富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

どうにかなってしまったこの長寿の国の有様

2010年08月05日 | Weblog

世界に誇る長寿国の実態は、実際のところ
寒々しい・・・100歳を超える長寿の人の所在も
生死もわからずに、それを気にもとめずにいる家族と
世間のありよう・・・平均寿命などという数字のからくりは
こうした正体が見えない人の寿命が作り出しているように思えてくる。
寒々と人と人とのつながりを断ち切って、なお平然と
暮らし続ける命への希薄さが垣間見えてくる

折しも、明日は広島に原爆が投下され30万の人々が
一瞬のうちにとかされて絶命した日
いまなお、戦禍を引きずり、忘れようとしても決して消えることのない
家族への思いを抱えている人もいながら
一方で肉親の行方すら捜すことなく、死んだ人の年金をむさぼり
あるいは弔うこともなく、死への敬虔な思いすらもなく
人と人をつなぐ糸すらもとうにちぎっている家族も存在している。
コレガこの国なれの果てで、平和な国の中身なのだとしたら
ぞっとする。
ありもしない長寿をこしらえた「役所仕事」と
「プライバシー」などという都合のよい知らんぷりの口実が
人への無関心を増長させている。

隣国のコメントが痛々しい・・・この騒ぎを評して
家族が崩壊した国の行政のずさんさも
いい加減さも政治にイコールである。


「福祉」という言葉すらも空々しい
慌てて100歳以上の限定的な調査をし始める役所も役所で
実際は何十年も消息がつかめずにいる人は、数知れない。
100歳を超えているということだけが問題なはずがない
70歳を超えている人で消息のわからない人こそ調査の対象である。
100歳以上は役所仕事の都合のいい身勝手な境界線で
さっさとこの問題に幕引きしたいのだろう。
福祉というのならせめて70歳以上の消息を改めるべきではないのか・・・
きっと、「行旅死亡人」などいう行きずりの身元不明遺体が
いくつかの戸籍を重複させているのに違いないし
いくつかは「犯罪」かもしれない・・・・
戦争を経て、結果、行きずりに死を迎えて
弔われずに100歳長者にされている人が悲しい

あるいは死を隠して、年金をむさぼったものを放置していながら
書類の不備で受け取りを拒否されている人たちを思うとき
より切ない・・・そこんとこが
浮き彫りにされたニュースであり
国家という名ばかりの底の浅さがむなしい


検索エンジン:Yahoo!とGoogle

2010年08月05日 | インターネット

何か調べ物するのには、
インターネットにつないでWebサイトを見るということ自体が
もはや「あったり前」の時代になって、
「検索」などという言葉は老若男女を問わず
まだ、毛も生えない5,6歳の子供たちにとっても、
普通に使ってしまう日常語になってしまいました。

先日伝えられた日本国内における
「Yahoo!(ヤフー)」と「Google(グーグル)」の
業務提携ののニュースには
正直、驚きとある種の落胆する思いがよぎります。

ネットの検索のプログラムは、その方法から
主に「ロボット型」と「ディレクトリ型」に分けられています。
これを「検索エンジン」と呼ぶのですが、
ロボット型というのは、膨大なデータとから
ユーザが検索した履歴のデータを反映してその「検索語」をキーワードにして
あくまでも機械的に検索された数を順に呼び出してくる検索方法で
その代表格が Googleなのですが、その登場以来
あっという間に世界を席巻してしまいました。
その広告収入だけでも「兆」を 超える額を売り上げています
・・・ただ、検索ページに載せるというだけの広告なのに・・・
それに対してYahoo!は「ディレクトリ型」と呼ばれて、人手をかけて
人が判断して集めたサイトをそれぞれのカテゴリ(範疇)別に
区分けして検索語を元に検索結果を表示しています。
当然ながら、そのデータ量はGoogleの比ではありません
従って、同じ検索語を入力しても両者では食い違った結果を表していました。

ところが、日本のYahoo!(代表が孫正義さん)がこのたび、検索エンジンを
Googleのエンジンに乗り換えるという決断をしたのです。
ということは国内ではどちらを使っても
同じような検索結果が出てくるということを意味しています。
その結果Googleの検索エンジンは日本国内で
ネットを利用して検索する人々の利用の90%を独占してしまいます。
※そうした独占的な状況を危惧してアメリカでは、衰退したYahoo!はGoogleではなく
マイクロソフトとの提携を選択しました・・・

たとえばそれは朝日新聞と毎日新聞が一体化するようなものでしょうか?・・・
けども日本の新聞にはどこもそれほどもともと差異がなく
残念なことにジャーナリズムそのものが、そもそもステレオタイプでしかないようですが・・・
このニュースに大きな不安を感じるのは情報の一元化に他なりません。
たとえば、テレビの報道がどうしても作り事のように映るのは
インタビューでこたえているいくつかのコメントは、
結局編集されているものであり
決してすべての世論を代表しているとは思えませんし
賛否の両論を正確に伝えていると思い込んだりできません。
テレビの側に都合の悪いコメントを放映することはないでしょう。
何かの賛否を問うときも、操作してしまうことが大いにあり得るだろうし
何かの料理を食べているコメントは、必ず「おいしい!」と
こたえているものを映し出します。
おもしろくもない番組に笑い声すら発しないけど、
たいそうに笑い顔できるというだけで
「関根勤」などという無才能な人がやたら出演しています。おもろいと思わせるために・・・

何事も対局があって、対峙する論理があってこそ選択肢が生まれ
人それぞれの判断が生まれます。
どれもこれも変わらずに大差なく、物事はこうあるべきやとか
慣例に従って、などとせまっくるしい考えに凝り固まってると、
官僚の知恵頼みに陥って、やがていかにも頼りないこの国の政治はこうした
一元化から生まれ出たのだと思います。
二極化などといいながらも新党を旗揚げしたものそのものも
旧来の政治家であり、その二世であったり、えらそうに論をぶつわりに
彼らはそのとき何もできなかった連中に他ならなくて・・・
結局は同じ穴のムジナに過ぎないと
今頃多くの人が政権交代にも、新党にも大きな失望を感じています。

何かを変えるということは、個性と特徴が対立して
そこから、よりいいものを生み出すエネルギーが生じるものです。
「こういうもんや」とか「こうあるべきだ」と単に決めつけた毎日の繰り返しは
相変わらずの日々の積み重ねでしかありません。
慣例や事例にとらわれて、行き詰まっているのが日本の現状でもあります。

できればYahoo!はYahoo!のままでよかったんじゃないんでしょうか・・・
あるいはGoogleの対立軸でないといけないんじゃないんですか・・・孫さん