31日(土)。今日でもう1月も終わりです。月日の流れの速さに驚きます。わが家に来てから今日で126日目を迎え、竹踏み健康法の竹でくつろぐモコタロです
ちいーっす! 頭重いんで楽っす
閑話休題
昨日の日経朝刊のコラム「文化往来」は「モーツアルト全交響曲を2日で演奏」という見出しで、NPO法人日本モーツアルト協会が創立60周年を記念して3月7日、8日に開く「モーツアルト交響曲全45曲演奏会」を取り上げています モーツアルトの交響曲は番号でいうと第41番が最後ですが、番号なしの”新ランバッハ交響曲”などを含めると45曲になります 私は2日目の公演のうち三ツ橋敬子と井上道義がそれぞれ東京フィルを指揮する2つの公演(第31番~第41番)を聴きます
さてここで問題です 私は第31番から第41番まで何曲を聴くことになるでしょうか? 答えは11曲です、か? それは間違いです。答えは10曲です なぜなら交響曲第37番は存在しないからです 20世紀初頭まで交響曲第37番ト長調K.444として知られていた曲は、冒頭部こそモーツアルトの自筆ではあるものの、途中からヨーゼフ・ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンの手によって書かれたことが判明したからです
さて、上記のコラムによると、同協会の三枝成彰理事長は「モーツアルトは職人、ベートーヴェンは芸術家。14歳違いの2人の間にはヘーゲルの哲学が存在し、音楽の芸術としての価値観が生まれた。今回その差異を確かめる」と話しているとのこと
三枝氏の言う「14歳違いの2人の間にはヘーゲルの哲学が存在し」という意味が、私のような無教養な人間にはよく理解できません 無い知恵を絞って勝手に解釈すれば、貴族からの注文を受けて娯楽音楽を作曲してきた職人モーツアルトと、14年後に生まれ、より自由な立場から大衆のために作曲し芸術の域まで高めた芸術家ベートーヴェンの間には一段階上に上がる”止揚”が見られる、ということではないかと推測します つまり、三枝氏からすれば、バッハだろうが、モーツアルトだろうが、あくまでも職人に過ぎず、ベートーヴェンこそ音楽を娯楽から芸術に高めた偉大な作曲家なのだ、と言いたいのだと思います 私は三枝氏の主張を真っ向から否定するものではありませんが、バッハもモーツアルトも立派な芸術家だと思います それにしても分からないのは、「今回その差異を確かめる」と言っていることです。今回ベートーヴェンは聴かずにモーツアルトだけ聴いて、どうして”今回”その差異を確かめられるのでしょうか
閑話休題
本を5冊買いました 1冊目は三上延著「ビブリア古書堂の事件手帖6」(メディアワークス文庫)です 今回は太宰治の古書がテーマです
2冊目は柚月裕子著「最後の証人」(宝島文庫)です 新聞の書評でも好評でした
3冊目は中山七里著「七色の毒」(角川文庫)です この人の本は多様で面白いです
4冊目は連城三紀彦著「流れ星と遊んだころ」(双葉文庫)です。彼の作品はこのブログで「夜は鼠たちのために」を取り上げました
5冊目はマイ・シューヴェル ペール・ヴァールー共著「笑う警官」(角川文庫)です。この本は前々から気になっていた作品です
閑話休題
昨日聴いたCDはシューベルトの「弦楽四重奏曲第14番ニ短調”死と乙女”」です 演奏はウィーン・コンツェルトハウス四重奏団で、1950年の録音、つまり今から65年も前の録音です 明日クアルテット・エクセルシオのコンサートで聴くので、その予習です