農林業における人々の活動の低下していることにより、イノシシなどの野生動物の生息域が拡大しています。2018年の野生鳥獣による農作物の被害額は、158億円になっています。中山間地域の衰退による耕作地放棄の増加が、イノシシなどに好適な環境を提供しているのです。一方、農作物への被害を与えるイノシシ肉の商品化は、戦後全国的に盛んになっています。イノシシ肉の取引価格は、1 kg当たり4000円から6000円程度で行われています。イノシシなどの大型野生動物は、害獣的側面だけでなく収入源として肯定的に受け止める側面も求められる時代になってきたようです。農林業の生産体系の中に、野生動物の被害防除技術や管理技術、そして利益を見出す技術が蓄積されてきませんでした。そろそろ、この害獣をビジネスの種にする工夫も必要なのかもしれません。
日本では、過去1世紀ほど野生動物の被害がそれほどない状態で農林業が営まれてきました。明治時代以降、野生動物は乱獲状態にあり、生息数は著しく減少し分布も限られていたのです。たとえば、対馬藩は1700年から9年をかけて、対馬全域の8万余頭のイノシシを全滅させました。さらに、1890年ごろまで、日本の農家には150万挺火縄銃があり、イノシシ猟に使われていたのです。この動物の捕獲数は、1950年半ばまでは3万頭でした。その後は8万頭になり、1990年ごろには10万頭を超えて、令和になるとイノシシの捕獲数は令和になり50万頭になっているのです。その理由は、捕獲機器の高性能化です。高性能の猟銃、能力の高い猟犬、トランシーバー、ワイヤー式の罠などの猟に必要な機器が充実してきたのです。さらに、道路網の発達や発信器の利用により、ワナを大量に設置することが可能になりました。ある面で、自動的にイノシシを捕獲する仕組みができたとも言えます。
猟には、対象となる動物の性質を理解しなければなりません。秋の気配を感じ始める頃、クヌギやアベマキの木がドングリを落とすようになります。この落ちたドングリを求め 、イノシシが山から下りてきます。もっとも、山に多くドングリなどの食べ物があれば、安全な山に住むことになります。秋はイノシシが冬に備えて、ドングリなどの高栄養の食べ物を確保し、体に脂肪を蓄積させる時期になります。最近は、暖冬が続いています。積雪が苦手なイノシシには好都合であり、北に生息地を拡げているのです。そのために、今までイノシシの害のなかった東北地方にも被害が出るようになってきました。この動物は雪に弱く、積雪30cm以上で積雪期間が70日以上になると生息が困難になります。特に、子どもは寒さに弱く、寒さと餌の多寡により、生息数が制限されます。これまでイノシシが生息していなかった地域に進出してきた場合、この地域は適切な対策が取れないことが多いようです。サツマイモ、ジャガイモの耕作地に入り、一夜にして農民の収穫物を食べ尽くす光景は凄まじいものあります。
このイノシシが、福島県にもやってきました。その生息地が、原発事故で立ち入りが制限されている帰還困難地区になっているのです。この困った動物にも、学術の上では役にたつことがあります。福島大学の環境放射能研究所は、帰還困難地区に生息するイノシシとヘビ、そして影響の受けていない地区のイノシシとヘビの比較を行いました。原発事故に伴う帰還困難地区において、生息するイノシシやヘビの放射能による被曝の影響を調べたわけです。慢性的に帰還困難地区に生息するイノシシやヘビについて、そのDNA損傷を調べました。イノシシのDNA損傷の指標となる二動原染色体については、被ばく線量が多い個体であっても、増加傾向はないという結論でした。さらに、帰還困難地区に生息するイノシシやヘビについて、これらの動物のストレスの増加調査も行っています。その結果は、環境ストレスの指標となる染色体の一部テロメア長の変化が確認されなかったというものです。イノシシやヘビも、低線量被ばくによるDNA損傷も環境ストレスの変化が確認されなかったのです。原発事故に伴う帰還困難地区に生息するイノシシやヘビのレベルでは、DNA損傷や環境ストレスの影響が見られなかったということです。この研究成果は、国際的な論文誌Environmental International に掲載されるようです。
