
でも、これも池波正太郎の鬼平の続きが読みたくても読めないのと一緒で、藤沢作品の続きも読むことはできないジレンマにやりきれないイライラを感じる。

なんで、人には寿命はあるのだろう。

~「よろずや平四郎活人剣」上巻 下巻 藤沢周平著 文春文庫~

ジョージ・ブッシュが日本を救った

2008年08月30日 16時15分38秒 | 書評
初めてミャンマーを訪れた時、最も訪れてみたい場所は、有名な名刹シェダゴンパゴダでもなく、ゴールデンロックでもなく、日本の兵隊さん達を弔っている日本人墓地でもなかった。
最も訪れたかった場所はインド・ムガール帝国最後の皇帝のお墓であった。

日本が明治維新を迎えて世界の歴史に登場したちょうどその頃、イギリスはインドおよびミャンマーの植民地化をほぼ完了した。
イギリスの統治は過酷だった。
インド、ミャンマー両国のプライドと歴史を粉々にするために両国の元首を相互の国に拉致し監禁し、死に至らしめた。
ミャンマーのミンドン王は首都マンダレーから連行されインドへ。
そしてインドムガール帝国の皇帝パファードル・シャー2世はミャンマーへ連行された。

そのパファドール・シャー2世の墓を訪れることが私の最大の目的なのであった。
この墓を訪れることは欧米列強の植民地支配の実態を生で見て感じることができると考えたからだ。

ところで、このインド最後の皇帝の墓がミャンマーのヤンゴンにあることはミャンマー唯一の旅行ガイドブック「地球の歩き方」には書かれていない。
日経BP社から出版されている旅名人ブックス「ミャンマー」にも掲載されていない。
さらに、あのバックパッカー専門誌「旅行人」にも掲載されていないのだ。

これだけ歴史的に重要なスポットがなぜ掲載されていないのか。
その理由はまったく持って不明だが、単なる無知か、ミャンマー関係の編集者であっても興味がないのか、ほとんどの人びとに知られていないのだ。
ちなみに地元ヤンゴン市民でも知る人は少なく、私のガイドを務めてくれたミャンマー人ガイドのTさんはもちろん、現地旅行社のスタッフも知らないのであった。

このような超マイナーだがとっても重要なスポットの存在を何故私が知っていたかというと、高山正之の著作を読んでいたからだった。

週刊新潮に変見自在というタイトルのコラムを連載している高山正之はユニークなコラムを多数執筆している。
それらの共通した特徴は「世間では常識にされているものが、実は大嘘であったりまやかしであったりすることが多い」ことを実例を挙げながらズバッと論破していることだ。
インドの皇帝の墓についても、確かアジアンハイウェイの取材の途中のピソードとしてミャンマーのことが記されており、そこにかかれていたと記憶する。

このように、当然知るべきことが(ま、インドの皇帝の墓がヤンゴンにあることを必ずしも知る必要はありませんけど)メジャーな新聞やテレビでは取り上げられない。
それを正面から取り上げているところが著者の魅力だ。

新刊「ジョージ・ブッシュが日本を救った」も、前作(スーチー女史は善人か)、そして前前作(サダム・フセインは偉かった)に続いて奇抜なタイトルだが、ブッシュの悪口ばかり言っていると、表面ばかりしか見なくなり、その後ろに隠れていて注意しないと見えないものを見失うことが良くわかるコラム集だ。
ただ、朝日新聞の悪口(尤も、書かれていることは事実ですけど)には、ちょっと食傷気味な気配はある。

週刊新潮連載の痛快コラム集第3弾。

~「ジョージ・ブッシュが日本を救った」高山正之著 新潮社刊~

新薬誕生

2008年08月23日 13時13分33秒 | 書評
私は子供の頃、アメリカのTVコメディ「じゃじゃ馬億万長者」が大好きだった。
ド田舎の一家が石油を発見してしまったために大金持ちになり、ビバリーヒルズへ引っ越して来て大騒動を引き起こすという、今では描けないような田舎者をコケにした凄い番組だ。
ドラマの最大の魅力は登場人物のキャラクター設定であった。

一家の長ジェド・クランペット。
いつも騒動の原因を作り出す甥のジェスロ。
美人だがアホな娘のエリー。
欲の塊・銀行の頭取さん。
頭取さんを支える秘書。

そんなハチャメチャのキャラクターの中、最も輝いていたのが「おばあちゃん」。
アイリーン・ライアン演じるメチャ痩せチビのばあちゃんは凄い人であった。
様々な得意技を持つばあちゃんでだったが、中でも最も得意としたのが「薬作り」。
アメリカのド田舎に伝わる中国人もビックリの民間薬は、あらゆる病気に対応していたように記憶する。
尤も、それらは薬というよりも魔女が作る中世ヨーロッパの黒魔術で抽出したもの、という感がないでもなかったが。

