茶のもてなしの場で失敗が起きるのは、茶をたてているその時ばかりではないらしい。<茶の湯すぎて和らぐ時にこそ上手下手あれ>。江戸期の賢人の言葉を茶道研究者筒井紘一さんの著書に教わった。誤りは、茶事が済んで緊張を解いたときに現れると▼コロナ禍の中で東京五輪が幕を閉じた。終わったと緊張を解く時とは思えない閉幕だろう。開催が感染に対する気の緩みにつながったと指摘されている。和らいだときに、さらによからぬ事態が現れないか、不安が残る▼選手の活躍は開幕から最終日まで見事だった。同感の方は多そうだが、数多くのメダル獲得に何度もじんとなった。サッカーや陸上競技のリレー、マラソンなどメダルに及ばなかった選手たちからは大勝負の醍醐味(だいごみ)を見せてもらった気がする▼閉会式を見ながら、いい大会であったと和らげる大会であれば、どれほどよかったか▼振り返ると、招致をめぐる金銭疑惑があり、開催経費が膨張した大会にもなった。理念を疑わせる事態も相次ぎ、選手第一とは言い難い、猛暑の下での日程は、競技に影響を与えている。コロナ禍を離れた問題も、たくさん出た大会である▼簡素に、選手本位に回帰し、政治の影響からも脱して…五輪再生の転機にしなければならない大会であるはずだ。主催者は早くも成功を口にしているが、緊張を解いている時ではないだろう。
ロンドン北部の小さな公園に「フィリップ・ノエルベーカー平和庭園」と呼ばれる一角があるそうだ。英ニュースサイトの「インサイド・ザ・ゲームズ」によると、一九八二年に他界したノエルベーカー卿の平和への貢献を顕彰している。園の扉には、ハトの装飾が施され、桜も植樹された。広島と長崎で被爆し亡くなった人への追悼の思いが込められているという▼存命中、日本で今の時期に五輪があれば、卿はより脚光を浴びただろう。二〇年五輪の陸上競技1500メートルで銀メダル。のちに軍縮に取り組みノーベル平和賞を贈られた人だ▼広島を何度も訪れ、「この核の時代に、人間にとって大きな希望は、オリンピック運動があるということだ」(『あの一言はすごかった!スポーツ編』)の言葉も残した▼きょう広島原爆忌。国内開催の五輪と初めて重なる。卿も言う五輪の精神を背に、広島から発せられる核のない世界への願いは響こう。五輪で黙とうしないのが残念だ▼前回東京五輪は復興を示す大会でもあった。<ヒロシマの川の/透きとおる水底に/ふとみつけた/小さな骨/ふさふさとした黒髪の少女か/つぶらな瞳の少年か>。同じ時代の深川宗俊さんの詩は、消えていない跡を語り、骨に<平和へのちかい>をしている▼骨は見えなくても、核兵器はいまだ消えておらず、広島からの平和への願いはまだ重い。
前回の東京五輪を知る方の中には、ヘーシンクよりアベベより、記憶に残る海外の選手はチャスラフスカという意見もあろう。体操女子で名花とたたえられた人気の金メダリストが、のちに長い不遇の時を過ごしたのは、知られている▼大会後に起きた母国チェコスロバキアの自由化運動をチャスラフスカさんは支持し、体制ににらまれた。弾圧であろう。職を失い、社会からはじき出されたそうだ。「魔女狩りが始まっている」と恐怖を語った言葉も残る(工藤美代子著『チャスラフスカの証言』)▼国の顔にもなる優秀な選手が反体制的であることは、独裁的な体制や人物には耐えられないことらしい。似たような事態は起きている▼今回の東京五輪で、母国ベラルーシへの帰国命令を拒み、亡命を望んだ陸上女子のツィマノウスカヤ選手もかつて、独裁的なルカシェンコ大統領の選挙の不正をめぐり、抗議をしたそうだ。帰国命令はコーチとのトラブルが発端らしいが、「魔女狩り」が始まる恐怖を感じたようである。ポーランドに向かうという▼母国では、夫も国外に出たと報じられた。拡大している民主化運動に対して、多くのスポーツ選手が支持を表明している国だ▼独裁的な国があって、国をこえて活躍する選手がいるかぎりこの手の事態は起きる可能性があるのだろう。現代の強権支配を五輪は映し出しているようだ。
一九六四年の東京五輪での選手団の活躍に心打たれたコメディアンの谷啓さん。日本選手団の上着をこしらえ、それを着て町を歩いたそうだ。選手団に間違われたかった▼閉会式の次の日、近所の銃砲店へ行った。四年後のメキシコ五輪に射撃で出場する気だったそうだ。当時三十二歳。その後、熱は冷めたが、「やりすぎ」が分からぬではない。競技にすべてを懸け、躍動する選手たちを見れば、自分も何かという思いが少なからず、わいてくるか▼新型コロナウイルスの感染拡大が過去最悪のレベルにある。東京の新規感染者数はこのところ連日、三千人を超えている。政府の対策分科会の尾身茂会長の言葉を借りれば「今、火事が燃えさかりつつある」▼五輪を開催できるぐらいだから大丈夫だろう。そんな気の緩みや政府の一貫性のない対応が今の事態を招いたことは否定しにくく、それを思えば中っ腹にもなるが、今は「火事」を消すことを第一に考えたい。医療崩壊だけは何としても食い止めねばなるまい▼もう一度、気を引き締め、対策の基本に立ち返るか。残念ながら不要な外出はできるだけ控えるしかなさそうだ▼逆境を乗り越え、活路を見いだす。谷さんではないが、テレビの向こうの五輪選手を励みにして感染対策に一人一人が取り組んだ方がよさそうである。努力なしに火は消えまい。ガンバレ、ニッポン。