福島県の放射線衛生調査は、県民の低線量の事実とその後の急速な放射能の自然減衰を明らかにしています。チェルノブイリ黒鉛炉の作業員の被曝線量は最大で14Sv(14000mSv)になります。この高線量だけでなく、この地区に平均寿命の低下という被害があるのです。チェルノブイリ事故前、ウクライナにおけるルジニー地区の平均寿命は75歳でした。事故後は、65歳にまで低下しており、特に高齢者の死亡率が高まっていることが問題になったのです。福島の原発事故地区の平均寿命は、ここまでの急激な低下を示していません。むしろ、日本の平均的寿命で推移しています。チェルノブイリ地区の短命の原因は、放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られているのです。この理由を明らかにするために、福島大学は慢性的に帰還困難地区に生息するイノシシやヘビについて、そのDNA損傷とストレスを調べたわけです。結果として、帰還困難地区に長年生息した動物にはDNA損傷とストレスの形跡がなかったことが明らかになったというわけです。ある意味で、チェルノブイリの事故と福島の原発事故には、明確な違いがあったことを示しています。
再度、イノシシの本題に入ります。一般的にいえば、最高級のブランド牛でも精肉したばかりのものは美味しくありません。エイジングとよばれる熟成の工程を経て、初めてブランド牛にふさわしい味わいになります。エイジングの間に、肉に含まれるタンパク質分解酵素が肉の線維がゆっくりと分解していきます。分解を経て肉質が柔らかくなり、アミノ酸が遊離するために、肉の旨味が引き出されるわけです。野外で捕獲されるイノシシの肉は、エイジングすることが困難でした。野外で仕留めてから、1時間ほどのうちに血抜きをしないと、どうしても臭いが残ってしまうのです。最近はイノシシの捕獲現場で、食肉処理ができる移動車両が活躍しています。以前は困難だった処理や加工が、移動車の出現によって、市場にすぐに出せるまでになってきました。ある狩猟捕獲者と料理人を兼ねる職人の方は、捕獲したシカやノシシをすぐに血抜をすることができます。この処理の終わった肉を熟成させて、地元や東京などのレストランに提供する方もいます。熟練者が捕獲し処理すれば、良い肉ができる環境が整いつつあるわけです。
さらに、面白い工夫がされるようになりました。シカやイノシシなどのジビエ肉の流通を管理するクラウドシステムが開発されたのです。このジビエクラウドシステムは、イノシシやシカの捕獲や加工の日時、捕獲者、処理の状況、加工工場名をクラウドで管理するというものです。QRコードを作成して、製品に貼って流通させ、トレーサビリティー(生産履歴の追跡)体制を整え、消費者に安全安心をアピールできます。ジビエのトレーサビリティーを整えることで、情報の共有が可能になります。ジビエ肉の品質の情報とその生産量が、このシステムを使用することで国民の間で共有できることになるわけです。不都合な真実ですが、農山村が衰退すればするほど、イノシシは跋扈します。そのイノシシを、商品として媒介するシステムができつつあるわけです。
さらに最近の技術の進歩には、目を見張るものがあります。培養肉の開発です。ある企業は、2019年に培養肉を使用するレストランへの卸売りを始めます。まず、生きた鶏から細胞を採取します。これを、アミノ酸やビタミンなどの栄養素を含む培養液で育てるのです。鶏だけでなく、和牛の細胞を使う培養肉の開発も、行われるようになっています。鶏や牛などの動物は、口から栄養を補給して育ちます。一定の動きを伴いますので、消費エネルギーも多くなります。つまり、餌を多く食べることになるわけです。培養液で細胞を育てる場合、運動をする必要がありません。培養液の中で育つために、2~3週間でナゲット用の肉にすることが可能です。このナゲットを使って、ミシュランレベルの料理を提供する和食店出てくるようになりました。従来の畜産業と比べて、土地や水の使用量を、9割以上も節約できるのです。なおかつ、美味しい肉料理を提供できるわけです。野生のイノシシのジビエ料理を楽しむのも「良し」、培養肉としてのイノシシの肉を楽しむのも「良し」という時代になってきたのかもしれません。イノシシの肉に合うワインを飲んでみたいものです。