で、ロバート・L・シュック著「新薬誕生」はそんなドタバタコメディの胡散臭い薬の話ではなく、世界最大手の製薬会社がいかにして新薬を開発しているのかを素人にも分かりやすく書き記した医療ドキュメンタリーだ。
8っつの製薬会社の8つの薬の開発物語と、それぞれの会社の成り立ちが紹介されていて、ビジネス書、経済歴史書としても面白い。
ほとんどのケースが、ここ10年ほどの間に開発された最新の薬品に関するもので、驚くことが沢山あり、なぜ「あの有名人が死んで、あの有名人が病魔から復帰したのか」納得できるような内容も書かれていた。

薬品の世界で最も驚くべきことは、ほとんどの薬品は20世紀に入ってから開発されたということだ。
人類は19世紀までその科学的証明のなされていない、いわば「ばあちゃんの薬」を飲んでいた。
じゃじゃ馬億万長者の世界を笑うことはできないわけで、このテレビ番組が放送されていた1960年代から70年代にかけてでさえ、本書に取り上げられている薬品は開発されることさえ想像できなかったものばかりだ。

ここ数年、製薬会社はビッグな合併を行い会社規模を拡大している。
その後ろには膨大な研究開発費が必要とされているということは日経新聞などでよく言われていたが、もうひとつ何故なのかよくわからない部分があった。
本書を読むと、その投資額と、その途方もない規模のギャンブル性に経済ニュースの背景を実感することもできる。

一般の人でも楽しめる、とは思うのだが、そこは科学ドキュメンタリー。
難しいところも少なくない。
それでも、読後はあのJ・トールワルドの「外科の夜明け」に匹敵する驚きと感動を感じることの出来るノンフィクションだった。

~「新薬誕生 100万分の1に挑む科学者たち」ロバート・L・シュック著 小林力訳 ダイヤモンド社刊~

天下りシステム崩壊

2008年08月07日 06時29分31秒 | 書評
「日本はどうしてこんなに猟奇的な殺人事件が増えたんでしょう?」
「それは社会のリズムが狂い始めているからじゃないかと思います」

というような会話を英会話スクールで最近交わすことが多い。
街中で突如発生する身勝手な無差別殺人。
親殺し。
エリートによる性犯罪。
などなど。

悲しくなってくるニュースばかりだ。

日本社会が持っていた独特の平和と安定を破壊している原因のひとつが、私は役人の倫理崩壊と身勝手な考え方にあるのではないかと思っている。

へ理屈をこねまわし、権利を主張するが責任はとらない。
汚職やごまかしは平気で行い、発覚すれば「不運」とばかりに仲間内で傷の舐め合をする。
こういう醜い体質が国のリズムを狂わせているのだと考えている。

例えば年金問題。
システムに不備があったにも関わらず、役所もメーカー(日立)もまったく責任もとらなければ、発生した混乱を前向きに収拾しようという姿勢さえ見せない。
文部科学省は「ゆとり」の名のもとに学力低下を招くような教育カリキュラムを作成したが、作成した役人本人はバカになることを回避するため国のカリキュラムにとらわれない私学に自分の子供を通わせ知らんぷり。
大阪府は多額の債務を抱えているのに、それを再建しようと知事がひと言いえば、揚げ足を取るようなことばかり主張する。
裏金を作っても誰にもクビを切られない。
国や自治体に途方もない損害を出しながら、自らは高額の給与を受け取り、「給与削減」の話が出れば「公務員だって生活があるんだ」と一般市民には理解できないピントはずれなワガママを言う。

こんな無責任なことを役所がやっていれば、真面目な市民がいなくなるのは当然だ。

「正直者がバカを見る」

そんな世の中にならないために、これまでほとんどの日本人が努力して来たことを忘れてはならない。

政治評論家屋山太郎の新著「天下りシステム崩壊」は公務員制度改正基本法の成立に伴うお役人天国の終焉と、これまで役所があの手この手で作り出した独立行政法人・特殊法人という名の(彼らにとっての)打ち出の小づちの悪行を鋭く突いている。
役人とぐるになっているマスコミ、福田康夫や村山富市、鈴木善幸たちのような無能政治家。
特殊法人を受け皿に、公務員のピラミッド型人事制度を破壊しないように努める守銭奴の高級官僚たち。

書かれていることが全て正しいとは言えないけれど、相変わらずの切り口は痛快で学ぶことが多い。

~「天下りシステム崩壊 官僚内閣制の終焉」屋山太郎著 海竜社刊~