富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

サークルの会場

2011年09月11日 | パソコンサークル

せっかくの9月のサークルも急な予定変更でご迷惑をおかけしました。

「ひだまり」がこうして、ショートステイにたずさわり、急な申し出にも対応して
受け入れてくれている現状は、外部のものとしても心強く、ひだまりの目指す方向として
応援すべきものと考えています。

ところが一方こうした状況から、サークルの活動拠点を「ひだまり」に置くことの限界が見えてきました。
個人的な思いから、ひだまりを離れると言うことが、「ひだまり」との一体感を求める上から
一定の距離が生まれることを危惧したりもしますが
ほとんどの会員さんにとっては、予定が未定であることは
サークルそのものの存亡にも関わって大きな支障になります。

好むと好まざるとに関わらず、サークルの会場を移すことは喫緊の問題です。

ネットにつなげる条件、会員が気兼ねなく寄りやすい場所などを考慮して
みんなのアイデアを求めたいと思います。

ここまで何かを作り上げたという成果には乏しいかもわかりませんが
築き上げたそれぞれのつながりとパソコンへの興味をこの時点で途切れさせたくないと思っています。


最近の「コトバ」

2011年09月11日 | Weblog

「コンプライアンス」・・・

それほど、日本人の中でこなれてはいないはずのこの外来語の直訳は「法令遵守」であり
法外な利息を取り立てていた消費者金融がばたばたと倒れ始める前にしきりに口にしていた言葉でした。
ただ法令を守るという意味だけではなく、企業や公的な立場にあるもののがとるべき「倫理」までもを指し示しています。
このほど、一人のタレントがテレビの前から去りました。
彼のことを才能アルタレントであるとか、言葉の天才などと持ち上げて、その引退を惜しむ声すらありますが
やくざや暴力団は法外の行為をはばからない集団であり、不当な利益のために何でもするでしょう。
その集団とつながりを持つことだけでも彼がおおやけにテレビで話す資格を持ち合わせてはいなかったし
彼がそういう連中に媚をうり、彼らの存在を肯定し彼らが「助けてくれた」と言うのなら
彼らの行為にも荷担していたことは事実である。
彼がいっかどそうに、テレビで説いて見せたこと、美談ですら「見せかけ」に過ぎないことを意味しています。
その種の団体は、「ボランティア」と真逆にあって、法外の利益に動く反社会的集団です。
そういう連中に「顔が利く」などという虎の衣を振りかざしていたのでしょうが・・・
「その程度」の見識しかなかったことが、情けない。
彼が関わりをもったことで、我々には直接見えなくてもヤクザに「見返り」が与えられたことは容易に想像がつく・・・・
テレビの中の世界すら、やっぱり闇の世界と結びつけた罪は相当に重い。
テレビはあの「なでしこ」の活躍をも映し出す、社会に開いた窓である。
彼は「この程度」のことで「引退する」のではなく、コンプライアンスに反してその責任から当然退場させられ
罪の深さに悔いるべき立場にあると断じる。

「引責辞任」・・・

またまた「ハチロなにがし」かの経産相が就任直後に「死のまち」だとか「放射能をうつす」などという
軽々しくも情けない見識の発言からやめる羽目になったと・・・マスコミはやかましい。
あいかわらず些末な話に多くの人々は「またか」と落胆してしまう。
もうこんな話は懲りたはずやし、ええ加減いやになる・・・マスコミの焦点がそこに集まるほど
国の行政もなにもかも停滞する。・・・見過ごせる話やないけど、この手の話は聞き飽きてしまった自分らがカナシイ
外務大臣の発言も大差なかった・・・「踏まれても蹴られても誠心誠意沖縄と向かい合っていく」
踏まれて蹴られているのは、どっちだという認識と
あくまでも「沖縄」とは対峙する側に立っている外務大臣は「沖縄」をどうとらえているのか?
日本の向こうに感じているように思えるのは僕だけだろうか・・・
県民の「基地をなくしてほしい」という「コトバ」を踏んだり蹴ったりしているととらえているのか・・・
言葉尻をとらえていたらキリがない・・・結果些末な問題に時間をとられて何も進まないのがオチだ・・・

そもそも「この程度」の見識で大臣になれることが間違っている。
彼はその失言から責任をとって、辞任するという。・・・・失言と言うよりも議員としての見識がない
見識のなさから来る、彼にとっては「当たり前」の発言にも見える。
もしもいっかど「責任」という言葉を軽々しく使うのなら、とっとと国会議員をやめてしかるべき「発言」であると思う。
増税を議論する前に、議員を徹底的に減らすことの方が急務にも思えてくる。

「被災地」・・・

東北の震災からもう半年が過ぎようとしている。遅々として進まない「復旧」から
その先にある「復興」のかけらも見ることができないまま「被災地」の秋が訪れようとしている。
国の先端で行政を行うもの、政治家や官僚の顔が見えずに、その責任を実感しているものは皆無に等しい
東電に至るまでとるべき責任のありどころにいるものすべて、あちこちに視線を向けて、よそ見を装って見えてくる。
そうした中で、豪雨にさいなまれた紀伊山地の惨状は、半年前にテレビで目撃した「大津波」に匹敵していて
コトバを呑み込む・・・・「この程度」の行政で対応できるのか・・・・
災害は場所を特定しない。今「被災地」とはどこを指すのか、東北や紀伊半島
国中に「被災した」地が広がっていくようにさえ感じられる。
予想に反して、被害の出なかったこの地で胸をなで下ろすどころか、「明日は我が身」を心底思う。
国の根幹が揺らいでいるときの大災害は、経済を壊し、社会に危機をもたらしている。
本来なら半年くれた「被災地」に復興需要があって、雇用が生まれ、前を向いていなければいけない時だったはず・・・・
深層崩壊したのは山の斜面ばかりではなく、国の根幹にもアルのではないか・・・