富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

世界陸上

2007年08月25日 | Weblog
甲子園、サッカーのオリンピック予選
のあとに世界陸上

飛ぶ走る投げる それがピュアだけに
より惹きつけられる。

が、「織田裕二」だけはホンマに要らんし
独りよがりの存在が不快
なんで、あんなんのコメントや
サルでも見せない小芝居ががった仕草を見ないといけないのか
人がしゃべってるときに、いきがってしゃべるモンやさかい
余計ノイズに拍車がかかって、気分が悪い


日本のスポーツ放送のバラエティ化は、
バレーボールをはじめ
全くかみ合わない女子アナと織田の
どうでもええような、独りよがりなコメントで
この「世界陸上」すら軽々しくものに扱われ
程度が低く思えて仕方ない


スポーツが伝えるモノは、政治でもかなわない
尊厳さを持っているのに・・・・

「普通」の高校???佐賀北

2007年08月25日 | Weblog
今年の甲子園は、佐賀北の劇的優勝で幕を閉じ
相変わらず、この快挙の「普通」の高校は
新聞やテレビにもてはやされています。
ついこの間まで、テレビも新聞も
「特待生」という問題をはやし立てていながら・・・・

僕自身が天の邪鬼のせいなのか
その過熱報道とその時だけの話題に飛びついてるありように
閉口してしまうときがあります。
この結果は、各地の「特待生」を擁する強豪校の
不振と無縁では無いでしょう。


思い起こせば、今大会の前にあった「特待生」の
問題は、旧態依然とした「高野連」などという
前時代的な組織に、野球に取り組む高校生達が振り回されて
始まった予選です。

大人達の見て見ぬふりと大人達の利益のために、
「野球留学」した高校生は将来の不安と
罪の意識みたいなモノを、呼び覚まされ
モチベーションも落ちた中で、
それがまるで彼らの罪で、あたかも悪いことしたように
追い込まれているように見えたもんです。


コトが表面化したことによって
未だに「高校野球」だけを神聖化する「高野連」に
その「弊害」を押しつけられてしまいました。
「高野連」などというどうでもいいような組織は
今まで明らかに見て見ぬふりをしてきました
他のスポーツでは認められている「特待生」を
戦後間もない時期の規約を改正することもなく
その議論を置き去りにして建前だけは、否定してきたのです。

よくよく考えてみれば、佐賀北は県内有数の「進学校」
などというレッテルを公表し、
それをもってどこが「野球校」と違う「普通」の高校なのか
あいまいに思えます。

野球でプロを目指すのも、受験対応の「進学校」にいって
いい大学めざし、いい会社や
官僚にでもなるというのも、やり方において全く違いません

佐賀北ナイン自身が僕たち「普通」の高校が・・・
という「普通」という意味は、この場合
「特待生」のいる「野球校」だけを名指ししているのでしょう。


人は人なりに生きていくわけですから
多様化とは、その個性によっていろんな道があります。

特待生という野球のあり方を否定するのなら
他のスポーツでは認められている事実はどういう風に説明出来ますか
「文武両道」?
なにもかもの万能を、スポーツも出来
勉強も出来るコトこそが唯一の評価に値するのですか
いろんなあり方を求めて、認めることこそが
「多様化」という本質やと僕には思えます。
少なくとも「戦後のレジューム」などというモノの本質は
この国のあいまいさの元である
「一様化」からの脱却にあると考えます・・・・

「普通」などという言い方・考え方こそ、あいまいで
意味を持たないのではありませんか?
生き方に標準があるわけないのですから
「普通」でありたいと思うことよりも
自分なりに生きるというコトを認め合うコトこそが
今のありようだと思います。
良くも悪くも無いことをあえて「普通」などというのなら
それこそ、なんの意味を持つのでしょう。

そのことを見れば、例えば「高野連」なるものを
組織している連中も多くの疲弊した官僚組織を担う連中も
勉強していい大学に入って、
それでいいとしてきた結果が今の社会のありようであって
今更いうのもなんですが、「勉強」出来る連中の
意識の低さとか価値観に疑問を抱きます。

例えば「イチロー」に代表されるように
「野球」をかてに子供達に夢やあるいは勇気を与える
ありようと、比較にはあたらないでしょうが
何がどういいのか。なんのために生きるのか
何を目指すのか・・・


そうした議論や目指す社会のビジョンが無いままに
一方的なバッシングをうけた
「野球校」の戸惑いと疑心暗鬼の戦いブリが
「普通」では無いはずの「普通の高校」の優勝に
つながってるんやと僕には見えてるんですが・・・